第31話
文字数 2,326文字
トン、トン――。
いきなり、背後から肩を叩かれて、男はギョッとして立ち止まった。
「おまえが手に持っているそれ、いったい、どうする気だ?」
のもならず、そう声をかけられて、ハッとして男は手にしていたモノをすばやくブルゾンの内ポケットに隠した。
そうしておいてから、男は恐る恐るうしろを振り返った。
いかつい眉をした、やけにガタイの良い男が立っていた。
だれ⁈
心のなかでつぶやいて、男は首をひねった。
見知らぬ男であった。
「いま隠したヤツで、前を歩く女性たちを襲うとしていたのか?」
そういかつい眉の男に指摘された彼は一瞬ギクッとして、目を泳がせた。
が、すぐに平静を装うと、「そ、それはそうと、オ、オタク、どこのだれ?」と尋ねた。もっとも、平静を装ったつもりでも、心の動揺は隠せなかったようだ。幾分、口調に乱れがあったのが、それを如実に物語っていた……。
その一部始終を、息もつかずにジッと見守っていたいかつい眉の男は内心確信してほくそ笑むと、「わたしは、こういう者だ」と毅然とした顔と口調で告げて、背広の内ポケットから何かを取り出し、それを、男に見せた。
ただ、あまりに顔面近くにそれが提示されたものだから、男は一瞬鼻白んだ。それでも、渋々ながら、身体を少し後ろにそらし、それに目をやった。
えーと――めんどくさげに、その身分証らしきに目を通した男は、そこに記されている文字を声に出してつぶやいた。
「なになに、警視庁捜査一課七係 警部 矢吹三郎……って、あ、あんた、け、刑事!!!」
矢吹を二度見した彼は「あ」と心のなかでうめいて、可笑しいくらいに、ほとんど飛び上がった。
どうして、ここに刑事が?
男は内心疑心暗鬼になって、目を瞬いた。
一瞬、重苦しい沈黙――。
黙って対峙する二人の間にはその実、目に見えない闘志の火花が飛び散っている。
沈黙の居心地の悪さから身をかわすように、男の方から先に、口を開いた。
「け、警視庁の刑事さんが、い、いったい、わたしに何の用があるというんですか?」
鷹揚に、矢吹は「社員旅行で、こちらにいらっしゃってるとお聞きしましたが……」と男の質問をはぐらかすように言った。
「え……あ、ああ、そ、そうですよ」
男は矢吹をにらみつけて、小さくうなずいた。
でも男はすかさず、「い、いや、そうじゃなくて」とムキになって反論すると、「何の用ですかって、こっちは訊いてるんですよ?」と気色ばんだ。
だからといって、矢吹は意に介さない。それより、彼は黙って、男に真っ直ぐな眼差しを向けるばかり。
矢吹の、この氷のごとく冷ややかな眼差し――それに射すくめられたか、男は慌ててそっぽ向いた。
「怖いんですか、わたしが?」
冷ややかに鼻で笑って、矢吹は、遠くを見ている男に問いかけた。
ハッとして男は、ふたたび、矢吹に眼差しを戻す。
相変わらず、氷のごとく冷ややかな眼差し。
それを見た男はなぜか無理して微笑んで、「わ、わたし、急ぐんで」と口早に告げて、その場から、にわかに立ち去ろうとした。
「ちょっと、待った!」
歩き出そうとした男の腕を、矢吹の太い腕がぎゅっとつかんだ。
「い、痛いじゃないですか。放してくださいよ。わたしが何をしたって言うんですか」
声を荒らげて、男は訴えた。
「何をしたかって? ふん、まあ、いい……とにかく、これを!」
そう言うが早いか、矢吹は、さっき男がブルゾンの内ポケットに隠したモノをいやおうなしに取り上げた。
「あ⁈ 何をする、そ、それは!」
なるほど、ハンマーか。それも、小型ながら、ズシリとした――。
矢吹は内心そうつぶやきを洩らすと、「さっそく鑑識に回させてもらうぜ、ふふふ」と不敵に笑った。
「や、やめろ……そ、それは……」
男のことばを遮るようにして、矢吹は「ここではなんだから」と、冷たく言うと、道の向こうに止まっている一台の車を指さして、「あれに乗ってもらいましょうか」とつかんでいる男の腕を改めてグイっと引っ張った。
「え! あ、あれって……」
その車を見た男は憮然として、絶句した。
有無を言わさず、広島県警のパトカーに乗せられた男は、社員旅行で訪れていた宮島から、広島城近くにある県警本部に連れていかれた。
「いったい、これは、どういうことですか? と、とにかく、べ、弁護士を呼んでください、弁護士を。弁護士がくるまで、わたしは一切口を開きませんから」
男は、必死の形相で訴えた。
けれども、矢吹はそんな彼など歯牙にもかけず、取調べ室から、ぷいと無言で出ていった。
それから、矢吹は何を措いてもさしあたり、男を東京に移送する煩雑な手続きにとりかかるのだった。
こうして、男は広島の警察本部から、近藤結花殺害事件の帳場が立っている東葛西警察署に移送された。
ついに真犯人逮捕か――深夜にもかかわらず、署内が、にわかに色めき立つ。
そこにまた、急遽、安河内連と山本浩子も駆けつけた。遠路はるばる、広島から。
蓮は昨夜、東京にいる矢吹に電話を入れて、こう告げていた。
「警部、わたし、犯人がわかっちゃったかも」と、どこかお茶目に――。
「はい⁈」
矢吹は目をパチクリさせて、「それ、どういうことですか、安河内先生?」と聞き返していた。
「いま、犯人は宮島にきていますわ。社員旅行でね……」
「み、宮島に、犯人が……」
「ええ。そしてわたしたちも――あ、わたしの編集担当者の山本浩子さんとわたしもいま、宮島にきています」
「や、安河内先生――」
矢吹は昨夜、明日の朝一番の飛行機で自分もそちらに向かうんで、くれぐれも無茶をなさらないでくださいよ、先生、と蓮に口酸っぱく告げて電話を切っていたのだった。
つづく
いきなり、背後から肩を叩かれて、男はギョッとして立ち止まった。
「おまえが手に持っているそれ、いったい、どうする気だ?」
のもならず、そう声をかけられて、ハッとして男は手にしていたモノをすばやくブルゾンの内ポケットに隠した。
そうしておいてから、男は恐る恐るうしろを振り返った。
いかつい眉をした、やけにガタイの良い男が立っていた。
だれ⁈
心のなかでつぶやいて、男は首をひねった。
見知らぬ男であった。
「いま隠したヤツで、前を歩く女性たちを襲うとしていたのか?」
そういかつい眉の男に指摘された彼は一瞬ギクッとして、目を泳がせた。
が、すぐに平静を装うと、「そ、それはそうと、オ、オタク、どこのだれ?」と尋ねた。もっとも、平静を装ったつもりでも、心の動揺は隠せなかったようだ。幾分、口調に乱れがあったのが、それを如実に物語っていた……。
その一部始終を、息もつかずにジッと見守っていたいかつい眉の男は内心確信してほくそ笑むと、「わたしは、こういう者だ」と毅然とした顔と口調で告げて、背広の内ポケットから何かを取り出し、それを、男に見せた。
ただ、あまりに顔面近くにそれが提示されたものだから、男は一瞬鼻白んだ。それでも、渋々ながら、身体を少し後ろにそらし、それに目をやった。
えーと――めんどくさげに、その身分証らしきに目を通した男は、そこに記されている文字を声に出してつぶやいた。
「なになに、警視庁捜査一課七係 警部 矢吹三郎……って、あ、あんた、け、刑事!!!」
矢吹を二度見した彼は「あ」と心のなかでうめいて、可笑しいくらいに、ほとんど飛び上がった。
どうして、ここに刑事が?
男は内心疑心暗鬼になって、目を瞬いた。
一瞬、重苦しい沈黙――。
黙って対峙する二人の間にはその実、目に見えない闘志の火花が飛び散っている。
沈黙の居心地の悪さから身をかわすように、男の方から先に、口を開いた。
「け、警視庁の刑事さんが、い、いったい、わたしに何の用があるというんですか?」
鷹揚に、矢吹は「社員旅行で、こちらにいらっしゃってるとお聞きしましたが……」と男の質問をはぐらかすように言った。
「え……あ、ああ、そ、そうですよ」
男は矢吹をにらみつけて、小さくうなずいた。
でも男はすかさず、「い、いや、そうじゃなくて」とムキになって反論すると、「何の用ですかって、こっちは訊いてるんですよ?」と気色ばんだ。
だからといって、矢吹は意に介さない。それより、彼は黙って、男に真っ直ぐな眼差しを向けるばかり。
矢吹の、この氷のごとく冷ややかな眼差し――それに射すくめられたか、男は慌ててそっぽ向いた。
「怖いんですか、わたしが?」
冷ややかに鼻で笑って、矢吹は、遠くを見ている男に問いかけた。
ハッとして男は、ふたたび、矢吹に眼差しを戻す。
相変わらず、氷のごとく冷ややかな眼差し。
それを見た男はなぜか無理して微笑んで、「わ、わたし、急ぐんで」と口早に告げて、その場から、にわかに立ち去ろうとした。
「ちょっと、待った!」
歩き出そうとした男の腕を、矢吹の太い腕がぎゅっとつかんだ。
「い、痛いじゃないですか。放してくださいよ。わたしが何をしたって言うんですか」
声を荒らげて、男は訴えた。
「何をしたかって? ふん、まあ、いい……とにかく、これを!」
そう言うが早いか、矢吹は、さっき男がブルゾンの内ポケットに隠したモノをいやおうなしに取り上げた。
「あ⁈ 何をする、そ、それは!」
なるほど、ハンマーか。それも、小型ながら、ズシリとした――。
矢吹は内心そうつぶやきを洩らすと、「さっそく鑑識に回させてもらうぜ、ふふふ」と不敵に笑った。
「や、やめろ……そ、それは……」
男のことばを遮るようにして、矢吹は「ここではなんだから」と、冷たく言うと、道の向こうに止まっている一台の車を指さして、「あれに乗ってもらいましょうか」とつかんでいる男の腕を改めてグイっと引っ張った。
「え! あ、あれって……」
その車を見た男は憮然として、絶句した。
有無を言わさず、広島県警のパトカーに乗せられた男は、社員旅行で訪れていた宮島から、広島城近くにある県警本部に連れていかれた。
「いったい、これは、どういうことですか? と、とにかく、べ、弁護士を呼んでください、弁護士を。弁護士がくるまで、わたしは一切口を開きませんから」
男は、必死の形相で訴えた。
けれども、矢吹はそんな彼など歯牙にもかけず、取調べ室から、ぷいと無言で出ていった。
それから、矢吹は何を措いてもさしあたり、男を東京に移送する煩雑な手続きにとりかかるのだった。
こうして、男は広島の警察本部から、近藤結花殺害事件の帳場が立っている東葛西警察署に移送された。
ついに真犯人逮捕か――深夜にもかかわらず、署内が、にわかに色めき立つ。
そこにまた、急遽、安河内連と山本浩子も駆けつけた。遠路はるばる、広島から。
蓮は昨夜、東京にいる矢吹に電話を入れて、こう告げていた。
「警部、わたし、犯人がわかっちゃったかも」と、どこかお茶目に――。
「はい⁈」
矢吹は目をパチクリさせて、「それ、どういうことですか、安河内先生?」と聞き返していた。
「いま、犯人は宮島にきていますわ。社員旅行でね……」
「み、宮島に、犯人が……」
「ええ。そしてわたしたちも――あ、わたしの編集担当者の山本浩子さんとわたしもいま、宮島にきています」
「や、安河内先生――」
矢吹は昨夜、明日の朝一番の飛行機で自分もそちらに向かうんで、くれぐれも無茶をなさらないでくださいよ、先生、と蓮に口酸っぱく告げて電話を切っていたのだった。
つづく