第3話

文字数 2,859文字

「ふぅ……」

 私はここを訪れては壁打ち場から目を逸らすようにして、砂場とブランコを真正面に落書きだらけのこの長椅子に腰かける。
 壁打ち場には平日の昼間、サボリと思われるサラリーマンが車を道路の端に停めて、トランクからガサゴソとラケットとボールを引っ張り出しては、ストレス発散とばかりにそこへ向かって行く姿を見かけ、夕方は夕方で、子供達が汗をびっしょりと掻きながら夢中でラケットを振っているところを目にしたりする。

「……」

 怪我をしてからそれを見る度に思う、私の中に根付いた『テニスは好かん』という気持ち。
 そして今日も、いつものように誰かが壁打ちしている姿を一瞬だけ視界に入れたあと、二本の松葉杖をその椅子にもたれ掛けさせながら右脚を軽く投げ出して、午後の少しだけ暑い日差しの中、反射して眩しい誰もいないブランコを眺めていた。
 
 ――束の間、私は嫌悪する思いのままに、その音が気になり目の端に収める。

『あり得ない』
 
 そう思ったからだ。
 余りにもバウンドとインパクト、それに壁に当たる音が一定のリズムを刻んでいたからだ。
 私は怪我をする前までも暇を見つけてはここを訪れフォームチェックに時間を費やしたり、足りないと感じたその日の練習量を調整するように壁打ちをしたりしていた。
 はっきり言って、私が使用者の中で誰よりも一番上手いと思っている。
 けれどもその私でさえ、あれだけ一定の音を奏でさせたことは、今まで一度もない。
 その理由は、ここの壁打ち場は無いよりはましという程度の代物で、壁自体も決してフラットではなく、足場も砂埃や小石でバウンドが安定しないのだ。
 だからその音を刻む為には、壁にピンポイントで狙いを定めて、返ってくるボールのバウンドの場所も同じにしない限り、有り得ない。
 
 なのに――
 
 気付けば私は、吸い込まれるように体を捻りながら、顔をしっかりと壁打ち場の方へと向けていた。

「……」

 見ると一人の男の子が、テニスシューズにジーンズ、腕まくりしたオフホワイトのトレーナー、熱くなって脱いだのだろう、ミントグリーンの薄手のパーカーと思われるものを錆び付いて変色しているフェンスの網目に突っ込んでいた。
 私と同じ年くらいだろうか、それとも少し下だろうか。
 やや華奢に見える後ろ姿と、まだ二ヵ月弱とはいえ、少しは白くなってきた私と比べる必要がないほどに色白な腕。
 その子がボールを壁に向かって、同じ場所にコントロールしている……しかもその高さは、お父さんがよく言っていた高さだ。
 そしてその跳ね返ってきたボールを腰の打点でズレのない動作でフォアハンドストロークとして捉えている。

『なん……あれ……?』

 それはまるで、素振りをしているその子に、ボールの方が合わせているかのようだった。

「……」

 理解の出来ない状況を目の当たりにして、私は暫し茫然となる。
 
 そして――『なに様なん!?』
 
 私が心を掻き乱されながら目にしたのは、ラケットに施されたステンシルマークだった。
 その子が使っているバボラットというメーカーのラケットに張ってある、黒いガットの下の方に、二本の白い線が引かれていた。
 それは選手が使用するラケットやガットが、そのメーカーと契約していることを意味するものだ。

『私だって、契約してもらえんかったとに……』

 私はずっとヨネックスを愛用していたのだが、やっと去年の夏の大会後に「来年、高校でレギュラーになったら契約しちゃあよ」と、メーカーの人から葉っぱを掛けられたばかりだった。

『……?』

 けれどよく見ると、その子の使っているラケットは最新のモデルじゃない。
 多分、あれは二~三年前のモデルの筈。
 それにシューズも同じメーカーだったけど、これも同様だ。
『契約しよったら、新しいのば支給されて、それ使えて言われるはずなんやけどね。なんでなんやろ? 契約切られたんかね……?』
 この年頃で契約を切られるというのは、余程成績が悪かったか、素行不良。
 或いは自ら他のメーカーと契約を希望して、それが叶ったかぐらいしか、私には思いつかなかった。

「……ん?」

 そんなことを考えていたら、その子は急に打つのを止めて、ラケットヘッドを地面に付け自分の右手をグリップエンドに乗せて、(うずくま)るような体勢を作った。

『なん? どげんしたと……?』

 打ってもらえなかったボールが、捲れ上がったフェンスを通り越して、途中で角度を変えながら私の近くまで転がってきていたけれど、そんなことよりも、その子が気になって私は松葉杖を掴んで腰を浮かし掛けた――。
 するとその子はゆっくりと姿勢を起こして、落ち着きを取り戻したのか、ボールの行方をキョロキョロと探し始める。
 やがてこっちの方へ向くと、探し物を見つけて、私を視界に捉えながらラケットを持ち上げ、ゆっくりとそれを揺り動かした。

「そこの君! 下からでも上からでもいいから、そのボール、こっちにお願ぁい!」

「!?」

 人の心配を他所に、少年は屈託のない笑顔で私にボールを寄越せという。

『なぁんが、そこの【君】ねっ!? 艶つけてから!』

 私の髪はテニスをする為にセミショートよりも伸ばしたことがなく、この際だからセミロングにまで伸ばしてみようかと思っていたのだけれど、くせ毛がどうしても気になって直ぐに断念した。
 それに比べて手を振る度に流れる、あの少年のサラサラとした髪……でもよく見ると、私から向かって右側の一部分に、白いものが映った。
 何かが付いているようにも思えたのだが、やはり、あれは白髪だろう。
『まだ全然若いはずやのに、なんでなんやろ』と、そんなことを考えていた私だったけれど、少年が爽やかな笑顔で私の神経を逆なでする。
 何故なら……やっぱり許せないのは、あの壁打ちの上手さ!
 徐々に私が眉間に皺を寄せてその少年を敵視し出していると、何を思ったのか少年は、〈ボールはそこだよ!〉とでも言いたげに指を差し始めた。
 悪気もなく人を小馬鹿にするその態度に、ここで私は完全に頭に来てしまう。

「テニスげな……ばり好かんっ!」

 私はそう言って手にしていた松葉杖を一本だけにして、ボールの所までチョンチョンと片足で近づいて行くと、杖をゴルフクラブに見立ててテイクバックを作り、そこからブランコ目掛けて勢いよくショットを放った!

 ――けど、、、、

「ぁ……」

 会心だった筈の私のショットは、イメージしていたよりも遥かに可愛くコロコロ♪と転がって、煉瓦の低い段差にぶつかり、ポン♬と軽く宙に浮いたあと、敢え無くボトッ!と、バンカーに捕まってしまった。

「……」

 私は無性に恥ずかしくなって、出来る限り少年を見ないようにして俯き、もう一方の杖をいそいそと手繰り寄せ、そそくさと帰ることにした。 
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