第22話
文字数 6,652文字
「君は、どうすると?」
用事のあるという弥生が真っ先に帰ってしまった放課後、私と彼はいつも通りのペースで校庭を歩く。
私はこのあと、繁華街である天神にブラリとこのまま出掛けようかと考えていた。
校舎近くに目をやると、どうやらサッカー部の練習が始まったようで、三年生になった小永吉先輩が私達のことを見つけ手を上げる。
学年が一つ上がりクラス替えも行われてから、もう、一月が経つ。
私達は二階の教室、2-Aになって、三人ともにクラスメートで担任は変わらず鴨志田先生だった。
私はこの間、気を抜くとつい口元が緩んでしまっていた。
何故ならそれは、彼のことを好きな時に視界に収めることが出来て、弥生とも変わらず直ぐに話し掛けることができるから……。
なんなら小永吉先輩も二年生をもう一度やって、私達と同じクラスになればいいのにと思ったりもした(笑)。
「僕は少しランニングしようと思うから、真っ直ぐ帰るよ」
私達も手を振り返事をしながら、私は彼の言葉に耳を傾ける。
彼は病院の先生から〔軽く〕という条件付きでリハビリではなく、トレーニングを行う許可を得ていて、最近、少しずつトレーニングを始めていた。
彼は復帰の道が開けたことに、嬉しくて仕方のない様子だった。
今では彼が以前に話をしていた、〈楽しいを探してるから、充実してる〉というウソが、もうウソなんかじゃなくなって、復帰までの素敵なことに変わっているような気がした。
「……じゃあ、私も一緒にランニングするけん、真っ直ぐ帰る」
そしてそんな彼の姿を傍で見ていることについても、私は凄く機嫌が良くなってしまっている(照)。だけど、彼が本格的に復帰したところを想像すると、少し寂しい気もしていた……だって、傍に居られなくなってしまうんじゃないかと、そう思うから。
距離的に離れることは、たぶん我慢できると思う。けれど私のことを忘れてしまうほどに熱中してしまうのだとしたら、それはやっぱり悲しい……。
だけどそれでも、彼がテニスの世界で元気に活躍することが出来るのであれば、私の中で応援したいという気持ちの方が、寂しさや悲しさを上回るものだった。
「ぇ!?……いいの?」
だから私は、この一瞬一瞬を大切にしようと決めている。
「明日休みやけん、明日でいいと。それより君一人にしよったら、どうせやり過ぎるやろ?(笑)」
独り占めできる、限られた時間を。
「確かに(苦笑)」
「しんどくなったら、途中でおぶってもらうけんね(笑)」
「それこそ過負荷のトレーニングになっちゃうなぁ(笑)」
「なん!? デブって言いたいとね!?」
「そんなことないよ!?」
そうしてふざけ合いながら校門を出ると、「甘露寺!」と、彼が力強い声で急に呼び止められた。
そこには、カジュアルな装いながら寒がりなのか、着ぶくれの目立つ、彼より頭一つ背の高い、知性的な雰囲気を感じさせる男子の姿があった。
「――水ヶ瀬くん!?」
水ヶ瀬……水ヶ瀬昴流。
彼がWOをした大会で、優勝をした人だ。
大宰府天満宮で会った、栗栖川さんが口にしていた人。
その水ヶ瀬くんが、わざわざ彼のもとを訪れている。
『……』
私はこの時、胸が激しくざわつくのを感じていた。
「甘露寺。こんなところで、何やってるんだ?」
「いや、それはこっちの台詞というか……」
「俺は、栗栖川から聞いてここにきた……お前、本当に選手としてはやっていないのか?」
「うん……今は、そうだね」
「……そうか。それでもいい、俺と勝負しろ」
「え!?」
「……あそこにあるコートは、明日は使えないのか?」
「頼めば、大丈夫だと思うけど……」
「よし、じゃあ明日の15時にまたくる。それでいいか?」
「……うん」
そうして水ヶ瀬くんという人は、足早に立ち去って行く。
「……大丈夫?」
「うん、ありがとう♪」
彼はそう言って私に笑顔をみせてはいるものの、顔を強張らせ、明日の対戦に向けて、既に闘志を燃やしながらその後ろ姿を見送っていた。
――そして翌日。
昨日はトレーニングを控えて、彼は壁打ちだけをいつもの公園で軽く行い、今日の戦いに備えていた。
そして今、私は彼に頼まれ試合前のアップに付き合っている。
彼とテニスをするのは、未だに緊張する……。
コートに立つ彼の姿は、いつもの彼と全然違うように見えて、私の手の届かない、遠い存在だというふうに感じさせるから――
「ありがとう♪」
「ぅ……うん」
アップを終えて私達が一息ついていると、水ヶ瀬くんがラケットバックを担いでウォームアップ姿で現れた。
「水ヶ瀬くん、アップは?」
彼が申し出ると水ヶ瀬くんは私に顔を向けて、「悪いが、少し付き合ってくれるか?」と、入口近くのフェンスに立てかけるようにしてラケットバックを置き、そこからラケットを取り出してウォームアップを脱ぎながらそう言う。
「!?……は、はい!」
彼も横目に驚きの表情を隠し切れずにいたのだが、Tシャツ短パン姿となった水ヶ瀬くんは、知性的なその表情とは釣り合いが取れない程に胸板厚く、そして脚の筋肉も異常に発達していて、昨日の私服が着ぶくれ等ではないことが直ぐに分かった。
「頼む」
「お、お願いします!」
そうして私は失礼にも、日本のトップジュニアである二人のヒッティングパートナーを私服で務めることとなる……(汗)。
水ヶ瀬くんの使用メーカーはヘッドで、史上初となる、キャリアゴールデンマスターズを達成した ジョコビッチ選手が愛用している面の安定したラケットだった。
ラリーを始めて直ぐに私が感じたことは、水ヶ瀬くんのボールは、さっき彼とラリーをした時よりも遥かに重みのあるボールだということだった。
確かに、彼より遥かに体格が良いぶんだけ重いということには違いないのだろうけれども、それだけじゃなくて、恐らく使用しているラケット自体の重さの問題もあるんじゃないかと思う。
見れば水ヶ瀬くんのラケットフレームの内側には、びっしりと鉛でチューンナップが施してあった。
あれだけ貼っていたら、彼のお祖父ちゃん、甘露寺長政さんのラケットよりも重いんじゃないかとさえ思う。
そしてそのフォームはといえば、そんなラケットをものともしない大きなモーションで、恐ろしくて逃げ出してしまいたくなるほどの迫力ある姿を私に見せつけている(汗)。
……本気で打たれたら、私のラケットなど簡単に弾かれてしまうだろう。
そして何より驚いたのは、私のショットが水ヶ瀬くんのバック側へと飛んでいくと、あっという間に回り込んでフォアハンドで打ち返してくることだった。
私との数分のラリーの間、シングルハンドの水ヶ瀬くんが、そのバックハンドストロークを打った回数は数える程しかなかった。
そしてストロークラリーの後は、彼と同じようにしてボレーとスマッシュ、そしてサーブまでを感触だけを確かめるようにして手短に行っていた。
「すまんな。助かった」
「い……いえ」
私は肩で息を付き、手が痺れて震えていたのだけれど、水ヶ瀬くんの方はというと、乱れる私のボールを前や左右に動いて返球してくれていたのに、全く呼吸が乱れてはいなかった。
「ご苦労様♪」
「ぅん……」
そして私と入れ替わるようにコートへと立った彼は、お互いに暗黙の了解のようにして試合前の練習を済ませ、双方スポーツドリンクを少し含んだあと、準備を整えネットへと近づいた。
「3セットマッチでいいな?」
「うん」
水ヶ瀬くんがラケットを回してグリップエンドを隠す。
「アップ」
彼がそう言って人差し指を上へと向けた。
「当りだ」
グリップエンドのメーカーマークが逆さになっていないことを彼に見せて、サーブを選択した彼にボールを手渡した。
「――お願いします!」
ピリピリとする緊張感と、久しぶりの対戦に悦びを隠し切れない二人が、声を掛け合い試合が始まった――。
序盤から激しいラリーの攻防が繰り広げられる……
主導権は彼が握っているようで、水ヶ瀬くんの重みのあるボールに打ち負けることなくベースライン付近に立ち、テンポの速い展開で試合を組み立てる。
対する水ヶ瀬くんは、ポジションを下げながらも彼のコートを広く使う戦術に対して、優に小永吉先輩を上回るフィジカルの強さを見せつけて、きっちりとそのペースに付いて行く……
「!?」
すると水ヶ瀬くんは彼のクロスを狙ったバックハンドストロークが若干甘い所へ入ってくると分かると、それを見逃さずに瞬時に回り込んで、彼のコートのバックサイド奥深くに豪快なフォアハンドストロークを叩き込みにいった!
「!」
けれど彼はそれを待っていたかのようにして、バックハンドのテイクバックを完了させた状態からバウンドの上がり際をきっちりと捉えて、それをダウンザラインへと水ヶ瀬くんのボールの勢いをそのままに華麗なショットを決めてみせた――
「相変わらず、天才だな……」
水ヶ瀬くんはフィニッシュしたままの恰好で、そう口にする。
そして本当なら決められて悔しいはずだろうに、見るとニヤリと笑っていて、逆にエースを取った彼の方はというと、浮かない顔をしていた。
「……」
それでも彼のそんな表情とは対照的に、気付けば1stセットは彼が6-2で先取する。
ここまでの内容は、水ヶ瀬くんのウインニングショットであろう筈のフォアハンドの逆クロスに対して、彼が脅威的な速さのカウンターで仕留めていたことと、このレベルだからこそ見えてしまう、水ヶ瀬くんの片手バックハンドのイージーミスが数本出ていたことによって、その差が開いていた。
けれどその差は本当に極僅かなもので、スコアほど離れたものではない。
少しの油断やフィジカルの状態次第では、そのスコアは、いつ逆転してもおかしくはなかった。
『ガンバレ……』
そして2ndセットに入っても、彼は優勢を保ったまま、4-2までゲームを進めていた……けれどこの間、私の目から見ても、徐々に彼の方が苦しくなっていっているのが、はっきりと分かった。
彼の動きが精彩を欠き、半歩、一歩と水ヶ瀬くんの重みのあるボールに対して遅れ出していたのだ。
それでも柔軟性を活かし、ラケットワークで遅れた分をなんとか凌いでいた彼だったけれど、次第に水ヶ瀬くんのウイニングショットに対して、彼が球威に圧されて捉えきれずにサイドアウトしたり、その重みで持ち上げ切れなくてネットしたりし出してしまった……。
結果、5-7で彼は2ndセットを落としてしまう。
そうして迎えた最終セット。
先程よりも明らかに動きの鈍くなった彼は、呼吸が荒くなり、体の軸はぶれて、そのボールの伸びも全く感じられなくなって、終には、水ヶ瀬くんのウイニングショットに追いつけなくなったバックサイドを気にする余り、フォアサイドをガラリと空けてしまい、そこを余裕の出てきた水ヶ瀬くんがバックハンドストロークで豪快にダウンザラインへと打ち抜き完全に試合の流れを支配すると、ウイニングショットを強引に捻じ込んでポイントを捥 ぎ取り、彼が立ち尽くすシーンが増えていった――
「甘露寺、ありがとう」
「ありがとうございました……」
結果は1-6。
最終セットは踏ん張りの効かない彼のテニスでは、勝利することは叶わなかった。
「俺は、お前に勝つことだけを考えて、今までテニスに打ち込んできた。だが結局のところ、フィジカル以外では、お前に勝つことなんて出来ないと分かったよ……また新たな気持ちで、俺はテニスと向き合わないといけないな……」
「……」
そうして水ヶ瀬くんは、静かにラケットを仕舞い出て行く。
その後ろ姿は間違いなく、テニス選手として、戦いの舞台でいつも張りつめた緊張感の中で切磋琢磨している人の後ろ姿だった――。
「……大丈夫?」
ネットに立ち尽くしたままの彼に、私は近付き声を掛けた。
「水ヶ瀬くんの言う通り、僕はテニスの質じゃ負けてなかった。だけど、試合には……負けた」
「……」
「僕は試合でも勝ちたかった。今まで一回も水ヶ瀬くんに負けたことなんてなかったんだ。セットだって、取られたことなかったんだ……」
「ぅん……」
「なのに最初から、今まで対戦した時と違って、思うような打感じゃなかった。それに体が付いていかなくなってた。体格だって、水ヶ瀬くんとは、あそこまでの差じゃなかったんだよ。彼が如何に努力をしてきたのかが、よく分かる……それに比べて僕は…………病気さえしなければ……病気さえしなければ、僕は勝つことができたんだ」
「うん」
「それにいずれはプロになって、世界で戦うことだって出来たはずなんだ。それが全部病気のせいで……」
「……」
「僕には、なんにも残ってない……トレーニングっていっても、全然大したことできないし、こんなんじゃ、いつ復帰できるのかなんて分かんないよ。復帰できたとしても、その頃には、今以上に差がついてるよ。そんなんじゃ、もう、どうしようもないよ…………それに本当なら、あのとき死んだ方が良かったんだ……なのに周りの皆が僕を励ましてくれて、今までだって、僕の夢の為に家族が協力してくれて……そんな人達に、〈テニスできないから、もう死にたい〉なんて、言えると思うっ!?」
「……」
「僕は! 僕は……」
誰もいない校庭の中、彼は、肩を震わせ大粒の涙を零し始めた。
彼の気持ちが、痛いほどしっかりと伝わってくる……。
目指していたものを失った、極限の喪失感。
晴れることのない、重圧のような鬱屈 感。
そんな心情を、周りの優しく気遣ってくれる人達に当り散らすなんて、できる訳がない。
だから、私は彼に伝えたかった。
傍で見ていて、私が気付き始めたことを。
――そういうふうに感じられること、もしかしたら、それが一番大切なんじゃない?
――失ったものは大きいし、掛け替えのないものだろうけれど、大切にしてきたことを誇らしく思えれば、また違った素晴らしいものに、きっと出会えるはずだよ。
――今はとっても苦しいかもしれないし、乗り越えろなんて無責任なことは言えないけれど、それと向き合えるようになれれば、きっと素敵な何かが訪れると思うよ。
伝えたい……だから――
「!?」
彼の体が、一瞬だけ固まった後、そのまま私の方へと崩れ落ちる。
だって……不甲斐無い、情けない、どうしようもない……そんな私が、彼を抱きしめたから――
「……ごめんね」
「なんが?」
「みっともないところ見せて、迷惑かけて……」
「お互いさまやん(笑)」
「……そっか(笑)」
私達は今、夕暮れ時の中、黙々とショートラリーを続けていた。
「テニスってさ、競い合うこともできるけど、讃え合うこともできるよね?」
目を赤くして、鼻声の彼が話し掛ける。
「そうやね(笑)」
「やっぱり、テニス好きだなぁ♪」
彼の白い髪が揺れる。
「私は好かんけどね!」
「ウソだ~~!?」
「なんがウソね!? 好かんもんは、好んとよ!」
「――わっ!?」
「♪」
私は想いを込めて、フルスイングで彼に向けてボールを打ち込んだ。
当然、彼が受け留めてくれると信じて。
そしてその通り、彼は私のエース級のボールを易しく包み込むようにしてから返球してくれる。
想いの詰まったボールが、私のコートへと帰ってくる。
「僕は復帰したい。だから諦めないで、コツコツ頑張るよ……(笑)」
「うん♪」
私は溢れるほどに想いを詰め込んで、彼のコートへそっと鮮やかなボールを送り返す……。
バウンドするボールの音色が、私達に希望を与えてくれる。
「……♪」
彼が微笑む。
私は綻 ぶ。
そうして私達は暗くなるまで、ずっとずっとラリーを続けていた。
用事のあるという弥生が真っ先に帰ってしまった放課後、私と彼はいつも通りのペースで校庭を歩く。
私はこのあと、繁華街である天神にブラリとこのまま出掛けようかと考えていた。
校舎近くに目をやると、どうやらサッカー部の練習が始まったようで、三年生になった小永吉先輩が私達のことを見つけ手を上げる。
学年が一つ上がりクラス替えも行われてから、もう、一月が経つ。
私達は二階の教室、2-Aになって、三人ともにクラスメートで担任は変わらず鴨志田先生だった。
私はこの間、気を抜くとつい口元が緩んでしまっていた。
何故ならそれは、彼のことを好きな時に視界に収めることが出来て、弥生とも変わらず直ぐに話し掛けることができるから……。
なんなら小永吉先輩も二年生をもう一度やって、私達と同じクラスになればいいのにと思ったりもした(笑)。
「僕は少しランニングしようと思うから、真っ直ぐ帰るよ」
私達も手を振り返事をしながら、私は彼の言葉に耳を傾ける。
彼は病院の先生から〔軽く〕という条件付きでリハビリではなく、トレーニングを行う許可を得ていて、最近、少しずつトレーニングを始めていた。
彼は復帰の道が開けたことに、嬉しくて仕方のない様子だった。
今では彼が以前に話をしていた、〈楽しいを探してるから、充実してる〉というウソが、もうウソなんかじゃなくなって、復帰までの素敵なことに変わっているような気がした。
「……じゃあ、私も一緒にランニングするけん、真っ直ぐ帰る」
そしてそんな彼の姿を傍で見ていることについても、私は凄く機嫌が良くなってしまっている(照)。だけど、彼が本格的に復帰したところを想像すると、少し寂しい気もしていた……だって、傍に居られなくなってしまうんじゃないかと、そう思うから。
距離的に離れることは、たぶん我慢できると思う。けれど私のことを忘れてしまうほどに熱中してしまうのだとしたら、それはやっぱり悲しい……。
だけどそれでも、彼がテニスの世界で元気に活躍することが出来るのであれば、私の中で応援したいという気持ちの方が、寂しさや悲しさを上回るものだった。
「ぇ!?……いいの?」
だから私は、この一瞬一瞬を大切にしようと決めている。
「明日休みやけん、明日でいいと。それより君一人にしよったら、どうせやり過ぎるやろ?(笑)」
独り占めできる、限られた時間を。
「確かに(苦笑)」
「しんどくなったら、途中でおぶってもらうけんね(笑)」
「それこそ過負荷のトレーニングになっちゃうなぁ(笑)」
「なん!? デブって言いたいとね!?」
「そんなことないよ!?」
そうしてふざけ合いながら校門を出ると、「甘露寺!」と、彼が力強い声で急に呼び止められた。
そこには、カジュアルな装いながら寒がりなのか、着ぶくれの目立つ、彼より頭一つ背の高い、知性的な雰囲気を感じさせる男子の姿があった。
「――水ヶ瀬くん!?」
水ヶ瀬……水ヶ瀬昴流。
彼がWOをした大会で、優勝をした人だ。
大宰府天満宮で会った、栗栖川さんが口にしていた人。
その水ヶ瀬くんが、わざわざ彼のもとを訪れている。
『……』
私はこの時、胸が激しくざわつくのを感じていた。
「甘露寺。こんなところで、何やってるんだ?」
「いや、それはこっちの台詞というか……」
「俺は、栗栖川から聞いてここにきた……お前、本当に選手としてはやっていないのか?」
「うん……今は、そうだね」
「……そうか。それでもいい、俺と勝負しろ」
「え!?」
「……あそこにあるコートは、明日は使えないのか?」
「頼めば、大丈夫だと思うけど……」
「よし、じゃあ明日の15時にまたくる。それでいいか?」
「……うん」
そうして水ヶ瀬くんという人は、足早に立ち去って行く。
「……大丈夫?」
「うん、ありがとう♪」
彼はそう言って私に笑顔をみせてはいるものの、顔を強張らせ、明日の対戦に向けて、既に闘志を燃やしながらその後ろ姿を見送っていた。
――そして翌日。
昨日はトレーニングを控えて、彼は壁打ちだけをいつもの公園で軽く行い、今日の戦いに備えていた。
そして今、私は彼に頼まれ試合前のアップに付き合っている。
彼とテニスをするのは、未だに緊張する……。
コートに立つ彼の姿は、いつもの彼と全然違うように見えて、私の手の届かない、遠い存在だというふうに感じさせるから――
「ありがとう♪」
「ぅ……うん」
アップを終えて私達が一息ついていると、水ヶ瀬くんがラケットバックを担いでウォームアップ姿で現れた。
「水ヶ瀬くん、アップは?」
彼が申し出ると水ヶ瀬くんは私に顔を向けて、「悪いが、少し付き合ってくれるか?」と、入口近くのフェンスに立てかけるようにしてラケットバックを置き、そこからラケットを取り出してウォームアップを脱ぎながらそう言う。
「!?……は、はい!」
彼も横目に驚きの表情を隠し切れずにいたのだが、Tシャツ短パン姿となった水ヶ瀬くんは、知性的なその表情とは釣り合いが取れない程に胸板厚く、そして脚の筋肉も異常に発達していて、昨日の私服が着ぶくれ等ではないことが直ぐに分かった。
「頼む」
「お、お願いします!」
そうして私は失礼にも、日本のトップジュニアである二人のヒッティングパートナーを私服で務めることとなる……(汗)。
水ヶ瀬くんの使用メーカーはヘッドで、史上初となる、キャリアゴールデンマスターズを達成した ジョコビッチ選手が愛用している面の安定したラケットだった。
ラリーを始めて直ぐに私が感じたことは、水ヶ瀬くんのボールは、さっき彼とラリーをした時よりも遥かに重みのあるボールだということだった。
確かに、彼より遥かに体格が良いぶんだけ重いということには違いないのだろうけれども、それだけじゃなくて、恐らく使用しているラケット自体の重さの問題もあるんじゃないかと思う。
見れば水ヶ瀬くんのラケットフレームの内側には、びっしりと鉛でチューンナップが施してあった。
あれだけ貼っていたら、彼のお祖父ちゃん、甘露寺長政さんのラケットよりも重いんじゃないかとさえ思う。
そしてそのフォームはといえば、そんなラケットをものともしない大きなモーションで、恐ろしくて逃げ出してしまいたくなるほどの迫力ある姿を私に見せつけている(汗)。
……本気で打たれたら、私のラケットなど簡単に弾かれてしまうだろう。
そして何より驚いたのは、私のショットが水ヶ瀬くんのバック側へと飛んでいくと、あっという間に回り込んでフォアハンドで打ち返してくることだった。
私との数分のラリーの間、シングルハンドの水ヶ瀬くんが、そのバックハンドストロークを打った回数は数える程しかなかった。
そしてストロークラリーの後は、彼と同じようにしてボレーとスマッシュ、そしてサーブまでを感触だけを確かめるようにして手短に行っていた。
「すまんな。助かった」
「い……いえ」
私は肩で息を付き、手が痺れて震えていたのだけれど、水ヶ瀬くんの方はというと、乱れる私のボールを前や左右に動いて返球してくれていたのに、全く呼吸が乱れてはいなかった。
「ご苦労様♪」
「ぅん……」
そして私と入れ替わるようにコートへと立った彼は、お互いに暗黙の了解のようにして試合前の練習を済ませ、双方スポーツドリンクを少し含んだあと、準備を整えネットへと近づいた。
「3セットマッチでいいな?」
「うん」
水ヶ瀬くんがラケットを回してグリップエンドを隠す。
「アップ」
彼がそう言って人差し指を上へと向けた。
「当りだ」
グリップエンドのメーカーマークが逆さになっていないことを彼に見せて、サーブを選択した彼にボールを手渡した。
「――お願いします!」
ピリピリとする緊張感と、久しぶりの対戦に悦びを隠し切れない二人が、声を掛け合い試合が始まった――。
序盤から激しいラリーの攻防が繰り広げられる……
主導権は彼が握っているようで、水ヶ瀬くんの重みのあるボールに打ち負けることなくベースライン付近に立ち、テンポの速い展開で試合を組み立てる。
対する水ヶ瀬くんは、ポジションを下げながらも彼のコートを広く使う戦術に対して、優に小永吉先輩を上回るフィジカルの強さを見せつけて、きっちりとそのペースに付いて行く……
「!?」
すると水ヶ瀬くんは彼のクロスを狙ったバックハンドストロークが若干甘い所へ入ってくると分かると、それを見逃さずに瞬時に回り込んで、彼のコートのバックサイド奥深くに豪快なフォアハンドストロークを叩き込みにいった!
「!」
けれど彼はそれを待っていたかのようにして、バックハンドのテイクバックを完了させた状態からバウンドの上がり際をきっちりと捉えて、それをダウンザラインへと水ヶ瀬くんのボールの勢いをそのままに華麗なショットを決めてみせた――
「相変わらず、天才だな……」
水ヶ瀬くんはフィニッシュしたままの恰好で、そう口にする。
そして本当なら決められて悔しいはずだろうに、見るとニヤリと笑っていて、逆にエースを取った彼の方はというと、浮かない顔をしていた。
「……」
それでも彼のそんな表情とは対照的に、気付けば1stセットは彼が6-2で先取する。
ここまでの内容は、水ヶ瀬くんのウインニングショットであろう筈のフォアハンドの逆クロスに対して、彼が脅威的な速さのカウンターで仕留めていたことと、このレベルだからこそ見えてしまう、水ヶ瀬くんの片手バックハンドのイージーミスが数本出ていたことによって、その差が開いていた。
けれどその差は本当に極僅かなもので、スコアほど離れたものではない。
少しの油断やフィジカルの状態次第では、そのスコアは、いつ逆転してもおかしくはなかった。
『ガンバレ……』
そして2ndセットに入っても、彼は優勢を保ったまま、4-2までゲームを進めていた……けれどこの間、私の目から見ても、徐々に彼の方が苦しくなっていっているのが、はっきりと分かった。
彼の動きが精彩を欠き、半歩、一歩と水ヶ瀬くんの重みのあるボールに対して遅れ出していたのだ。
それでも柔軟性を活かし、ラケットワークで遅れた分をなんとか凌いでいた彼だったけれど、次第に水ヶ瀬くんのウイニングショットに対して、彼が球威に圧されて捉えきれずにサイドアウトしたり、その重みで持ち上げ切れなくてネットしたりし出してしまった……。
結果、5-7で彼は2ndセットを落としてしまう。
そうして迎えた最終セット。
先程よりも明らかに動きの鈍くなった彼は、呼吸が荒くなり、体の軸はぶれて、そのボールの伸びも全く感じられなくなって、終には、水ヶ瀬くんのウイニングショットに追いつけなくなったバックサイドを気にする余り、フォアサイドをガラリと空けてしまい、そこを余裕の出てきた水ヶ瀬くんがバックハンドストロークで豪快にダウンザラインへと打ち抜き完全に試合の流れを支配すると、ウイニングショットを強引に捻じ込んでポイントを
「甘露寺、ありがとう」
「ありがとうございました……」
結果は1-6。
最終セットは踏ん張りの効かない彼のテニスでは、勝利することは叶わなかった。
「俺は、お前に勝つことだけを考えて、今までテニスに打ち込んできた。だが結局のところ、フィジカル以外では、お前に勝つことなんて出来ないと分かったよ……また新たな気持ちで、俺はテニスと向き合わないといけないな……」
「……」
そうして水ヶ瀬くんは、静かにラケットを仕舞い出て行く。
その後ろ姿は間違いなく、テニス選手として、戦いの舞台でいつも張りつめた緊張感の中で切磋琢磨している人の後ろ姿だった――。
「……大丈夫?」
ネットに立ち尽くしたままの彼に、私は近付き声を掛けた。
「水ヶ瀬くんの言う通り、僕はテニスの質じゃ負けてなかった。だけど、試合には……負けた」
「……」
「僕は試合でも勝ちたかった。今まで一回も水ヶ瀬くんに負けたことなんてなかったんだ。セットだって、取られたことなかったんだ……」
「ぅん……」
「なのに最初から、今まで対戦した時と違って、思うような打感じゃなかった。それに体が付いていかなくなってた。体格だって、水ヶ瀬くんとは、あそこまでの差じゃなかったんだよ。彼が如何に努力をしてきたのかが、よく分かる……それに比べて僕は…………病気さえしなければ……病気さえしなければ、僕は勝つことができたんだ」
「うん」
「それにいずれはプロになって、世界で戦うことだって出来たはずなんだ。それが全部病気のせいで……」
「……」
「僕には、なんにも残ってない……トレーニングっていっても、全然大したことできないし、こんなんじゃ、いつ復帰できるのかなんて分かんないよ。復帰できたとしても、その頃には、今以上に差がついてるよ。そんなんじゃ、もう、どうしようもないよ…………それに本当なら、あのとき死んだ方が良かったんだ……なのに周りの皆が僕を励ましてくれて、今までだって、僕の夢の為に家族が協力してくれて……そんな人達に、〈テニスできないから、もう死にたい〉なんて、言えると思うっ!?」
「……」
「僕は! 僕は……」
誰もいない校庭の中、彼は、肩を震わせ大粒の涙を零し始めた。
彼の気持ちが、痛いほどしっかりと伝わってくる……。
目指していたものを失った、極限の喪失感。
晴れることのない、重圧のような
そんな心情を、周りの優しく気遣ってくれる人達に当り散らすなんて、できる訳がない。
だから、私は彼に伝えたかった。
傍で見ていて、私が気付き始めたことを。
――そういうふうに感じられること、もしかしたら、それが一番大切なんじゃない?
――失ったものは大きいし、掛け替えのないものだろうけれど、大切にしてきたことを誇らしく思えれば、また違った素晴らしいものに、きっと出会えるはずだよ。
――今はとっても苦しいかもしれないし、乗り越えろなんて無責任なことは言えないけれど、それと向き合えるようになれれば、きっと素敵な何かが訪れると思うよ。
伝えたい……だから――
「!?」
彼の体が、一瞬だけ固まった後、そのまま私の方へと崩れ落ちる。
だって……不甲斐無い、情けない、どうしようもない……そんな私が、彼を抱きしめたから――
「……ごめんね」
「なんが?」
「みっともないところ見せて、迷惑かけて……」
「お互いさまやん(笑)」
「……そっか(笑)」
私達は今、夕暮れ時の中、黙々とショートラリーを続けていた。
「テニスってさ、競い合うこともできるけど、讃え合うこともできるよね?」
目を赤くして、鼻声の彼が話し掛ける。
「そうやね(笑)」
「やっぱり、テニス好きだなぁ♪」
彼の白い髪が揺れる。
「私は好かんけどね!」
「ウソだ~~!?」
「なんがウソね!? 好かんもんは、好んとよ!」
「――わっ!?」
「♪」
私は想いを込めて、フルスイングで彼に向けてボールを打ち込んだ。
当然、彼が受け留めてくれると信じて。
そしてその通り、彼は私のエース級のボールを易しく包み込むようにしてから返球してくれる。
想いの詰まったボールが、私のコートへと帰ってくる。
「僕は復帰したい。だから諦めないで、コツコツ頑張るよ……(笑)」
「うん♪」
私は溢れるほどに想いを詰め込んで、彼のコートへそっと鮮やかなボールを送り返す……。
バウンドするボールの音色が、私達に希望を与えてくれる。
「……♪」
彼が微笑む。
私は
そうして私達は暗くなるまで、ずっとずっとラリーを続けていた。