第7話

文字数 5,566文字

「なぁんで、私達まで行かないけんとよ……」

「当事者やけん、しょうがなかろ?」

 私は弥生にぶつぶつと文句を言い続け、それに対して弥生は一生懸命なだめ(すか)してくれていたのだけれど、前を歩く男二人には全く聞こえていないようで、無言でテニスコートへと向かって行く。

『コートにげな、入りたくなか……』

 校庭に一面だけある、やたらと立派なテニスコート。
 見るのも嫌なのに、まさか入ることになるなんて……。
 心の中がぐちゃぐちゃになりそうだったけど、唯一、この甘露寺かなたがどれほどのプレーをするのか……それだけは少し興味があった。

『あれだけ安定して壁打ちばするっちゃけん、それなりには出来るはず』

 何故かあっさりと使用許可を取り付けた甘露寺かなたが、コートの中央にある出入口に掛けられた錠前に鍵を差して扉を開く。
 そして何処からともなくブリジストンのラケットとダンロップフォートのテニスボールを一缶持ち出し、アディダスのオールラウンドシューズに履き替えて来た先輩を最初に通してから、私達を中へ入れた後、最後に控えめに足を踏み入れて、その扉を静かに閉めた。

「……」

 中へ入ると、埃っぽいような、コートに使われている塗料のような、そんな独特の臭いが、私の鼻腔を刺激する。
 
 夢中で走り回った聖域。
  高みを目指したその空間。
   嫌いになった掛け替えのない世界。
 
 私は色々な思いを抱えながら、黒っぽい防風ネットがぐるっとしてある、そのフェンスに寄りかかった。
 先輩が缶のキャップを外し、中の蓋をプシュッと開けてそれを逆さにすると、新球が(はしゃ)ぐようにコートへポンポン♪と落下する。

「……」

 その様子に、私の心は酷く締め付けられた。
 けれどそんな思いで私がいるなんて誰かが気付くわけもなく、テニスシューズに履き替えた甘露寺かなたがそれを拾い上げる。
 一球目を先日、私が目にしたラケットをケースから取り出して、そのガットでトトンッ!と跳ね上がらせながら。
 もう一球を右のシューズの外側とラケットで挟み込み足をヒョイ♪と持ち上げて……。
 その動作はまるで、ボールが甘露寺かなたに従う意志を見せているかのようだった。

「わぁ、格好よかぁ!」

 甘露寺かなたの所作と表現したくなる、さり気ないその動作に、弥生が私の隣で左手の指を折り曲げ口元へと運ぶ。

「ほぉ、見た目だけは良さ気やんか。ようし、1セットマッチでよかか?」

 それを見た先輩が鼻で笑ったあと、肩をグルグルと回しながら甘露寺かなたに声を掛けた。

「はい!」

 甘露寺かなたは楽しみで仕方がないといった様子で先輩に溌剌(はつらつ)と答える。
 するとまた弥生が、「栞みてん! 笑窪、可愛かねー♬」と、私の肩を叩いて飛び跳ね出した……ダメだこりゃ(苦笑)。

「サーブは、お前からでよかぞ!」

「ありがとうございます♪」

 そうして左右それぞれのサイドに別れる。

「お願いします!」

「おぅ!」

 甘露寺かなたが一礼して、音もなくすっとサーブの構えに入る。
 先輩はベースライン後方に位置を取り、脹脛(ふくらはぎ)の筋肉を隆起させながら腰を低くしてリターンの体勢を整える。
 そうして甘露寺かなたは左手でボールを3回突いて、澄み渡るようにモーションへと移った……
 
 ――パシン!
 
 軽快な音を響かせながら、甘露寺かなたの1stサーブはきっちりと枠を捉えてすんなりと試合が始まった。
 
 先輩は飛んできたそのボールを出来る限り落として、最大限のコートカバーリングが出来る状況を作り出してから、「セイッ!」という掛け声と共に高々と打ち上げ返球する。
 甘露寺かなたはというと、返ってきたそのボールの跳ね上がり具合に合わせて、リズム良く後ろへ下がって腰の打点で打ち返す。
 すると先輩はまたもや〈空に天井はない!〉とばかりに応戦する。
 次に甘露寺かなたは後方への動きを止めて、ボールが跳ね上がってくるのに合わせて〔エアケイ〕と呼ばれる(錦織圭選手が活躍する以前には、ジャックナイフと呼称されていた)ジャンピングショットを繰り出して、先輩の時間を奪おうとする。
 けれど先輩は、その速いタイミングに動じることなく、テンポの上がったこのショットに対しても更にしっかりと体勢を整えて高々とボールを送り返した――

(なご)うなりそうやね……」

「……うん」

 私達はボールに合わせて、首を左右へと行ったり来たりさせている。
 試合が始まって直ぐに、ストロークは二人とも私と一緒でフォアが片手、バックが両手だということが分かった。 

「セイッ――!」

 そして先輩のテニスはその体格にものを言わせた力強いテニスで、後方からグリグリに重そうなトップスピンを高々と打ち上げ粘るスタイルだった。
 今にして思えば中学の頃、長丁場、体力勝負のテニスだったからこそ、声を張り上げ相手の戦意を削いでいたんだろう。
 私も先輩ほどではないにしろ、特徴のある選手ではなかったので、一球でも多く相手のコートへ送り返す、最後の1ポイントの決着が付くまで絶対に諦めないということを信条にプレーしていた。

『やめた後でも、あげん気合ば入れて出来るもんなんやね……』

 先輩の表情を見ていると、〈やるとなったら、とことんやる!〉という姿勢がしっかりと伝わってきて、その姿にも私の心は締め付けられてしまう……。
 
 すると――バンッ!

「!?」

 私が自分の不甲斐無さに俯きかけたその瞬間、甘露寺かなたが驚くようなプレーを見せた。

「スゴかぁ……」

 弥生も私も、一瞬の出来事で呆気に取られてしまう……。
 見れば先輩も両腕をダラリと下げて立ち尽くしていた。
 十何往復目かのラリーのあと、甘露寺かなたは、先輩がテイクバックしたラケットをインパクトに向けて引っ張り出そうとした、その瞬間、ポジションをスルスルッとベースラインの内側へと上げて、その高い放物線を描いたボールを伸び上がりノーバウンドで打ち返したのだ……その姿はまるで、翼を持った少年が煌びやかに羽ばたいているかのようだった。

「ま、まだこれからたい!」

 我に返った先輩は、足を小刻みに動かして次のポイントへと備える。

「――はい!」

 どうやら本人にしてみると手応えが悪かったようで、甘露寺かなたは小首を傾げて先ほど打ち放ったショットの素振りをしていたのだが、先輩のそのガッツに自然とモチベーションが上がったようだった。

 ――そしてこのあと、甘露寺かなたはそのモチベーションのまま、先輩のやる気・強気・負けん気の、気持ちもテニスも全て完ぺきに封じ込んでしまった。

 甘露寺かなたは先輩の弾道の高いボールに対して、ベースラインの内側に立って、弾ませることなくドライブボレーで叩き込んだ。
 それは先輩の準備をする時間、詰まりは、レディースポジションを作る時間をまともに与えないものだった。
 甘露寺かなたはそのショットをダウンザラインの深い場所へと送り込み、先輩は追いかけることも出来ずにポイントを奪われてしまう。
 構えられた瞬間、ピタリと足が止まってしまう先輩は、(すく)んでいるようにさえ見えた……。

「――くっ!」

 それでも先輩はなんとか自分の持久力を活かした戦いに甘露寺かなたを引きずり込もうと、戦法を変える。
 弾道の低いショット、スライスを選択して、それを駆使したのだ。
 このショットならばボールのバウンドも低くなるので、ノーバウンドで打つことや叩き込むことは容易ではなくなる。
 だから自ずと1ポイントに掛かるラリーの回数が増えて、体力が奪われ集中力も削がれていく――筈だった。
 しかし、実際は、その戦術に対しても甘露寺かなたはあっと言う間に適応してしまった。
 先輩のそのショットに対して、甘露寺かなたはノーバウンドで打つことは止めたものの、焦ることなくそのボールをネットすれすれの高さを通して、サービスラインとシングルスラインの交わる箇所に鋭角に滑るようにしてコントロールしていった。
 それは所謂(いわゆる)、アングルショットというものを左右へと送り、先輩を定位置であるベースライン後方から前方へと引き剥がし、大きく揺さぶりを掛けた後の4球目に深いコースへボールを持っていくことによって、完璧にその態勢を崩して先輩にボールを見送るだけとさせていた。
 そしてそんな戦いも序盤だけのことで、その後はサービスエースにリターンエースという、ピンポイントのショットを連発させて、一方的過ぎる展開となってしまった――。

「ありがとうございました!」

 ゲームセット。
 甘露寺かなたがネットへ近づき先輩に手を差し伸ばす。

「お……おう」

 先輩は茫然自失といった様子で、かなり遅れてネットへと近づき握手を交わした。

「栞! 甘露寺くんてスゴかね!!」

「う、うん……」

 弥生の熱は上がる一方だ……それにしても、異常だった。
 スコアといえば、6-0で甘露寺かなたの圧勝。
 しかも、失点はたったの1点。
 それも先輩のネットインを甘露寺かなたがギリギリで追いつけなかっただけの1点。
 はっきり言って、こんな試合を私は見たことがない。
 初心者相手ならばまだ分かるけれども、先輩は九州大会までコマを進める程の選手だったのだから、下手な訳がない。
 なのに、これだけの差がつくなんて……。
 その理由は間違いなく、甘露寺かなたのテニスが尋常じゃないほどに洗練されていたことだ。
 ボールそのものは体格通り重みは感じられないものの、バウンドした後の伸び、打つテンポ、予測、体幹の安定、しなやかさ……その一つ一つが驚くほど華麗で、無駄のないものだった。
 そしてあれだけ体格差があるにも関わらず、プレー中は(むし)ろ、先輩よりも大きく見えるような、そんなプレーヤーだった。

「よかったら、また相手してください!」

「……ぉ、ぉぅ」

 先輩は肩を落として何が起こったのかを正確に把握できないまま、その場を後にする。

 先輩、背中が悲しすぎます……。

「鍵返してくるから、ちょっと待ってて!」

 先輩が落ち込んでいることに、遅ればせながらもやっと気付いた甘露寺かなたは、先輩を気遣いながらそっと見送ったあと、私達にそう言って小走りに校舎へと向かう。
(なん)がどうなったら、あげなプレーができるっちゃろ……』
 私も先輩と同様、同じ競技をしてきた人間とは思えない、さっきのプレーに驚き、処理できずにいた。
 練習の量とか質では答えにならないような、そんな何かを感じる。
 そう、それこそ【才能】という以外に言葉が見つからなような……。
 私がそんなことを考えながら、コートの外で甘露寺かなたの後ろ姿を目に映していると、隣の弥生が仰天するようなことを口にした(汗)。

「ねぇ、本当に彼と栞は付き合ってなかと?」

「…………は!? なん言いよっと!? 会うのこれで二度目よ!? 付き合うもなんもなかろっ!?」

 目の端に収めた甘露寺かなたは、途中で通りかかった事務員さんに呼び止められて話しを始めている。

「でも、人を好きになるんに、会った回数は関係なかろ?」

 弥生は私の瞳に、顔をギュッ!とねじ込むようにして覗き込んできた。
 甘露寺かなたの方は直ぐに話しが終わり、一礼してからその事務員さんに鍵を預けたようだ。

「そうかもしれんけど、あんな人のことば【君】とかいうやつばい!?」

「【君】っちゃなんか、いかにも標準語って感じやね♬」

「弥生は、標準語ば喋る男が好きなん?」

「標準語っていうか……」と、弥生が俯き、スクールバックの手提げの部分をもじもじと指でくしゃくしゃにするように動かし始めたころ、甘露寺かなたが息を弾ませながら戻って来た。

「……お待たせ!よかったら、一緒に帰らない? 君達……電車には、乗る?」

 その息遣いは、明らかにさっきまでプレーしていたよりも上がっているように見える。どう考えても、先ほどのプレーの方が上がっていてもいい筈だ。けれどさっきは「ふぅ」とも言っていなかったじゃないか……。
 それでも私はそんなことにはお構いなく、甘露寺かなたを睨み付け吠えた。

「なんが君達ね!? 私達には、ちゃんと名前があるっちゃけんね!?」

 甘露寺かなたは私のその喧嘩腰の口調に戸惑ったあと、「もしかして、マネージャーになりたかったの?」と、何か勘違いを始めたようで、申し訳なさげな顔を作り出す。

「そうじゃなか! そうじゃなくて……!?」

 私は自分でも何が言いたいのか、分からなくなってしまった。
 すると横から出番とばかりに、弥生がその瑞々しい唇を動かし話し出した。

「助けてくれてありがとう! 私は古賀原弥生。そしてこっちが中牟田栞ちゃん♬」

「僕は甘露寺かなたです……って、さっきも言ったかな?」

 弥生がクスリと微笑む。

「余計なお世話じゃなかった?」

「ううん、とっても助かったとよ♬ 本当にありがとう!」

「よかったぁ……」

「甘露寺くんも、電車に乗ると?」

「うん♪」

「じゃ、同じ方向やけん、一緒に帰ろ♬」

「うん!」

「ちょっと、弥生!?

 大人しいはずの弥生が、なんともスムーズな展開を見せつけて、忘れかけてたさっきの彼氏発言を糾弾することが出来なくなってしまった……(汗)。
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