第4話

文字数 2,100文字

「?」

 マンションに着いてみると、引っ越しのトラックが二台止まっていて、エントランスロビーは自動で閉まらないように開け放たれ、引っ越しの作業が行われている最中だった。
 同じ作業着の人達がハキハキと挨拶をくれるので、私も笑顔でそれに答える。
 そして入れ違いに乗り込んだエレベーターの中には、【引っ越しのお知らせ】という貼り紙がしてあった。

『今日、貼ったんかな?』

 出掛ける時には気付かなかったその貼り紙に、型通りの挨拶と日時が記されていて、引っ越し先が603号室ということを確認することができた。

「真上やね」

 どんな家族が越して来たんだろう……そんなことを考えながら、開いたドアの向こう側に松葉杖を滑らせるようにして降りた。

「お母さん、ただいま」
 
 私は玄関先の下駄箱の上に飾ってある、木製のフレームに収められた写真に声だけを掛ける。
 お母さんの写真は、玄関、リビングのテレビ台、お父さんのベットのサイドテーブルの計三箇所に飾っている。
 中でも私は玄関先のこの写真が、一番のお気に入りだ。
 その写真は私が生まれる前の、お父さんと結婚したばかりの頃の写真らしい。
 お母さんは元々体の弱い人だったらしく、私を生んだその三年後に他界してしまった。
 私がお母さんと会うのは決まって病室で、その所為か、なんとなく覚えているのは優しい笑顔と病院の臭い。
 生きていてくれたなら、お父さんには相談できないようなことも、あの笑顔できっとたくさん聞いてくれたに違いない……。
 そんなお母さんのことをもっと知りたいと思った小学校低学年のある日、お父さんに、お母さんの写っているアルバムをゆっくりと見せてもらった時に、この一枚に釘付けとなってしまった。
 青空の下、真っ直ぐに続く道の端で、後ろ手にワンピース姿でスラッとした脚を覗かせ向日葵を見上げるお母さん。
 そこに写っているお母さんは、ただ単純に、素朴に綺麗なのだ。

『私も、こんな素敵な女性になりたい』

 そんな思いで飾るようになった。
 私の外見はどちらかと言えばお父さんに似てしまったので諦めるとしても、写真に写るその表情から滲み出る女性としての柔らかさや優しさは、私の目指すべき憧れとなっている。
 けれど事故に遭ってからというもの、私はその写真をまともに見ることさえも出来なくなってしまっていた……。

「おぉ、栞。おかえり」

「あれ? どうしたと?」

 お父さんが、ひょいとリビング横の自室から暗い玄関先の私に顔を覗かせた。
「筑清の事務員さんから、書類の不備があったって言われてからくさ、ちょっと実印ば捺しにきたとよ」と、仕事着としているテニスのウインドブレーカーのままにそう言って、お父さんはリビングの方へと出てくる。
 因みに、お父さんの部屋には引き戸が備え付けられてあるのだが、その引き戸を使ったことは一度もない。
 なのでリビングからでも、お父さんの寝ている姿は視界に入る。
 そして以前、そのことを友達に話したらあまり良い反応は返って来なかったのだが、私は昔からそれに慣れている所為か気になることはなかったし、むしろ仕切られた方が気になる筈だった。

「……お父さん、迷惑かけてごめんね」

「なん言いよっとか。こげなこと、なんでもなか(笑)」

 お父さんは今年で四十七になる。その髪は娘としても嬉しいことに、おでこが領土を広げることも、天辺が皿を思わせるようなこともなく健やかで、髪の色もまだまだ黒が優勢を保っている。
 髪をセットして真顔でさえいれば目鼻立ちはキリッとしているので恰好良いはずなのだけれども、如何せん、その顔の筋肉が絞まりを見せるのはガットを張り上げる時だけで、後はいつでも朗らかで優しさに溢れた人だった。

「……ありがとう」

 私は感謝と同時に、申し訳ない気持ちで一杯だった。

「ん。それより、リハビリは順調ね?」

「うん。2~3週間後には、松葉杖要らんごとなるって」

「おお!? 頑張った甲斐があったな」

「……うん♪ あ、お父さん。今日は辛子高菜のオムレツにするけんね」

「お!? 辛子高菜は嬉しかねぇ」

「あ~!? お父さん。今、私のことより、そっちの方が嬉しそうやったねぇ……?」

「馬鹿か!? そげなことあるわけな……いや、ちょびーとだけ、あるか(笑)」

 私が「もう!」と渋い顔を作ると、お父さんはそんな私を見て、カラカラと楽しそうな笑い声を上げて、「冗談やろうもん」と言いながら玄関へと向かう。
 私は「いってらっしゃい♪」と声を掛けて、その後ろ姿を見送り、バタンと閉まるドアをぼんやりと眺めた。

「……」

 確かに治っていくのは嬉しい……だけど、何処に向かってこの右脚を歩ませて行けばいいのか、今の私には分からない。
 それに、私の怒りや悔しさ、諦めという気持ちが、お父さんの瞳の中にきっちりと映し出されていて、そんな私のことを心配そうに見守っている眼差しがあることも、私は知っている。
 
 だから、余計に苦しくもなる――。
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