第20話

文字数 3,558文字

第4章 家族(その5)

 そこまで話したとき、山室はポケットからハンカチを取り出して目もとを拭った。山室と沙理奈が涙を拭いている様子を見て、あずさが不安そうに言った。
「ねえ……、おじさん、ママの病気はひどいの? ママが死んじゃうなんてことはないよね?」
「うん、ママが死ぬなんてことは絶対にないから、安心していいんだよ。この病院にはすごくいいいお医者さんがいて、必ずママの病気を治してくれるからね」 
 山室はハンカチをポケットにしまいながら答えた。
 山室が話し終わったとき、「竹井さん」と呼ぶ川原看護師の声が聞こえた。
 急ぎ足で歩み寄った山室たちに川原看護師が言った。
「竹井さん、大変お待たせしました。これから松本先生が診察しますので診察室にお入りください。それから山室さんもご一緒にお入りくださってけっこうです」
 川原看護師に先導されて、山室たちは受付から5メートルほど離れた診察室に向かった。川原看護師が『診察室A』のプレートが貼られたドアを軽くノックした。
「竹井さんと山室さんをお連れしました」
「どうぞ通してください」 
 中から落ち着いた声が答えた。
 川原看護師がドアを開けると、50歳半ばくらいの、白髪が混じった髪を七三に分けた穏やかそうな顔をした医師がデスクの前に座っていた。
「先生、ご無沙汰しております。山室です。山室佐和子のことでは大変お世話になりました」
 山室は松本医師を見るなり深々と頭をさげた。
 松本医師は立ち上がると、笑みを浮かべながら顔をあげた山室に手を差し出した。山室はその手を両手で握りしめた。
「山室さん、元気そうで何よりです。この4月から東京に転勤になったということですが、東京での生活はどうですか?」 
 松本医師は落ち着いた低い声で言った。
「はい、すっかり慣れました。おかげさまで再婚相手も見つけることができました」 
 山室はちらっと沙理奈に目を向けながら答えた。
「そうですか。新しい人生に向かって第一歩を踏み出したわけですね。それはよかった」
 松本医師は笑顔でうなずいた。
 そのあと松本医師は山室たちにイスをすすめると、医師の顔になって沙理奈を見た。
「あなたが山室さんの結婚相手の竹井さんですね?」
「はい、竹井沙理奈と申します。よろしくお願いします」 
 沙理奈は緊張した面持ちで頭をさげた。
「今日初めて会って、緊張するのは無理もないでしょうが、そんなに固くならなくても大丈夫ですよ。竹井さんはすでに東京の方で検査を受けられて、その結果も出ているわけですからね」 
 松本医師は沙理奈に向かってやさしく話しかけた。
「持参された検査結果を先ほど拝見しました。紹介状を書かれた石山先生はしっかりと検査をされて、それに基づいて診断をなさったと思います。
 ただ、セカンドオピニオンを求められた者としては、まっさらな目で竹井さんの乳がんの状態を診させていただきたいのです。そのためもう一度検査を繰り返すことになり、竹井さんには負担をかけることになりますが、いま申し上げたことを考えての検査なのでご協力をお願いします」 
 そう言って松本医師は軽く頭をさげた。
 沙理奈はあわてて首を振った。
「ご無理を言って診察をお願いしたのに、そのように丁寧に言っていただくと恐縮してしまいます。先生のおっしゃるとおりにしますので、どうぞよろしくお願いします」
 松本医師はうなずくと、山室と沙理奈の顔を見ながら言った。
「行う検査は、触診、マンモグラフィ、エコー、MRI、そして針生検です。これらの検査結果を見た上で、竹井さんにとって最善の治療を行いたいと思います」
「よろしくお願いします」  
 山室と沙理奈はそろって頭をさげた。
「それでは診察が始まりますので、すみませんが山室さんは待合室の方でお待ちください」
 川原看護師の言葉に促されて山室は立ち上がると、沙理奈の肩を軽くたたき、松本医師に向かって丁寧にお辞儀をしてから診察室をあとにした。
 待合室に戻った山室は、あずさを膝の上に乗せて、前日の夜に買い込んでいた『白雪姫』の絵本を開いて読み聞かせることにした。
 大人から1時間以上も絵本を読んでもらう経験をしたことがないあずさは、山室が読み聞かせるお話に夢中になって聞き入り、ところどころでは「魔法の鏡はどうやって作ったの?」とか「7人の小人はどうして大きくなれないの?」など、大人が考えもしないような質問をしたりして山室を驚かせた。
 そろそろ1時間半が経過しようとしたとき、「山室さん」と呼ぶ川原看護師の声が聞こえた。
「もう少しで絵本もおしまいだったけど、看護師さんが呼んでるんで、今日はここまでにしよう」 
 山室はそう言うと、あずさを抱いたまま受付に向かった。
「検査は終わったんですか?」 
 山室の問いかけに川原看護師はうなずくと、「山室さんにも一緒に聞いていただきたいと松本先生がおっしゃってますので、診察室にお入りください」と告げた。
 山室があずさを連れて診察室に入ろうとしたところで、川原看護師がそばに立っている若い看護師を見ながら言った。
「先生のお話が終わるまでの間、彼女がお嬢ちゃんをお預かりしますね」。
 山室は若い看護師に頭をさげると、あずさに向かって話しかけた。
「おじさんがお医者さんとお話ししている間、このおねえさんと一緒に待っていてくれるかな?」
「絵本の続きを読んでくれるならいいよ」
 あずさは絵本を見せながら若い看護師に言った。
 川原看護師は、あずさが若い看護師と一緒に待合室に向かうのを確認すると、山室を診察室に案内した。
 山室が診察室に入ると、松本医師はパソコンのディスプレイに画像を映し出していて、沙理奈はイスに座って説明を待っているところだった。
「先生、いろいろお世話になりました」 
 松本医師は山室の声に振り向くと、わずかに笑顔を見せながらイスをすすめた。
 松本医師は山室と沙理奈の顔を交互に見ながら口を開いた。
「竹井さん、もう一度検査をされて大変だったでしょう」
「しっかり心の準備をしてきたので、それほどではありませんでした」
「そう言われるとほっとします。それではまず検査の結果をご説明します。次に私が考える最善の治療方針をお話しします。そのあとで疑問や質問があればお答えしたいと思います。よろしいでしょうか?」
「よろしくお願いします」 
 山室と沙理奈はそろって頭をさげた。
 松本医師はパソコンの画像を指さした。
「これはマンモグラフィで撮った画像です。おっぱい全体が白く映っていますね?」
 山室と沙理奈がうなずいた。
「これは竹井さんが若くて乳腺が発達しているからです。しこりのあるところはこのあたりなのですが」と松本医師は指で場所を示しながら、「確認できません」と言った。
 そのあと松本医師は、マウスをクリックしながら3枚の画像を映し出しながら二人に説明した。
「この3つはマンモグラフィで撮った画像です。どの画像でもしこりを見つけることはできません。それでは次の画像で説明します……」
 松本医師がマウスをクリックして新しい画像を映し出した。
「これは左胸のエコーの画像です。しこりのあるところが黒っぽく映ってますね?」
 山室と沙理奈がうなずいた。
「そのとなりが右胸の画像です。右胸の同じところには」と言って、松本医師はその位置を指さした。「黒っぽいものは見えませんね」
 身を乗り出して見つめていた山室と沙理奈は再びうなずいた。
「さて、このがんが乳管の中にとどまっているかどうかですが、これは非常に判断が難しいのです。これについてはあとでご説明します」
 松本医師はそう言ったあと、続いて3枚の画像を映し出した。
「この3枚はMRIの画像です。私はMRIでがんがどのくらい広がっているかを調べました。竹井さんに狭い機械の中に30分も入ってもらったのはそのためです。けっこう大変だったでしょう?」
「なにしろ狭いし、ときどき『カンカン』という音が聞こえたりして、たとえは悪いですけど棺桶の中に入っているような気がしました」 
 沙理奈が笑みを浮かべながら答えた。
「なるほど棺桶ですか……。でも竹井さんが閉所恐怖症じゃなくてよかったですよ。閉所恐怖症の方にこの検査はできませんからね」 
 そう言うと松本医師は続けた。
「この白く映っているのががんです。次の画像はおっぱいを横から撮ったものを拡大したものです。そして最後がおっぱいを上から撮ったものを拡大したものです。これを見ると広がりがわかりますね?」
 再び山室と沙理奈がうなずいた。
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