第18話

文字数 3,371文字

第3章 家族(その3)

 沙理奈が目を丸くして孝太郎を見た。
 孝太郎は軽くうなずいた。
「あなたはわざわざ私たちに会いに来て、何もかも正直に話してくれた。なかなかできることじゃないと思った。それにあなたは言葉づかいも礼儀もしっかりしているし、ばあちゃんも言ったように子供のしつけもしっかりとやっている。あずさちゃんを大切にしているのがよく伝わってきたよ。あの境遇でそれをやっているのは立派なものだ」
 それを聞いた沙理奈は思わず両手で顔を覆った。
 それを見た孝太郎はひとつ咳ばらいをして続けた。
「でも竹井さんを嫁として、家族として受け入れるかはまた別の話だ」
「父ちゃん……」 
 息子が言おうとするのを抑えて孝太郎は言った。
「母ちゃんの気持ちを考えてやらなければな。母ちゃんは、竹井さんが乳がんに(かか)っていると聞いて相当ショックを受けていたし、竹井さんの生い立ちやら風俗店で働いていたことをどう思っているかを聞かねばな……。でもばあちゃんは竹井さんのことを気に入ったんだろう?」
「わたしは竹井さんもあずさちゃんも両方とも気に入ったよ」 
 ハナはにこにこして答えた。
「あとは母ちゃんしだいだな……。そうだ、美穂の気持ちも聞いておかないとな……」
 そう言うと孝太郎は息子を見た。
「いま聞いた話は俺の方から美穂に話して、どんなふうに思うかを聞いておくことにするからな」 
「うん、美穂の方は父ちゃんにお願いするね」 
 山室がそう答えたとき、生垣の向こうからあずさの元気のいい声が聞こえてきた。
「おっ、美穂とあずさちゃんが戻ってきたな」 
 山室が玄関ごしに門の方を見ると、手にアザミの花束とタンポポの綿毛を持ち、クローバーの花の冠を頭に乗せたあずさの姿が見えた。
「美穂ねえさん、早く! 早く!」 
 門のところであずさが後ろを振り返って美穂を呼んだ。
「お花をみんなに見せるんだから」
 美穂が門のところに姿を見せると、あずさは顔いっぱいに笑みを浮かべて玄関に向かって駆けてきた。目はきらきら輝き、ほっぺたは真っ赤に染まっていた。
「ママ、見て! お花の冠。美穂ねえさんが作ってくれたんだよ! それからこの花束、きれいでしょ!」
 あずさは得意げに身体をそらした。
「それからね、このフワフワしたの、とってもおもしろいんだよ」
 玄関先であずさが頬をふくらませようとしたとき、「ちょっと待った!」と言って、山室があわてて駆け寄った。
 そしてあずさを抱え上げると、玄関から4、5メートル離れたところでおろした。
「さあ、ここで吹いてごらん」
 あずさが力いっぱい息を吹きかけると、たんぽぽの綿毛はいっせいに舞い上がり、初夏の風に乗ってふわふわと空を漂っていった。
 それを見たあずさが、「わーい」と歓声をあげた。
 そのあとあずさは玄関の中に駆け込むと、沙理奈に向かって、「田んぼの水の中に、オタマジャクシがいっぱいいたんだよ!」と報告をはじめた。
「そうなんだ。すごいね」とうなずく沙理奈と、懸命に説明するあずさを、孝太郎とハナは目を細めて見つめた。
「急にあずさちゃんの面倒を見させて悪かったな」 
 山室は門の横に立っている美穂に近づいて声をかけた。
「ううん。一緒にいて楽しかったわ。見るものすべてが初めてだったみたいで、ずっと質問攻めだったわ。素直だし、飲み込みは早いし、賢い子だわ。でも……」
「でも……?」
「あたしの気持ちの動きをたえず気にする様子が見えるの。4歳なのにけっこう苦労してきたのかなという感じがしたわ」
「そうか……。お前も人を見る目ができてきたんだな」 
 山室はうなずいた。
「竹井さんもあずさちゃんも複雑な生い立ちを持っている。竹井さんはそれを父ちゃん、母ちゃん、ばあちゃんにすべて話した。俺たちが帰ったあとで父ちゃんから聞くといい。
 ただ俺の口からこれだけは伝えておくから。実は……、竹井さんは乳がんに(かか)っている。俺はそのことを知ったうえで竹井さんと結婚するつもりだ」
「えっ、乳がん……」 
 そう言ったきり、美穂は呆然と兄の顔を見つめた。
「東京で診てくれた先生は助かるだろうと言ってくれたが、明日宮城医大の松本先生にもう一度診てもらうことにした。今日はこのまま仙台のホテルに泊まることにしている」
 美穂は無言のまま兄の顔を見つめていた。やがて視線を足もとに落とした。
「兄さん……。佐和子さんのことがあったのにどうして……?」
 美穂はうつむいたまま首を振った。
「……、竹井さんはやさしくていいひとなんだ……」
 山室は妹をなだめるように言った。
 しかし美穂は首を振りながらつぶやいた。
「……、あの悲しい思いをまた繰り返すの……?」
「今度は必ず助ける……」
 山室は妹の肩に手をおいた。
「もう少し経ったら、俺たちを駅まで送ってくれないか?」
「うん……」 
 美穂は下を向いたまま力なくうなずいた。
 その30分後、山室たちは帰ることになったが、志津江が姿を見せることはなかった。
「竹井さん、あずさちゃん、また顔を出しておくれ」 
 ハナが笑顔で声をかけた。
「ありがとうございます」 
 沙理奈は丁寧に頭をさげた。頭にクローバーの花の冠をかぶったあずさはにっこりしながら頭をさげた。
 見送りのため、美穂の車のそばまでついてきた孝太郎が沙理奈に向かって言った。
「竹井さん、わざわざ来てくれたのに、志津江があんなことを言ってすまなかったな」
「いいえ、そんなことを言われると恐縮してしまいます」 
 孝太郎は、頭をさげた沙理奈に向かって続けた。
「竹井さん、明日は頑張ってな……」
 そう言うと、孝太郎はあずさの頭を軽く撫でてから家の中に戻っていった。
 沙理奈はその後ろ姿をじっと見つめた。
「そろそろ行かないと……」  
 山室が沙理奈の背中を軽くたたいた。
 それでも沙理奈は孝太郎の後ろ姿を見つめていたが、やがて玄関に向かって丁寧にお辞儀をしてから車に乗り込んだ。
 美穂は一言も言葉を発することなくハンドルを握っていた。
 美穂が(かも)しだす重苦しい雰囲気の前に、あずさはクローバーの冠のお礼も言えずにいた。
 別れのあいさつを終えて走り去る美穂の車を見ながら沙理奈がつぶやいた。
「妹さん、どうかしたのかしら……?」
「さっき、門のところできみの病気のことを話したんだ」 
 沙理奈のつぶやきを聞いた山室が言った。
「おふくろと同じように、妹も相当ショックを受けたみたいだった。それで元気がなかったんだと思う」
「そう……」
 うつむいた沙理奈の肩に山室が手をかけた。
「さあ、顔をあげて。きみは今日しっかりと自分の努めを果たした。立派だったよ。あとは俺の家族がきみの過去や乳がんのことをどう考えるかだ。
 俺はこう考えるんだ。たとえ家族であっても人の気持ちを変えることはできない。その人が変えようと思わないかぎり気持ちは変わらないってね。
 きみは俺の家族に対して、何ひとつ隠すことなく正直に話した。誠意を尽くして俺の家族に話をしたんだ。これ以上やれることは何もない。いまからきみの過去や乳がんをなかったことにするわけにはいかないんだからね。
 それでも俺の家族がきみを受け入れないとしたら、それはそれで仕方がない。残念なことだけど、それを受け入れて、俺たちは三人で一生懸命生きていけばいいんだ。そのためにもまずはきみの乳がんを何としても治さなければいけない。
 きみにとってはとても厳しい試練だと思うけれど、俺は何があってもきみを支えるから、何とか頑張ってこの試練を乗り越えてほしいんだ」
 話を聞く沙理奈の顔が次第に紅潮してきた。
 沙理奈は力のこもった目で山室を見上げた。
「そうだよね。今日あたしはありのままの自分をお話しした。それで受け入れてもらえなかったら仕方ないものね。でもお父さんとおばあさんは、あたしとあずさを気に入ってくれたみたいでうれしかった……。
 それから……、あたし、純一さんのためにもあずさのためにも乳がんを必ず治すからね」
 山室は肩においた手を背中にまわすと、沙理奈を強く抱き寄せた。
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