第10話

文字数 3,916文字

第3章 診断(その3)

 12時半になって、沙理奈は再び診察室に呼び込まれた。
 職場の先輩で姉がわりということで、香澄も同席を許された。
 石山医師は穏やかな口調で切り出した。
「気分は良くなりましたか?」
 沙理奈はわずかに笑顔を浮かべながらうなずいた。
「はい、しばらく横になって、それから山室さんに励ましてもらったので良くなりました」
「それはよかったですね。そういえば山室さんは?」
「仕事が入ったということで会社に戻りました」
「そうですか。婚約者というだけあって、山室さんは竹井さんのことをとても心配してましたよ」
「婚約者……?」 
 沙理奈は思わず聞き返した。
「山室さんは婚約者と言ってましたが……?」
 石山医師は一瞬けげんそうな顔をした。
「え、え……、そのとおりです……」 
 しどろもどろで答えながら沙理奈は思った。
(山室さんは……、まさかあたしと結婚するつもりでいるの……?)
 ほんのりと赤らんだ沙理奈の顔を見て、石山医師はうなずいたあと、「山室さんにはすでにお話していますが」と断ってから説明を始めた。
 石山医師はわかりやすい言葉で、初期の乳がんであると考えられること、治療すれば転移や再発の心配はほぼないと考えられることを説明した。
 それまで固かった沙理奈の顔がやわらいだ。
 石山医師は、パソコンに映し出した画像を指さしながら続けた。
「このように白く石灰化しているところが広い範囲で認められます。この結果を踏まえると、私は左の乳房の全摘が最善だと考えます」
 それを聞いた香澄が声をあげた。
「先生……、全摘って、おっぱいを全部取るということですか?」
 石山医師はうなずいた。
 香澄は沙理奈を見た。
 沙理奈は取り乱した様子を見せず、山室から借りたハンカチを握りしめたまま、じっと石山医師を見つめていた。
「先生、この子はまだ若いんです。悪いところだけ取って、何とかおっぱいを残すことはできないんですか?」 
 香澄は涙声で言った。
「山室さんも同じことを言いました。それで山室さんから、宮城医大の松本先生の診察も受けたいとの申し出があり、私も了承しました。松本先生は乳腺外科の第一人者で、亡くなった山室さんの奥さんの主治医だったそうです。松本先生の診察を受けて、十分に納得してから治療を受けてください」
 沙理奈は大きくうなずいた。
 石山医師は沙理奈にA4サイズの封筒を差し出した。
「この中に松本先生あての紹介状と組織検査の結果、そして今回検査した画像を収めたCDが入っています。これを松本先生に渡してください」
 沙理奈は丁寧に頭をさげたあと、離れたところでおとなしく座っているあずさに目をやった。
「あたしには子供がいます。それから山室さんも……。だから心を強く持って仙台で治療を受けてきます。先生、本当にありがとうございました」
 礼を言って立ち上がった沙理奈に向かって、石山医師は声をかけた。
「しっかり治療を受けてきてください。そうすれば必ず治りますから」

 病院の食堂で簡単な食事を済ませたあと、病院を出たところで沙理奈は香澄に向かって深々と頭をさげた。
「ねえさん、今日は本当にありがとう……」
 沙理奈は涙が滲んだ目で香澄を見た。
「こんな形で店を辞めることになるなんて思いもしなかったけど……、ねえさん、いままで本当にお世話になりました……」
 香澄は浮かんできた涙を指で弾いたあと、沙理奈をそっと抱き寄せた。
「山室さんは誠実で信頼できるひとだから、あのひとにどこまでもついていくんだよ……。そうすれば必ず運も開けて、きっと乳がんも治るから……」
 そのあと香澄はしゃがみ込んであずさの頭を撫でた。
「ママと……、山室さんの言うことを聞いていい子になるんだよ……」
「うん、わかった!」
 香澄は、元気よく返事をしたあずさに笑いかけると、沙理奈に向かって明るく言った。
「さて、店に行く準備をしなくちゃね! あんたが辞めることは支配人に話しておくから安心しな」

 香澄と別れたあと、沙理奈は大久保駅近くのスーパーに足を向けた。
 今夜アパートを訪れる山室のために、晩ごはんを用意しようと思い立ってのことだった。
 沙理奈は、がんを宣告され、左の乳房の全摘が必要だと言われたその日に、料理をしようと考えている自分を不思議に思った。
(こんなにつらい状況なのに……)
 そう思いながらも、山室のことを思って心を弾ませる自分がいた。
 スーパーに着いたとき、沙理奈の顔を見てあずさが訊いた。
「ママ、今日いいことがあったの?」 
「ううん、いいことなんかなかったよ。どうしてそんなことを訊くの?」
「だってママ、何だかうれしそうなんだもん」
「そんなふうに見える?」
「うん、見える」
 沙理奈はあずさの手を取って売り場に向かった。
「あずさ、今日の晩ごはんだけど、何を食べたい?」
「カレーライスがいい。でもママ、お仕事は?」
「ママは今日から仕事に行かなくてよくなったの」
 あずさの顔がぱっと輝いた。
「じゃあ、あずさ、託児所に行かなくてもいいの?」
「そうだよ」
「じゃあ、ママと一緒に晩ごはんを食べたあと、ずーっと一緒にいられるの?」 
 あずさが弾んだ声で訊いた。
「そうだよ」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
「わーい」と言いながら、あずさは沙理奈の腰のあたりに抱きついた。
「それからね、今日の晩ごはんは山室のおじさんも一緒なんだよ」
 あずさは再び歓声を上げた。
「あずさも晩ごはんのお手伝いをするからね」
「よし、それじゃ、山室のおじさんにとびっきり美味しいカレーをご馳走しようね」

 山室が沙理奈の部屋のドアをノックしたのは夕方の6時半過ぎだった。
「山室ですけど……」
「あっ、おじさんが来た!」 
 ドアの向こうであずさの声がして、足音とともに勢いよくドアが開いた。
「おじさん!」
「やあ、こんばんは」 
 山室が言うと同時に沙理奈が顔を見せた。
「今日は大変だったね。入っていいかな?」
「早く入って」と言いながら、あずさが山室の手を引っ張った。
 6畳間のテーブルには、キュウリ、パセリ、ニンジン、ミニトマト、キャベツの千切りを盛り付けた皿が3つ置かれていた。
「これはすごい。わざわざ晩ごはんを用意したの? それも俺の分まで」
 サラダの皿を見て山室が声をあげた。
「うん、サラダはあずさがつくったんだよ」 
 あずさが得意そうに言った。
「あずさが盛り付けを手伝ってくれたんだ」 
 横から沙理奈が口を挟んだ。
「きれいに盛り付けられてるよ。たいしたものだ。それからメインの料理は……、匂いからするとカレーだな」
「カレーが食べたいってあずさが言ったんで、カレーにしたの。お肉を煮込む時間がなかったからチキンカレーにしたんだけど、よかったかな?」
「うん、チキンカレーは大好物だ」
「よかった」と言って、沙理奈は大きな皿にごはんとカレーをよそいはじめた。
 山室は手早く上着を脱いでネクタイをはずすと、カレーが盛られた皿をテーブルに運んだ。
「これはおいしそうだ」 
 山室がテーブルの前に座ろうとしたとき、「おじさん、お手てを洗ってください」と、あずさが言った。
「そうだった。すっかり忘れてた」 
 山室はあわてて立ち上がって台所で手を洗ったあと、ハンカチのありかを探しはじめた。
「はい、タオル」 
 すかさず沙理奈がタオルを差し出した。
「あっ、ありがとう」
「山室さん、ハンカチはあたしに貸してくれたんだよ、あのときに」
「そうか……」
「あのハンカチ、あたし、欲しいんだけど、もらっていいかしら?」
「かまわないけど……」
「山室さんのハンカチをお守りにしたいの。お昼過ぎにもう一度先生に呼ばれて、左のおっぱいの全摘が最善だって言われたとき、ハンカチを握りしめてたら不思議と怖さを感じなくて、反対に負けないぞという気持ちが湧いてきたの」
「そうか……」 
 山室はタオルごと沙理奈の手を強く握りしめた。
「その話は晩ごはんを食べてからにしよう。いやー、ほんとに美味しそうなカレーだ」
「美味しい」を連発しながら、山室はあっという間に一杯目をたいらげた。
 沙理奈はおかわりをよそいながら、生まれてはじめて自分の中に安心感が広がっていくのを感じた。
 それは、生きて行くうえで直面する困難に対して、一緒に悩み、戦ってくれる人がいるという安心感だった。
 カレーをよそい終わって振り向いた沙理奈の目に、あずさのほっぺたに付いたカレーをティッシュペーパーでふき取っている山室の姿が映った。
 そのとたん沙理奈の胸に熱いものがこみ上げてきた。カレーの皿を片手に涙目になった沙理奈を見て、山室が、「どうかした?」と声をかけた。
「ううん、たいしたことじゃないの……。はい、おかわりのカレー」
「ほんとにこのカレーは美味しいよ」と言いながら、山室は2杯目を食べはじめた。
「喜んでもらえてうれしい……。あのね……、あたし、やさしくて頼りになる旦那さんがいる家庭をずっと夢見てたけど、叶わない夢だってあきらめてた……。でも、山室さんがあずさのほっぺたをティッシュで拭いてるのを見たとき、夢が本当になるかもしれないって感じたの。そしたら急に胸がいっぱいになっちゃって……」
 山室が食べる手を止めて沙理奈を見つめた。
「俺の方こそ失った家庭を取り戻した気がする。こんなにおいしい晩ごはんを食べるのはひさしぶりなんだ……」
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