第14話

文字数 3,368文字

第3章 診断(その7)

 ドアを開けると、香澄が心配そうな顔で立っていた。
 香澄は山室を見ると、ベビードレスの胸のあたりを手で押さえながら、「山室さん、昨日はお世話になりました」と言って頭をさげたあと、声をひそめて沙理奈に訊いた。
「支配人との話はうまくいったの?」
「ここでは何だから、向こうで話すわ」 
 沙理奈は香澄の腕を取って出口に向かって歩き出した。そして受付まで歩いたところで笑顔になって香澄にうなずいて見せた。
「うまくいったんだね」 
 香澄も笑顔を見せた。
「違約金も何もなしでお店を辞めることができた。すべて山室さんのおかげなの」
 そう言ったあと、沙理奈はすぐに笑顔を引っ込めると、香澄の手を取った。
「ごめんね。あたしが先に辞めることになって……。ねえさんのことを思うとつらい……」
「何を言ってるの。あんたは乳がんを抱えてるんだ。これから先大変なことがいっぱい待ってるんだよ。あたしのことを気にするより自分のことだけを考えなさい」
 香澄がそう言ったとき、突然、「ローズ、わしを出迎えに来てくれたのか?」というしわがれた声がした。
 香澄は声の方を振り向くと、すぐにトーンの高い声で、「まあ、佐川社長さん! 今日もいらしてくださったの?」と言って、営業用の笑顔になった。
「夕方になるとお前のおっぱいが恋しくなってな」 
 佐川は香澄の肩を抱き寄せたあと、そばに立っている山室と沙理奈に視線を向けた。
 その瞬間、佐川は、「おっ、きみはたしかアグリ農機の山室くんじゃないかね?」と声をあげた。
「佐川社長さんにはいつもお世話になっています」
 山室は丁寧に頭をさげた。
 佐川は二、三度うなずいたあと、「山室くんも遊びに来たのかい?」と言って、だらしない笑いを浮かべた。
「いいえ、彼女とこれから帰るところなんです」 
 山室は沙理奈に目をやった。
「帰る……?」
 けげんそうな顔で佐川は沙理奈を見た。
「あんたはたしか……、ジャスミンとかいう女だったんじゃないか……?」
 沙理奈は顔をこわばらせると、目を伏せながらわずかにうなずいた。
 そのとき山室が沙理奈の肩に手をまわした。
「社長さん、僕たち、まもなく結婚するんです。それで彼女は今日で店を辞めたんです」
「…………」
 佐川はあっけにとられて二人を見つめた。驚きのあまり声も出ないようだった。
 そのとき香澄が甲高い声をあげた。
「社長さん! 何ぐずぐずしてるの! 早く店の中に入りましょうよ!」
 そのあと香澄は山室を見てうなずくと、佐川の手を引っ張って店の中に消えていった。
「早くあずさちゃんを迎えに行こう……」 
 山室が肩を抱いたまま沙理奈にささやいた。
 沙理奈は目を伏せたまま歩き出した。やがて小さな声で言った。
「あの人……、取引先の社長さんなんでしょう……?」
「うん」
「あの人、きっとあたしのことを純一さんの会社の人に言いふらすわ……」
「そうかもしれない」
「きっとそうよ。あたしのせいで、純一さんは会社で肩身の狭い思いをすることになるわ」
 山室は足を止めて沙理奈を見つめた。
「人が何と言おうが俺は大丈夫だ。きみはよけいな心配をしなくていい。それよりも店を辞めてようやく今日から自由になれたんだ。だから少しはうれしそうな顔を見せてくれよ」
 沙理奈は顔をあげてわずかに微笑んだ。
「そうだよね。純一さんのおかげですんなり辞められたんだものね。それにしても純一さんって強いんだね。あの安藤が手も足も出なかったんだもの。それにあの支配人をこてんぱんに言い負かすなんてすごいわ」
「たまたまだよ。それより早くあずさちゃんを迎えに行こう。きっと首を長くして待ってるだろうからね」

 沙理奈が山室と暮らしはじめて3日が経った土曜日の朝だった。
 沙理奈が食事の後片付けを終えたとき、山室が声をかけた。
「ゆうべ話したように、月曜日の午前10時に、宮城医大の松本先生がきみを診察してくれることになった」
「うん」
「それで明日の午後、実家に行こうと思う。これから親に電話しようと思うけど、いいね?」
「うん……。前に純一さんが言っていたように、あたしたちがこれから日が当たっているところを歩いていくためには、あたしがどんな女かをご両親に知っておいていただく必要があるものね」
 山室はうなずくと、携帯電話の通話ボタンを押した。
「……、あっ、母ちゃんかい? ……、うん、だいぶ東京には慣れてきた。元気でやってる。父ちゃんも変わりがない? ……、相変わらず元気か。それはよかった。今年は手伝えなかったけど田植えの方は? ……、無事終わった。そうか、父ちゃん、頑張ったんだ。ところで驚かせて悪いけど、明日俺の結婚相手に会ってほしいんだ。……、東京に行ってまもなく知り合った。……、29歳、4歳の子供がいるひとだ。……、突然の話でびっくりするのはわかるけど、とにかく一度会ってもらいたいんだ。……、明日の午後2時頃には着くようにするから。父ちゃんにもそう話しておいて」
 緊張の色を顔に浮かべて、沙理奈は電話のやり取りをじっと聞いていた。
「お母さんは何て言ってたの?」
 携帯電話を閉じながら山室が言った。
「とにかくびっくりしていたよ。それはそうだろうな。家内が亡くなって2年が過ぎたころから、おふくろは俺に再婚をすすめてきたけど、俺は『そんな気はない』って断わり続けたきたからな……。まあ、親がどんなに驚こうが、きみと会ってもらうしかないからね」
 沙理奈は少し言いよどんだあと口を開いた。
「あの……、純一さんの家族構成を教えてくれない? 明日お会いする前に予備知識を入れておきたいんだ」
「家族構成か、両親……、おやじは62歳でおふくろは60歳、それに84歳になる祖母と31歳の妹の5人家族なんだ。実家はコメの専業農家でね、おやじは俺に跡を継がせたかったようだが、大学生になったら考えると言ってるうちに会社に就職してしまったんだ。おやじの気持ちも少しは考えて農業機械の会社を選んだけどね。でもおやじは、俺に跡を継がせることをまだ完全にはあきらめてないみたいだ。
 祖母はかくしゃくとしていて、いまでも料理を手伝ったり、家のまわりの掃除なんかをやっている。妹は独身で仙台市内の小学校で先生をやっている」
 沙理奈はテーブルに目を落とした。
「……、純一さんにはきちんとした家族がいるんだね……。あたしの生い立ちなんかを聞いたら、ご家族の方はきっと目を回しちゃうだろうな……」
 山室はテーブルの上に置いた沙理奈の手に手を重ねた。
「いいかい、前にも言ったと思うけど、これまでの人生の中できみは何も悪いことはしてこなかったんだ。だから何も恥じる必要はないし、卑下する必要もない。そのままのきみを知ってもらえばいいんだ。人がどう思うかなんて考えたって時間の無駄だ。それよりも今日は初めて三人で過ごす休みなんだから楽しいことをしよう」
「楽しいことって?」
「明日は俺の実家に行くんだから、きみとあずさちゃんはおめかししなくちゃいけない。きみたちの洋服を選びに銀座に行ってみよう」
 沙理奈はあわてて手を振った。
「純一さんにはこれまでたくさんお金を使わせてしまったわ。だから洋服なんてとんでもない」
 そう言う沙理奈を山室はじっと見つめた。
「俺は、女の人にはおしゃれをしてもらいたいと思っている。みんなから、『きれい』、『かわいい』と言ってもらいたいと思っている。もちろん俺の親たちにもそう言ってもらいたいと思っている。さあ、俺の言うことを聞いて出かける用意をして」
 デパートに行くと聞いたときのあずさのはしゃぎようはなかった。
 いままで量販店にしか行ったことがないあずさにとって、デパートで洋服を買うことは夢のような話だった。
 それは沙理奈にとっても同じことだった。ファッションに興味があり、若いころはデパートのウィンドウショッピングを楽しんでいた沙理奈だったが、あずさを産んでからはデパートなどは自分には縁がない世界だと考えていたからだった。
 沙理奈は浮き立つ心を隠しきれず、いそいそと出かける準備をはじめた。
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