第19話
文字数 3,812文字
第4章 家族(その4)
(今日検査を受けるというのに、この落ち着きようはすごいな……。そういえば、きのう俺の両親に会ったあとから彼女の様子が変わったみたいだ。笑顔が多くなったし、夕べの牛タンもきれいに食べたし、夜もぐっすり眠ったみたいだし……)
どこか吹っ切れたような、すっきりとした表情で朝食を取る沙理奈を、山室は驚きをもって見つめた。
そのとき沙理奈が山室を見て微笑むと、声をかけてきた。
「純一さん、コーヒー、飲む?」
「う、うん……」
山室はあわててうなずいた。
沙理奈はさっと立ち上がって、バイキング料理が並べられている場所に向かうと、やがてトレーにコーヒーカップ2つとミルク、それにパイナップルとオレンジを盛った皿を乗せて戻ってきた。
「夕べ、あんなに食べたのに、今日も朝からお腹が空いちゃって……。それでフルーツも美味 しそうだなと思って……」
そんなことを言いながら、沙理奈は自分の前にフルーツを盛った皿を置くと、「はい、コーヒー」と言って、山室の前にコーヒーカップを置いた。
そのあと、「ちゃんと牛乳を飲んでね」と言って、あずさの前にはミルクを置いた。
「ありがとう」
山室はそう言ってコーヒーを口に運んだ。
沙理奈はオレンジの皮をむくと美味 しそうににほおばった。
「今朝はよく食べるね?」
コーヒーをすすりながら山室が言った。
「うん、どうしてかわからないけど、昨日の夜からすっきりした気分なの。それまでは純一さんのご家族に何て言おうかとか、今日の検査の結果はどうなんだろうかとか、ずっとあれこれ考えていて気持ちが重かったの。
でもきのう純一さんのご家族にあたしのこれまでの人生や病気のことを全部話したら、言葉は悪いんだけど、なんか開き直れたというか、これ以上じたばたしても仕方がないという気持ちになって。
そしたら急に気持ちが楽になって、気分がすっきりしてきて、ごはんも美味 しく食べられるし、夜もぐっすり眠れたの」
「そうか……。開き直りでもなんでも、そういう気持ちになれたのはすごいな。やっぱりきみは強いひとなんだ」
沙理奈はあわてて手を振った。
「そんなことないよ。もうこれ以上ないってところまで追い詰められて、ようやく開き直れたんだから。でも今日の検査でどんな結果が出ても、じたばたしないぞっていう覚悟ができたような気がする」
「きみにそういう覚悟ができたんだったら、俺もしっかりとした覚悟をもって病気に向き合わないといけないな」
山室はぐいっとコーヒーを飲み干した。
宮城医科大学付属病院はホテルからタクシーで15分のところにあった。郊外の小高い山の上にパールホワイト色の15階建ての建物がそびえ立っていた。
「すてき……、森の中に病院があるみたい」
タクシーから降りた沙理奈は、6月に入って緑を一段と濃くした木々を見渡して声をあげた。
「うん、もともと山だったところに建てた病院だからね。病院のまわりは森や林なんだ。ほら、葉っぱがお日さまに輝いてきれいだろう?」
山室はあずさのそばにしゃがみこむと、きらきらと輝く木の葉を指さした。
「うん、とってもきれい。あずさ、森に行って遊びたいな」
「ママの病気が治ったら三人で遊びに来よう」
あずさの頭を撫でながら山室が言った。
「ママの病気、いつ治るの?」
「うーん、おじさんにもわからないんだよ。これからお医者さんにいろいろ調べてもらってからわかるんだ」
山室は立ち上がってあずさの手を取ると、沙理奈を見てうなずいた。
「さあ、行こうか」
山室は迷うことなくエレベーター乗り場に向かった。エレベーターに乗り込むと、山室は案内の表示も見ずに7階を押した。
山室がつぶやいた。
「家内が入院したあと毎日通ったからな。5年たってもどこに何があるかを覚えているもんだ」
7階で降りた三人はまっすぐ受付に向かった。
山室は対応に出た若い看護師に、「先週川原主任にお願いして、松本先生に予約を入れていただいた山室ですが」と告げたあと、石山医師からの紹介状と検査画像が記録されたCDが入った封筒を手渡した。
若い看護師は封筒の中身を確認したあと、「少しお待ちください」と言って奥の部屋に入っていった。
少し経って、胸に『川原』という名札を付けた40半ばの看護師が姿を見せた。
「山室さん、お元気そうで……。あのときはほんとに大変でしたね」
川原看護師は山室の顔を見るなり、そう言って頭をさげた。
「私の方こそ、川原さんをはじめ皆さんに大変よくしていただきありがとうございました。それに今度は無理を言って松本先生につないでもらって申し訳ありませんでした」
山室もまた深々と頭をさげた。
「わたしは松本先生におつなぎしただけですから」
川原看護師は笑顔を見せると、沙理奈に向かって、「竹井沙理奈さんですね」と声をかけた。
「はい……」
沙理奈がうなずいた。
「この受付票にお名前などの必要事項を書いてくださいね」
川原看護師はやさしく微笑むと、柔らかい口調で言いながら受付票を沙理奈の前に差し出した。
沙理奈が受付票に書き込んでいる様子を見ながら、山室は川原看護師に話しかけた。
「診察が始まる前に、ちょっとだけ松本先生にごあいさつをしたいのですが……」
「ええ、差支えないと思います。診察の前にわたしから先生にお伝えしておきます」
川原看護師はにこやかにうなずいた。
沙理奈が受付票に記入を終えたあと、川原看護師から時間が来るまで待つようにとの話があり、山室たちは待合室のイスに腰をおろした。
「予約時間の10時まであと20分か……」
山室はつぶやいたあと沙理奈に話しかけた。
「診察時間までの間、俺がどうして松本先生を信頼しているか、どうして松本先生にきみの乳がんを診てもらおうと思ったかを話そうか?」
「ぜひお願いします」
沙理奈は山室を見つめながら言った。
「家内の乳がんが見つかった経緯は前に話したのでわかっていると思う」
沙理奈がうなずいた。
「家内の右の胸のしこりが急に大きくなっていたのがわかって、俺と家内はあわてて市内の病院に行った。そこで検査を受けて乳がんとわかり、その病院の先生がこの大学病院の松本先生あてに紹介状を書いてくれた。
松本先生は、紹介状と持参した検査結果を見てすぐに病状の深刻さがわかったらしく、他の患者さんの診察時間をやりくりしてくれて、その日のうちに……、夕方の6時近くまでかかったんだけど、マンモグラフィーとかエコーとか正確な診断に必要な検査をすべて済ませてくれたんだ。その手際の良さといったら流れるようだったよ。
俺は医者ではないし、医学のことなんか全然わからないけど、ビジネスマンとして仕事ができるかどうかという目で見ると、ものすごく仕事ができるビジネスマンだと思ったよ。
そして3日後には細胞診の結果を伝えてくれて、乳がんの進行状況をわかりやすく説明してくれた……。
残念ながら家内の乳がんはかなり進んでいて、乳房を全摘しても転移を防げるかはわからないという話になったんだけど、何て言うか、先生の人柄というか先生の持っている価値観なのかな……、仕事だからって割り切って説明しているという感じをまったく受けなかったんだ。
家内は当然取り乱して泣きじゃくるし、俺も頭の中が真っ白になって何をどうしていいか考えられない状態だった。そのとき松本先生は家内の手を取ってこう言ったんだ。
『わたしはあなたを助けたい。全摘すれば助かる可能性があるんです。山室さん、わたしと一緒にその可能性にチャレンジしてくれませんか』って。
その言葉を聞いたとき、俺は感激で身体が震えたよ。家内も同じ気持ちだったらしく、泣くのをやめて、先生の顔をまっすぐ見つめて、『先生と一緒に頑張ります』とうなずいたよ」
山室はそこで言葉を切ると沙理奈を見た。
沙理奈は、山室からもらったったブルーのハンカチで目もとを拭っていた。
山室は話を続けた。
「それからすぐ右の乳房の全摘し、そのあと抗がん剤治療や放射線治療を受けたけど、残念ながら転移を防ぐことはできなかった……。でも、抗がん剤治療や放射線治療松を始めるときには、松本先生は必ず俺や家内に治療を始める理由や効果を丁寧に説明してくれてね。
それでがん細胞が身体のあちこちに転移して、あとどれぐらい生きられるかという話になったとき、松本先生は家内に向かって頭をさげたんだ。
『精一杯やりましたけど、力が及ばずがんを退治することができませんでした』と言いながらね。
家内は恐縮してしまって、『先生が謝ることなんかありません。先生には親身になって治療していただいて本当に感謝しています。まもなく命が尽きるというのもわたしの運命なんでしょうから』と答えたんだ。
それを聞いた松本先生は、『残された時間があなたにとって充実したものになるよう、精一杯頑張りますから』と言ってくれた。
それから家内が動けるうちは、二人であちこちドライブに行って、桜を見たり、紅葉を見たり、美味 しいそばを食べたりした。いよいよ動けなくなってからは、松本先生が上手にモルヒネを使ってくれたので、家内はほとんど痛みを感じることなくベッドで山や野原の写真を見たり、大好きなクラシック音楽を聴いたりすることができた……。そして、余命半年と診断されていたのに1年半も生きることができた……」
(今日検査を受けるというのに、この落ち着きようはすごいな……。そういえば、きのう俺の両親に会ったあとから彼女の様子が変わったみたいだ。笑顔が多くなったし、夕べの牛タンもきれいに食べたし、夜もぐっすり眠ったみたいだし……)
どこか吹っ切れたような、すっきりとした表情で朝食を取る沙理奈を、山室は驚きをもって見つめた。
そのとき沙理奈が山室を見て微笑むと、声をかけてきた。
「純一さん、コーヒー、飲む?」
「う、うん……」
山室はあわててうなずいた。
沙理奈はさっと立ち上がって、バイキング料理が並べられている場所に向かうと、やがてトレーにコーヒーカップ2つとミルク、それにパイナップルとオレンジを盛った皿を乗せて戻ってきた。
「夕べ、あんなに食べたのに、今日も朝からお腹が空いちゃって……。それでフルーツも
そんなことを言いながら、沙理奈は自分の前にフルーツを盛った皿を置くと、「はい、コーヒー」と言って、山室の前にコーヒーカップを置いた。
そのあと、「ちゃんと牛乳を飲んでね」と言って、あずさの前にはミルクを置いた。
「ありがとう」
山室はそう言ってコーヒーを口に運んだ。
沙理奈はオレンジの皮をむくと
「今朝はよく食べるね?」
コーヒーをすすりながら山室が言った。
「うん、どうしてかわからないけど、昨日の夜からすっきりした気分なの。それまでは純一さんのご家族に何て言おうかとか、今日の検査の結果はどうなんだろうかとか、ずっとあれこれ考えていて気持ちが重かったの。
でもきのう純一さんのご家族にあたしのこれまでの人生や病気のことを全部話したら、言葉は悪いんだけど、なんか開き直れたというか、これ以上じたばたしても仕方がないという気持ちになって。
そしたら急に気持ちが楽になって、気分がすっきりしてきて、ごはんも
「そうか……。開き直りでもなんでも、そういう気持ちになれたのはすごいな。やっぱりきみは強いひとなんだ」
沙理奈はあわてて手を振った。
「そんなことないよ。もうこれ以上ないってところまで追い詰められて、ようやく開き直れたんだから。でも今日の検査でどんな結果が出ても、じたばたしないぞっていう覚悟ができたような気がする」
「きみにそういう覚悟ができたんだったら、俺もしっかりとした覚悟をもって病気に向き合わないといけないな」
山室はぐいっとコーヒーを飲み干した。
宮城医科大学付属病院はホテルからタクシーで15分のところにあった。郊外の小高い山の上にパールホワイト色の15階建ての建物がそびえ立っていた。
「すてき……、森の中に病院があるみたい」
タクシーから降りた沙理奈は、6月に入って緑を一段と濃くした木々を見渡して声をあげた。
「うん、もともと山だったところに建てた病院だからね。病院のまわりは森や林なんだ。ほら、葉っぱがお日さまに輝いてきれいだろう?」
山室はあずさのそばにしゃがみこむと、きらきらと輝く木の葉を指さした。
「うん、とってもきれい。あずさ、森に行って遊びたいな」
「ママの病気が治ったら三人で遊びに来よう」
あずさの頭を撫でながら山室が言った。
「ママの病気、いつ治るの?」
「うーん、おじさんにもわからないんだよ。これからお医者さんにいろいろ調べてもらってからわかるんだ」
山室は立ち上がってあずさの手を取ると、沙理奈を見てうなずいた。
「さあ、行こうか」
山室は迷うことなくエレベーター乗り場に向かった。エレベーターに乗り込むと、山室は案内の表示も見ずに7階を押した。
山室がつぶやいた。
「家内が入院したあと毎日通ったからな。5年たってもどこに何があるかを覚えているもんだ」
7階で降りた三人はまっすぐ受付に向かった。
山室は対応に出た若い看護師に、「先週川原主任にお願いして、松本先生に予約を入れていただいた山室ですが」と告げたあと、石山医師からの紹介状と検査画像が記録されたCDが入った封筒を手渡した。
若い看護師は封筒の中身を確認したあと、「少しお待ちください」と言って奥の部屋に入っていった。
少し経って、胸に『川原』という名札を付けた40半ばの看護師が姿を見せた。
「山室さん、お元気そうで……。あのときはほんとに大変でしたね」
川原看護師は山室の顔を見るなり、そう言って頭をさげた。
「私の方こそ、川原さんをはじめ皆さんに大変よくしていただきありがとうございました。それに今度は無理を言って松本先生につないでもらって申し訳ありませんでした」
山室もまた深々と頭をさげた。
「わたしは松本先生におつなぎしただけですから」
川原看護師は笑顔を見せると、沙理奈に向かって、「竹井沙理奈さんですね」と声をかけた。
「はい……」
沙理奈がうなずいた。
「この受付票にお名前などの必要事項を書いてくださいね」
川原看護師はやさしく微笑むと、柔らかい口調で言いながら受付票を沙理奈の前に差し出した。
沙理奈が受付票に書き込んでいる様子を見ながら、山室は川原看護師に話しかけた。
「診察が始まる前に、ちょっとだけ松本先生にごあいさつをしたいのですが……」
「ええ、差支えないと思います。診察の前にわたしから先生にお伝えしておきます」
川原看護師はにこやかにうなずいた。
沙理奈が受付票に記入を終えたあと、川原看護師から時間が来るまで待つようにとの話があり、山室たちは待合室のイスに腰をおろした。
「予約時間の10時まであと20分か……」
山室はつぶやいたあと沙理奈に話しかけた。
「診察時間までの間、俺がどうして松本先生を信頼しているか、どうして松本先生にきみの乳がんを診てもらおうと思ったかを話そうか?」
「ぜひお願いします」
沙理奈は山室を見つめながら言った。
「家内の乳がんが見つかった経緯は前に話したのでわかっていると思う」
沙理奈がうなずいた。
「家内の右の胸のしこりが急に大きくなっていたのがわかって、俺と家内はあわてて市内の病院に行った。そこで検査を受けて乳がんとわかり、その病院の先生がこの大学病院の松本先生あてに紹介状を書いてくれた。
松本先生は、紹介状と持参した検査結果を見てすぐに病状の深刻さがわかったらしく、他の患者さんの診察時間をやりくりしてくれて、その日のうちに……、夕方の6時近くまでかかったんだけど、マンモグラフィーとかエコーとか正確な診断に必要な検査をすべて済ませてくれたんだ。その手際の良さといったら流れるようだったよ。
俺は医者ではないし、医学のことなんか全然わからないけど、ビジネスマンとして仕事ができるかどうかという目で見ると、ものすごく仕事ができるビジネスマンだと思ったよ。
そして3日後には細胞診の結果を伝えてくれて、乳がんの進行状況をわかりやすく説明してくれた……。
残念ながら家内の乳がんはかなり進んでいて、乳房を全摘しても転移を防げるかはわからないという話になったんだけど、何て言うか、先生の人柄というか先生の持っている価値観なのかな……、仕事だからって割り切って説明しているという感じをまったく受けなかったんだ。
家内は当然取り乱して泣きじゃくるし、俺も頭の中が真っ白になって何をどうしていいか考えられない状態だった。そのとき松本先生は家内の手を取ってこう言ったんだ。
『わたしはあなたを助けたい。全摘すれば助かる可能性があるんです。山室さん、わたしと一緒にその可能性にチャレンジしてくれませんか』って。
その言葉を聞いたとき、俺は感激で身体が震えたよ。家内も同じ気持ちだったらしく、泣くのをやめて、先生の顔をまっすぐ見つめて、『先生と一緒に頑張ります』とうなずいたよ」
山室はそこで言葉を切ると沙理奈を見た。
沙理奈は、山室からもらったったブルーのハンカチで目もとを拭っていた。
山室は話を続けた。
「それからすぐ右の乳房の全摘し、そのあと抗がん剤治療や放射線治療を受けたけど、残念ながら転移を防ぐことはできなかった……。でも、抗がん剤治療や放射線治療松を始めるときには、松本先生は必ず俺や家内に治療を始める理由や効果を丁寧に説明してくれてね。
それでがん細胞が身体のあちこちに転移して、あとどれぐらい生きられるかという話になったとき、松本先生は家内に向かって頭をさげたんだ。
『精一杯やりましたけど、力が及ばずがんを退治することができませんでした』と言いながらね。
家内は恐縮してしまって、『先生が謝ることなんかありません。先生には親身になって治療していただいて本当に感謝しています。まもなく命が尽きるというのもわたしの運命なんでしょうから』と答えたんだ。
それを聞いた松本先生は、『残された時間があなたにとって充実したものになるよう、精一杯頑張りますから』と言ってくれた。
それから家内が動けるうちは、二人であちこちドライブに行って、桜を見たり、紅葉を見たり、