第7話

文字数 3,560文字

第2章 健康保険証(その2)

 月曜日の午後1時、区役所の玄関ロビーにあずさの手を引いた沙理奈の姿があった。
 二人は30分前には到着していて、沙理奈は案内板で国民健康保険の窓口が4階にあることを確認していた。 
 沙理奈が出入口に目を注いでいると、小走りに駆けてくるスーツ姿の男が見えた。
「あっ、山室さんだ……」
 沙理奈が出入口に向かって歩き出すと同時に、自動ドアが開いて山室が入ってきた。
 山室は、すぐにジーンズ姿の沙理奈と青いスカートのあずさを見つけて笑顔を見せた。
「やあ、遅れてごめん」
 あずさが山室のもとに駆け寄った。
「おじさん、この前はありがとうございました」
「おじさんも楽しかったよ。ありがとう」
 山室はあずさの頭を軽く撫でた。
「さて」と言って、山室は沙理奈を見た。
「4階の窓口に行くとしようか」
(えっ、案内板も見ていないのに、窓口が4階にあることをどうして知っているのかしら……) 
 山室が窓口の場所をすでに知っていることに沙理奈は驚いた。
 山室は先に立ってエレベーターの乗り場に向かった。沙理奈は首をかしげながら、あずさの手を引いて山室の背中を追った。
 4階でエレベーターを降りると、山室は迷うことなく窓口に向かった。
 窓口には先客はおらず、30歳くらいの職員が対応に出てきた。
 山室は丁寧に頭をさげてから口を開いた。
「あの、午前中に電話で相談しました竹井沙理奈の保険証の件なんですが……」
 『渡辺』というネームプレートを下げたその職員が応じた。
「ああ、その電話は私が対応しました。滞納分も含めた納付金額は計算しておきました。えーと……」 
 職員は席に戻って書類を手にすると、それを山室に示しながら説明を続けた。
「遅延利息を含めて59万円です。納付書も用意しておきました」
 そのやりとりを聞いて、沙理奈はあっけにとられた。
(山室さんは前もって区役所に電話して、手続きに必要なものを確認していたんだ。それでハンコとか必要な書類とかを持ってくるように、午前中に電話をくれたんだわ。なんて手回しがいい人なのかしら……)
 山室は背広の内ポケットから封筒を取り出すと、手際よく1万円札を数え、59万円を職員に手渡した。
「間違いなくあると思いますが……」
 職員は、慎重に1万円札の数を確認したあと、山室に向かってうなずいた。
「59万円をたしかにお預かりしました。これから保険証をお渡ししますので少々お待ちください」
 職員は、計算書とともに預かったお金を持って上司の席に向かった。 
 山室と沙理奈とあずさの3人が、窓口近くのイスに腰をおろして待っていると、10分ほど経って職員が窓口に戻ってきた。
「大変お待たせしました。こちらが領収証です」
 職員は山室に領収証を渡したあと、あずさの分も含めた健康保険証2枚を沙理奈に手渡しながら言った。
「こちらが竹井さんとお子さんの健康保険証です。それからひと言申し上げておきますが、これからは絶対に延滞はなさらないでください。お子さんが病気のときなどに医者にかかれないことになったら大変ですから。支払いが苦しいときにはいろいろと相談に乗りますので」
「申し訳ありません……」
 沙理奈は、健康保険証を受け取りながら、職員に向かって頭をさげた。
「申し訳ありませんでした。いろいろとお手数をおかけしました……」
 山室もまた職員に頭をさげたあと、領収証を内ポケットに入れると、沙理奈とあずさを促して窓口を離れた。
 1階のロビーまで来たところで、沙理奈は足を止めて山室を見上げた。
「今日は本当にありがとうございました……」
 さらに言葉を続けようとする沙理奈をさえぎるように山室が言った。
「まずはそこのイスに座って……」
 沙理奈とあずさがロビーのイスに座るのを見届けると、山室は沙理奈のとなりに腰をおろした。
「このあと会社に戻らなくちゃならないので、手短に話をするから」
 山室は強い目で沙理奈を見た。
「健康保険証を手に入れたのはゴールじゃなくてスタートだ。だからきみはすぐに医者に診てもらわなくちゃならない。二、三日のうちには必ず病院に行ってほしい。それから病院に行ったことや医者から言われたことはすべて俺にも教えてほしい。仕事中でもかまわないから」
「わかりました。必ずそうします」
 沙理奈は、山室に向かって深々と頭をさげた。
 山室は二、三度うなずいたあと、二人の間でおとなしく座っているあずさの頭をやさしく撫でると、「それじゃ」と言って足早に区役所を出て行った。

 午後4時半ちょうどに出勤した沙理奈は、真っ先に香澄を探した。香澄はリーダー格ということもあって、いつも他の女たちよりも15分早く出勤していた。
「ローズねえさんはどこ?」
 更衣室で沙理奈に訊かれた若い女は、洋服を脱ぎながら、ややぞんざいな口調で、「いま支配人に呼ばれてるよ」と答えた。
(まったく今の若い子は、先輩のことを何とも思ってないんだから……)
 沙理奈が心の中で舌打ちしたとき、香澄が更衣室に入ってきた。
 浮かない顔の香澄を見て、沙理奈はためらいながら声をかけた。
「香澄ねえさん、ちょっとだけ話があるんだけど……」
 香澄はぎこちない笑顔を見せた。
「何だい?」
 休憩室ではすでに5、6人の女たちがたばこを吸ったり、コーヒーを飲んだりしていたので、二人はフロアの客席に向かった。
 腰をおろすなり沙理奈は口を開いた。
「香澄ねえさん、あたし、今日役所から保険証をもらった。お金は山室さんが立替えてくれた」
 それを聞いた香澄がわずかに笑顔を見せた。
「あんた、よかったねえ……。世の中、捨てたもんじゃないねえ……。山室さんみたいないい人がいるんだから」
 沙理奈は大きくうなずいた。
「うん……。それに早く診てもらえと言われたので、明日お医者さんのところに行くことにした」
「そうかい……。早く診てもらって、あんたも安心した方がいいよ……」
 そう言う香澄の声にはいつもの明るさがなかった。沙理奈は香澄の顔色をうかがいながら言葉を続けた。 
「ところでねえさん……、元気がないようだけど、何かあったの……?」
 香澄は力のない笑いを浮かべた。
「さっき支配人に呼ばれてね、あたしもいい年だからそろそろお払い箱だってさ……。でも支配人の手先になって女の子たちを監視するんだったら、延長を考えてもいいってさ……」
「…………」
「あたしはね、店から一銭ももらってないけど、女の子たちに、『きちんとしないさい』って言ってるよ。それは生きていくうえで大事なことだからね。
 でも女の子たちを監視して、告げ口をするなんてことはできないよ。そんなことはあたしの性に合わないんだ。だからお払い箱って言われたら辞めるだけだよ」
「ねえさん……」
「なに、支配人がいくら偉そうなことを言ったって、あの佐川社長さんが指名してくれるうちはお払い箱になることはないよ」
 そう言って香澄はタバコに火をつけた。

 それから10日が過ぎた。
 仕事が終わり、女たちが家路を急いでいる中、休憩室で沙理奈と香澄が話をしていた。
「香澄ねえさん、悪いんだけど明日一緒に病院に行ってもらえるかな?」
「明日……? あんた、また病院に行くのかい? たしか1週間前に検査して、そのとき医者からは大丈夫だって言われたんじゃなかったのかい?」
「うん、保険証をもらった翌日に、近所の婦人科の医院に行ったけど、そこのお医者さんのところはおっぱいを検査する機械を持ってなくて、紹介状を書いてもらって大きな病院に行ったんだ。
 そこではおっぱいを板でぎゅっと挟まれてレントゲン写真を撮られたり、おっぱいにジェルを塗られてパソコンのマウスみたいなものを押し当てられたり、しこりのところに針を刺されたりしてけっこう大変だったんだ。でもお医者さんからは、『まあ、大丈夫でしょう』って言われてひと安心だったんだけど……」
「だったら明日一緒に行く必要はないんじゃないか?」
 沙理奈は甘えるように上目づかいで香澄を見た。
「明日はしこりの検査結果がわかる日なの……。あたし、お医者さんの言葉を信じて安心してたんだけど、だんだん心配になってきちゃって……。それでねえさんに一緒に行ってもらえれば心強いかなと思って……」
 香澄がちょっとからかうように言った。
「あんたって、けっこう心配性なんだね?」
「うん……」
「それで診察時間は何時だい?」
「10時なんだけど」
「わかった。あんたにつき合うことにするよ」
 そう言うと、香澄は沙理奈の肩をポンポンとたたいた。
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