第26話
文字数 3,707文字
第5章 手術(その5)
組織検査の結果が出る日の前の晩、山室が九州から戻ってきた。
台所に入って料理をつくり、家の中を切り盛りする沙理奈を見て、山室は驚きを隠せなかった。
「沙理奈さん、まるで何年もこの家の主婦をやってるようだよ」
「ううん、お義母 さんに教えてもらってやってるだけだから……」
そう言いながらも、沙理奈はまんざらでもない顔をした。
「この娘 は料理は上手だし、家事はできるし、たいしたものだ。なあ、志津江さん……?」
ハナがそう言って志津江を見た。
「そうですね……」
志津江は言葉少なにうなずくだけだった。
(母ちゃんは、まだ沙理奈さんを受け入れるつもりはないんだな……)
山室は、軽い失望と落胆が入り交じった思いで志津江を見つめた。
風呂から上がった沙理奈が部屋のドアを開けると、山室が布団の上にあぐらをかいて、となりでぐっすりと寝入っているあずさを見つめていた。
山室は沙理奈を見てにっこりと笑うと、ちょっと照れ臭そうに話しかけた。
「俺は……、きみの乳腺内視鏡手術の直前に九州に転勤になってしまったので、手術したあとのきみのおっぱいをまだこの目で見ていないんだ。それで頼みがあるんだけど……、いまここで、手術したおっぱいを見せてもらえないかな……?」
沙理奈はほんのりと頬を染めながらうなずいた。
「ごめんなさい……。純一さんに言われる前に、自分から見せなくちゃいけなかったのにね……」
沙理奈は山室の前に正座すると、パジャマの上着をゆっくりと脱いで、白いブラジャーだけの格好になった。そして、ブラジャーをはずそうと両手を背中にまわしたところで、突然顔を真っ赤にしてうつむいた。
「……、どうしたの……?」
山室の問いかけに、沙理奈は真っ赤になった顔をあげた。
その顔にははじらいが浮かんでいた。
「わたし、変になっちゃったみたいなの……」
「変になった……?」
「だって……、純一さんにおっぱいを見られるのが恥ずかしくて……。変よね、ついこの前まではあんなお店で働いていて、おっぱいを見られても触られても平気だったのにね……」
山室は沙理奈を引き寄せて、胸に抱きしめながらささやいた。
「変なんかじゃないよ。きみはようやく本当のきみに戻ったんだ。だから男の前でおっぱいを見せることに恥ずかしさを感じるようになったんだよ……。でも恥ずかしくても俺にだけは見せてくれよな……」
沙理奈はうなずいた。
山室が腕を離すと、後ろ手でホックをはずし、ブラジャーの肩ひもを両肩からはずして乳房をあらわにした。
手術をした左の乳房は右とまったく同じ形で、豊かできれいな円錐形をしていた。乳輪も乳首も右の乳房とまったく同じだった。
「触ってもいいかい……?」
山室が左の乳房に手を伸ばしながら訊いた。
沙理奈はこっくりとうなずいた。
山室はゆっくりと、そしてやさしく左の乳房を触ったあと、同じように右の乳房を触った。そのあと乳房から手を離すと、少し後ろにさがって左右の乳房をじっと見くらべた。
「ありがとう……。どちらもとてもきれいなおっぱいだよ……」
山室は沙理奈を見つめながら続けた。
「さすがは松本先生だね。右も左も形も感触も一緒だよ。これじゃどっちを手術したかわからないよ。本当によかったね……」
しかし沙理奈は、左の乳房に目をやりながら顔を曇らせた。
「でも……、明日わかる検査で……、もし……、がんが乳管を破っていたら……、左のおっぱいを取らなくちゃいけなくなっちゃう……。もしかしたら……、死んじゃうかもしれない……。そんなことになったら……、わたし、どうしよう……」
沙理奈は両手で顔を覆うと身体を震わせた。
山室はそんな沙理奈を再び抱き寄せた。
「大丈夫だ。そんなことは絶対にない。これまできみは一生懸命に生きてきたんだ。そして俺のおやじやおふくろ、ばあちゃんを一生懸命面倒見てくれたんだ。だから絶対に大丈夫だ」
沙理奈は山室の胸ですすり上げながら言った。
「純一さん、本当に大丈夫だよね……? 嘘じゃないよね……?」
「ああ、本当だとも、本当に大丈夫だから」
沙理奈をきつく抱きしめながら、山室はその言葉を何度も何度も繰り返した。
いよいよ組織検査の結果が出る日の朝を迎えた。
山室が身支度をしていると志津江が顔を出した。
「あたしはこれから父ちゃんのところに行ってくるからね……。お前たちももう少しで出るんだろう?」
「うん……」
靴下を履 きながら山室はうなずいた。
「よい結果だといいけどね……」
志津江はつぶやくように言うと、足早に部屋を出ていった。
思いがけない言葉に、山室はあわてて顔を上げて志津江の姿を目で追った。
庭先でエンジンの音が聞こえ、志津江の乗った車が門を出ていくのが見えた。
「母ちゃんも心配してくれているんだ……」
山室は思わず顔に笑みが浮かぶのを感じた。
松本医師の説明が予定されている11時まであと10分というときだった。
山室と沙理奈が7階の待合室で待っていると、エレベーターのドアが開いて、車いすに乗った孝太郎が姿を見せた。そしてその後ろには志津江が立っていた。
「父ちゃん……。母ちゃんまで……」
山室は両親のもとに駆け寄った。
沙理奈も目を丸くして立ち上がった。
沙理奈は、「お義父 さん……、お義母 さん……」と小さな声で言うと、丁寧にお辞儀をした。
「いやー、介護タクシーがなかなか来なくてな。間に合わないんじゃないかと心配したよ」
笑顔を見せながら孝太郎が言った。
「父ちゃん、わざわざすまないね……」
山室は軽く頭をさげると、「母ちゃんも……、ありがとう……」言って、志津江に向かって頭をさげた。
「あたしは父ちゃんの付き添いで来ただけだから……」
うつむきかげんに答える志津江を見ながら、山室と孝太郎は顔を見合わせてうなずき合った。
そのときエレベーターのドアが開いて、松本医師が姿を現した。
「今日は皆さん勢ぞろいですね」
松本医師は家族全員を見渡して声をかけたあと、「組織検査の結果が出ましたのでお伝えします。こちらにお入りください」と言って、山室たちを相談室に招き入れた。
正面のイスに座った松本医師は、全員が座ったのを確認すると、手もとにある検査結果に目を落とした。
その瞬間、沙理奈の顔からさっと血の気が引き、膝におかれた手が小刻みに震えだした。
それを見た山室は、沙理奈の手をしっかりと握りしめた。孝太郎と志津江が身を乗り出した。
松本医師はよく通る声で言った。
「がんは乳管の中にとどまっている状態でした。乳管の外には出ていませんでした」
思わず顔を覆った沙理奈のもとに志津江が駆け寄った。
「沙理奈さん……、あなた……、よかったわねえ……」
志津江は涙を浮かべながら沙理奈を抱き寄せた。
「……、お義母 さん……」
沙理奈は声にならない声で言うと、志津江の胸に顔をうずめた。
山室と孝太郎は強く握手をすると、笑顔でうなずき合った。
松本医師が笑顔で続けた。
「定期的な検査は受けていただくことになりますが、再発も転移もまず心配ないと思います」
松本医師の言葉に、山室は立ち上がって深々と頭をさげた。
「先生、本当にありがとうございました。これでようやく佐和子の無念を晴らせたような気がします」
「そうですね。私も同じ気持ちです。このようによい結果を迎えることができて、本当によかったと思います」
組織検査の結果を聞いたあと、孝太郎はひさしぶりに家に帰りたいと言い張った。
介護タクシーのお金がばかにならないと志津江が言っても、孝太郎は、「コメの1、2俵も売れば大丈夫だ」と言って譲らなかった。
自分の言い分が通って、1か月ぶりに家の門を見たときの孝太郎の喜びは大変なものだった。
車いすでみかげ石の門のところまで行くと、大きく深呼吸をした。
「家はいいなあ……。緑に囲まれていて空気はうまいし、日の光はきらきら輝いてるぞ」
そのあと振り返って田んぼを見た。
「いやー、ひと月見ない間に青々とした立派な稲に育ったなあ……。早く足を治して田んぼの草取りをせねばな……」
しばらくの間、孝太郎は愛おしそうに田んぼを見つめ続けた。
それにつられるように、沙理奈も、山室も、志津江も田んぼを見つめた。
風が通り過ぎるたびに稲は一斉に波うち、まるで海辺に立って緑の海を見ているようだった。
「きれい……。海の波みたいに田んぼが波うってる……。草の匂いもする……」
沙理奈が目を細めてつぶやいた。
「沙理奈、それは稲の匂いだよ。いい匂いだろう? こういう空気を吸って、採れたての野菜を食ってりゃ、俺のけがだって、お前の病気だって、あっという間に治ってしまうさ」
孝太郎は、病院にいるときとは別人のような力強い声で言うと、自分で車いすを漕いで玄関に向かった。
「おじいちゃん!」
孝太郎が玄関に入ったとたん、あずさが声をあげながら駆け寄ってきた。
「孝太郎、具合はどうだ?」
あずさのあとをハナがゆっくりと歩いてきて声をかけた。
「あとひと月もすれば元のように働けるようになるよ」
あずさの頭を撫でながら孝太郎は笑顔を見せた。
組織検査の結果が出る日の前の晩、山室が九州から戻ってきた。
台所に入って料理をつくり、家の中を切り盛りする沙理奈を見て、山室は驚きを隠せなかった。
「沙理奈さん、まるで何年もこの家の主婦をやってるようだよ」
「ううん、お
そう言いながらも、沙理奈はまんざらでもない顔をした。
「この
ハナがそう言って志津江を見た。
「そうですね……」
志津江は言葉少なにうなずくだけだった。
(母ちゃんは、まだ沙理奈さんを受け入れるつもりはないんだな……)
山室は、軽い失望と落胆が入り交じった思いで志津江を見つめた。
風呂から上がった沙理奈が部屋のドアを開けると、山室が布団の上にあぐらをかいて、となりでぐっすりと寝入っているあずさを見つめていた。
山室は沙理奈を見てにっこりと笑うと、ちょっと照れ臭そうに話しかけた。
「俺は……、きみの乳腺内視鏡手術の直前に九州に転勤になってしまったので、手術したあとのきみのおっぱいをまだこの目で見ていないんだ。それで頼みがあるんだけど……、いまここで、手術したおっぱいを見せてもらえないかな……?」
沙理奈はほんのりと頬を染めながらうなずいた。
「ごめんなさい……。純一さんに言われる前に、自分から見せなくちゃいけなかったのにね……」
沙理奈は山室の前に正座すると、パジャマの上着をゆっくりと脱いで、白いブラジャーだけの格好になった。そして、ブラジャーをはずそうと両手を背中にまわしたところで、突然顔を真っ赤にしてうつむいた。
「……、どうしたの……?」
山室の問いかけに、沙理奈は真っ赤になった顔をあげた。
その顔にははじらいが浮かんでいた。
「わたし、変になっちゃったみたいなの……」
「変になった……?」
「だって……、純一さんにおっぱいを見られるのが恥ずかしくて……。変よね、ついこの前まではあんなお店で働いていて、おっぱいを見られても触られても平気だったのにね……」
山室は沙理奈を引き寄せて、胸に抱きしめながらささやいた。
「変なんかじゃないよ。きみはようやく本当のきみに戻ったんだ。だから男の前でおっぱいを見せることに恥ずかしさを感じるようになったんだよ……。でも恥ずかしくても俺にだけは見せてくれよな……」
沙理奈はうなずいた。
山室が腕を離すと、後ろ手でホックをはずし、ブラジャーの肩ひもを両肩からはずして乳房をあらわにした。
手術をした左の乳房は右とまったく同じ形で、豊かできれいな円錐形をしていた。乳輪も乳首も右の乳房とまったく同じだった。
「触ってもいいかい……?」
山室が左の乳房に手を伸ばしながら訊いた。
沙理奈はこっくりとうなずいた。
山室はゆっくりと、そしてやさしく左の乳房を触ったあと、同じように右の乳房を触った。そのあと乳房から手を離すと、少し後ろにさがって左右の乳房をじっと見くらべた。
「ありがとう……。どちらもとてもきれいなおっぱいだよ……」
山室は沙理奈を見つめながら続けた。
「さすがは松本先生だね。右も左も形も感触も一緒だよ。これじゃどっちを手術したかわからないよ。本当によかったね……」
しかし沙理奈は、左の乳房に目をやりながら顔を曇らせた。
「でも……、明日わかる検査で……、もし……、がんが乳管を破っていたら……、左のおっぱいを取らなくちゃいけなくなっちゃう……。もしかしたら……、死んじゃうかもしれない……。そんなことになったら……、わたし、どうしよう……」
沙理奈は両手で顔を覆うと身体を震わせた。
山室はそんな沙理奈を再び抱き寄せた。
「大丈夫だ。そんなことは絶対にない。これまできみは一生懸命に生きてきたんだ。そして俺のおやじやおふくろ、ばあちゃんを一生懸命面倒見てくれたんだ。だから絶対に大丈夫だ」
沙理奈は山室の胸ですすり上げながら言った。
「純一さん、本当に大丈夫だよね……? 嘘じゃないよね……?」
「ああ、本当だとも、本当に大丈夫だから」
沙理奈をきつく抱きしめながら、山室はその言葉を何度も何度も繰り返した。
いよいよ組織検査の結果が出る日の朝を迎えた。
山室が身支度をしていると志津江が顔を出した。
「あたしはこれから父ちゃんのところに行ってくるからね……。お前たちももう少しで出るんだろう?」
「うん……」
靴下を
「よい結果だといいけどね……」
志津江はつぶやくように言うと、足早に部屋を出ていった。
思いがけない言葉に、山室はあわてて顔を上げて志津江の姿を目で追った。
庭先でエンジンの音が聞こえ、志津江の乗った車が門を出ていくのが見えた。
「母ちゃんも心配してくれているんだ……」
山室は思わず顔に笑みが浮かぶのを感じた。
松本医師の説明が予定されている11時まであと10分というときだった。
山室と沙理奈が7階の待合室で待っていると、エレベーターのドアが開いて、車いすに乗った孝太郎が姿を見せた。そしてその後ろには志津江が立っていた。
「父ちゃん……。母ちゃんまで……」
山室は両親のもとに駆け寄った。
沙理奈も目を丸くして立ち上がった。
沙理奈は、「お
「いやー、介護タクシーがなかなか来なくてな。間に合わないんじゃないかと心配したよ」
笑顔を見せながら孝太郎が言った。
「父ちゃん、わざわざすまないね……」
山室は軽く頭をさげると、「母ちゃんも……、ありがとう……」言って、志津江に向かって頭をさげた。
「あたしは父ちゃんの付き添いで来ただけだから……」
うつむきかげんに答える志津江を見ながら、山室と孝太郎は顔を見合わせてうなずき合った。
そのときエレベーターのドアが開いて、松本医師が姿を現した。
「今日は皆さん勢ぞろいですね」
松本医師は家族全員を見渡して声をかけたあと、「組織検査の結果が出ましたのでお伝えします。こちらにお入りください」と言って、山室たちを相談室に招き入れた。
正面のイスに座った松本医師は、全員が座ったのを確認すると、手もとにある検査結果に目を落とした。
その瞬間、沙理奈の顔からさっと血の気が引き、膝におかれた手が小刻みに震えだした。
それを見た山室は、沙理奈の手をしっかりと握りしめた。孝太郎と志津江が身を乗り出した。
松本医師はよく通る声で言った。
「がんは乳管の中にとどまっている状態でした。乳管の外には出ていませんでした」
思わず顔を覆った沙理奈のもとに志津江が駆け寄った。
「沙理奈さん……、あなた……、よかったわねえ……」
志津江は涙を浮かべながら沙理奈を抱き寄せた。
「……、お
沙理奈は声にならない声で言うと、志津江の胸に顔をうずめた。
山室と孝太郎は強く握手をすると、笑顔でうなずき合った。
松本医師が笑顔で続けた。
「定期的な検査は受けていただくことになりますが、再発も転移もまず心配ないと思います」
松本医師の言葉に、山室は立ち上がって深々と頭をさげた。
「先生、本当にありがとうございました。これでようやく佐和子の無念を晴らせたような気がします」
「そうですね。私も同じ気持ちです。このようによい結果を迎えることができて、本当によかったと思います」
組織検査の結果を聞いたあと、孝太郎はひさしぶりに家に帰りたいと言い張った。
介護タクシーのお金がばかにならないと志津江が言っても、孝太郎は、「コメの1、2俵も売れば大丈夫だ」と言って譲らなかった。
自分の言い分が通って、1か月ぶりに家の門を見たときの孝太郎の喜びは大変なものだった。
車いすでみかげ石の門のところまで行くと、大きく深呼吸をした。
「家はいいなあ……。緑に囲まれていて空気はうまいし、日の光はきらきら輝いてるぞ」
そのあと振り返って田んぼを見た。
「いやー、ひと月見ない間に青々とした立派な稲に育ったなあ……。早く足を治して田んぼの草取りをせねばな……」
しばらくの間、孝太郎は愛おしそうに田んぼを見つめ続けた。
それにつられるように、沙理奈も、山室も、志津江も田んぼを見つめた。
風が通り過ぎるたびに稲は一斉に波うち、まるで海辺に立って緑の海を見ているようだった。
「きれい……。海の波みたいに田んぼが波うってる……。草の匂いもする……」
沙理奈が目を細めてつぶやいた。
「沙理奈、それは稲の匂いだよ。いい匂いだろう? こういう空気を吸って、採れたての野菜を食ってりゃ、俺のけがだって、お前の病気だって、あっという間に治ってしまうさ」
孝太郎は、病院にいるときとは別人のような力強い声で言うと、自分で車いすを漕いで玄関に向かった。
「おじいちゃん!」
孝太郎が玄関に入ったとたん、あずさが声をあげながら駆け寄ってきた。
「孝太郎、具合はどうだ?」
あずさのあとをハナがゆっくりと歩いてきて声をかけた。
「あとひと月もすれば元のように働けるようになるよ」
あずさの頭を撫でながら孝太郎は笑顔を見せた。