第21話

文字数 3,023文字

第4章 家族(その6)

「それで、がんの大きさが3センチから4センチまでならば温存療法が可能です。ただし4センチというのはおっぱいが大きい人にかぎりますが」
「どうして3センチから4センチと決まっているんですか?」 
 沙理奈が尋ねた。
「日本の女性はおっぱいが小さい人が多いのですが、3センチを超えてしまうとおっぱいの変形が大きくなってしまうからです」
 松本医師はMRIの画像を指さしながら説明を続けた。
「さて問題のがんの広がり具合ですが、乳管に沿ってがんが広がっているところが白く映し出されています。これを見ると乳房の左上辺部から中心部に向かって白く映っています。大きさはおおよそ5センチと認められます」
「5センチも……」 
 山室と沙理奈は顔を見合わせた。
 その様子を見た松本医師は、「お二人とも近寄って画像をご覧になってください」と声をかけると、手にした定規を白く映っている個所に当てた。
「この長さで1センチです。そうすると白く映っている部分はここまでですから……、おおよそ5センチとなります」
 画像を食い入るように見つめていた沙理奈は、やがて視線を下に落としてイスのところに戻るとがっくりと腰をおろした。
 山室はなおも画像を見つめ続けていたが、「ふー」とため息をついてイスに座った。
「先生……、5センチでは温存療法は無理ですね……」 
 山室はMRIの画像に目をやりながら言った。
「そうですね……。5センチでは切除する範囲が大きくなりますからね」 
 山室は沙理奈の肩を抱き寄せて顔を覗き込んだ。
 沙理奈は必死で涙をこらえているようだった。
「2回も検査していただいた上での結論なんだ……。本当に残念だけど、命が助かるために全摘手術を受け入れてほしい……」
 山室の言葉に、沙理奈は黙って二、三度うなずいた。
 やがて沙理奈は顔を上げると、うっすらと涙が滲んだ目で松本医師を見つめた。
「先生……、ありがとうございました。これでわたしも心が決まりました。手術の方をよろしくお願いします……」
 しかし松本医師は何も言わずに机の中から一枚の写真を取り出すと、それを沙理奈に差し出した。それは顔が写っていない上半身裸の女性の写真だった。
「この写真は34歳の患者さんの手術後の写真です。私が左の乳房を手術しました。竹井さんと同じように乳管の中にとどまっていたがんでしたが、竹井さんよりも大きくて、7センチの広がりがありました」
 沙理奈はじっと写真を見つめていたが、やがてつぶやいた。
「……。手術してもおっぱいが残ってる……」
 山室は、沙理奈の手から奪うようにして写真を受け取ると、食い入るように見つめたあと、松本医師に向かって言った。
「先生、これは……?」
 松本医師は大きくうなずいた。
「これは乳腺内視鏡手術といわれる方法で手術したものです」
「内視鏡って胃とか腸の検査のときに身体の中に入れるものですよね? それを使って乳がんの手術ができるのですか?」
「ええ、技術の進歩にはめざましいものがあります。わきの下などを切開して、そこから内視鏡を入れてがんに侵された乳腺を摘出し、その後シリコンなどのインプラントを入れて乳房の形を整えるのです」
 そう言うと松本医師は、写真をもう一枚取り出して山室と沙理奈に手渡した。
「これは左腕を上げてもらって撮った写真です。わきの下の傷はほとんど目立たないでしょう? この方の場合は乳輪のわきも切開していますが、それも目立たないでしょう?」
 山室と沙理奈はうなずいた。
「乳房は女性にとって大事なものです。残せるものならば残したいし、残すのであればできるだけきれいに残したいと私は考えています」
「先生……、その内視鏡の手術でわたしのおっぱいも残せるんですか?」 
 沙理奈は左の胸に手を当てながら訊いた。
「ええ、がんが乳管内にとどまっているのであれば、竹井さんの場合も残せます」 
「先生、そうするとがんが乳管の外に出ていれば残せないんですか?」
 山室が身を乗り出すようにして訊いた。
「がんが乳管の外に出ていれば転移のリスクを考えなければなりません。その場合は残念ですが、乳房の全摘と放射線治療、抗がん剤治療を行う必要があります」 
 松本医師の言葉に沙理奈はうつむいた。
 そんな沙理奈に松本医師がやさしく話しかけた。
「竹井さん、乳腺内視鏡手術でがんに侵された乳管を摘出しましょう。そしてまずはおっぱいを残すことを考えましょう。その上で摘出した乳管を検査して、がんが乳管の外に出ているかいないかを調べることにしましょう。こういうことでどうでしょうか?」
 沙理奈は顔を上げると、松本医師をしっかりと見つめた。
「わかりました。先生のおっしゃるとおりにしたいと思います。どうかよろしくお願いします」 
 沙理奈は深々と頭をさげた。
 松本医師はうなずくと、山室を見つめた。
「山室さんもよろしいでしょうか?」
「はい、よろしくお願いします」
 山室もあわてて頭をさげた。
 松本医師が続けた。
「それでは10日後に乳腺内視鏡手術を行うことにします。この手術では長期間の入院は必要ありません。ひと晩の入院で済みますので負担は軽くなります。
 そのあと摘出した乳管を組織検査に回して、がんが乳管内にとどまっているか、乳管を破って外に出ているかを検査することになります。この検査にはおおよそ1か月かかると思います。
 以上で説明を終わりますが、何か質問はありますか?」
 山室と沙理奈は首を振ると、「先生、よろしくお願いします」と言って、そろって頭をさげた。
 
 手術時間の確認や支払いを済ませたあと、山室たちはそのまま仙台駅に向かい、駅ビルで昼食を取ったあと、まっすぐ東京に帰ることにした。
 イタリアンレストランに入って注文を終えたところで、山室は携帯電話を取り出した。
「ちょっと外に出て、今日の診察の結果をおやじに話してくるから」
「よろしくお願いします」 
 沙理奈が頭をさげた。
 山室は人が少ない一角を見つけると、通話ボタンを押した。呼出音が二回ほど鳴って孝太郎が出た。
「あっ、父ちゃんかい? 彼女の診察が終わったんで、一応報告しておこうと思って電話したんだ」
「そうか……、それで結果はどうだった?」
「うん……、がんは5センチくらいの大きさで乳管内に広がっているそうだ。先生は内視鏡での手術を考えているんだけど……」
「内視鏡での手術……?」
「わきの下から内視鏡を入れて、がんに侵された乳管を摘出する手術で、佐和子のときのようにおっぱいを取るということはないんだそうだ」
 孝太郎の声が明るくなった。
「そうか、それはよかったなあ……」
「ただ……」
「ただ……?」
 山室の沈んだ声に、孝太郎は気遣わしげに訊いた。
「転移の心配がないかどうかは、摘出した乳管を検査しないとわからないそうなんだ」
「それはどういうことなんだ……?」
「がんが乳管を破って外に出ていた場合は、おっぱいの全摘とか放射線治療が必要になるかもしれないんだ」
「そうか……」
 そこで山室は話題を変えた。
「ところで母ちゃんの様子は?」
「それがな……、がんに(かか)っているうえに風俗で働いていた女との結婚は認めないって言ってるんだ……。俺が、『しっかりした良い女の人じゃないか』と言っても聞く耳を持たないんだ」
「そうか……。それじゃ、10日後に内視鏡の手術でこっちに来るんだけど、母ちゃんの様子がそうだったら顔は出さないからね」

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