第13話

文字数 4,208文字

第3章 診断(その6)

 不動産屋と託児所を回って契約打ち切りの手続きを済ませたあと、沙理奈とあずさが大久保のアパートに戻ったのはお昼近くだった。
 お触りパブで働きはじめてから今日まで4年を過ごした部屋に入ったとき、沙理奈は一瞬信じられない思いにとらわれた。
(あたしの人生は……、きのう1日で変わってしまった……。乳がんに罹っていることがわかって……、山室さんに求婚されて一緒に暮らすことになって……、お店を辞めることになるなんて……)
 玄関に立ち尽くす沙理奈の身体をあずさが揺さぶった。
「ママ、お腹が空いた。早くお弁当を食べようよ」
 沙理奈は目をしばたたかせながらあずさを見た。
「ごめんね……。そうだね、お弁当を食べようね……」
 近くのコンビニで買った弁当を開いたとき、沙理奈の携帯電話が鳴った。
「あっ……、香澄ねえさんからだ……」
 通話ボタンを押したとたん、香澄の心配そうな声が聞こえた。
「あんた、昨日は大丈夫だったかい?」
「うん、大丈夫だった」
 そのあと沙理奈は、山室から求婚されて、昨日の夜から彼の部屋で暮らしはじめたことを伝えた。
「あんた、よかったねえ……、ようやくあんたたち母子にも春が巡ってきたんだ……」 
 香澄が涙声で言った。
「ねえさん、ありがとう……。ところで、お店ではあたしが辞めることをすんなり了承してくれた?」
 香澄の声が曇った。
「それがねえ……、あの支配人には立ち入ったことは言いたくないだろ? それであんたは一身上の都合で辞めるって言ったんだ。そしたら支配人の奴、どうしてもあんたの口から事情を聞かなくちゃならないって息巻いてさ……。違約金を請求するなんて言ってるんだ」
「違約金……?」
 沙理奈は息を呑んだ。
「50万円とか100万円とか口走ってた……。それであんた、どうする……?」
「どうしよう……。あたし、そんな難しい話は全然わからないし……。それでいつ説明に来いって言ってるの?」
「今日来いって言ってるんだ」
「そう……、わかった……」
 電話を切ったあと、沙理奈は大きくため息をついた。
 店の女たちにとって、支配人の細田は一番苦手なタイプの男だった。大学の法学部出とかで、女たちから残業代とか有給休暇などの話が出ると、細田は女たちが耳にしたこともない法律や条文を持ち出してきては、女たちを言い負かしてしまうのだった。
(あたし一人ではあの支配人にとてもかなわない……。きっと違約金を払う約束をさせられてしまうだろう……) 
 沙理奈はそう思った。
 さっきまでお腹が空いてはずだったのに、食欲は消え失せていた。あずさが大きな口を開けてごはんをほおばるのを見ながら、沙理奈はそっとつぶやいた。
「山室さんにお願いして、立ち会ってもらうしかない……」 
 山室の電話番号に発信ボタンを押すと、すぐに山室が出た。
「沙理奈です。忙しいところごめんなさい。お願いがあるんだけど……」と言って、沙理奈は香澄から聞いたことを山室に話した。
「口では支配人にとてもかなわないの。それで山室さん……、じゃなくて純一さんにも立ち会ってもらいたいんだけど……」
「きみもいろいろ苦労するね。わかった。6時半には店に行くことにするから。でもその間あずさちゃんはどうするの?」
「店に連れていけないし……。香澄ねえさんもダメだし……。そうだ、1時間ぐらいだったらバイトしてたコンビニのオーナーの奥さんにお願いできると思う」
「わかった。それじゃ6時半に店の前で」

 山室は6時20分に店の前に姿を見せた。
 沙理奈が駆け寄った。
「こんなことまでお願いしてごめんね。でも山室さん……、じゃなくて純一さんしか頼る人がいなくて……」
「惚れた女に頼られるのは男冥利に尽きるってものだ」 
 山室は笑顔を見せた。
「ところであずさちゃんは預かってもらえた?」
「うん、コンビニのオーナーの奥さんが預かってくれた」
 山室はうなずくと、「それはよかった。それじゃ話をつけに行くか」と言って、大股で店の入口に向かった。
 時間が早いせいか、待っている客はおらず、受付では茶髪で耳にピアスを付けた兄ちゃん風の店員がスマホをいじっていた。
「あの、ちょっと」 
 山室が声をかけると、兄ちゃん風の店員はあわてて顔をあげた。
 山室は、「いらっしゃいませ」と言おうとする店員をおさえて、「支配人にお会いしたいんですが」と告げた。
 店員は、「支配人に……?」と言いながら山室の顔を見たあと、遅れて入ってきた沙理奈を見て、突然、「あっ! あんたは!」と声を上げると、あわてて店の奥に駆け込んでいった。
「彼は純一さんのことをストーカーだと勘違いしてて、きっと用心棒の安藤を呼びに行ったんだわ」 
 その様子を見て沙理奈が言った。
 すぐにワイシャツに蝶ネクタイ姿の安藤が姿を現わした。
「お客さんはまだ懲りずにうちの子につきまとってるんですか?」
 安藤はそう言いながら、鋭い目つきで山室を見すえた。
「ちがうのよ。あたし、支配人に呼ばれていて、この人は付き添いで来ただけなのよ」
 沙理奈はあわてて言ったが、安藤は、「ジャスミンさんは黙っていてください」と言いながら山室に近づいていった。
「安藤さん、彼女が言ったとおりなんだ。俺はストーカーなんかじゃない」 
 山室はなだめるように言った。
 しかし安藤は、無言のまま1メートルの距離まで近づくと、山室の右腕をつかもうといきなり両腕を伸ばした。
 次の瞬間、山室はすっと沈み込んで安藤の背後にまわり込むと、安藤の右腕のひじのあたりをがっちりと抱え込んだ。
 いままで経験したことのない展開に、安藤は山室の腕を振りほどこうと、あわてて身体をよじった。
 しかしいくら安藤が身体をよじっても、山室の腕は微動だにせず、逆に山室が徐々に腕に力を込めていくと、安藤はかすかにうめき声を上げるだけで、身体を動かすこともままならなくなった。
「このまま安藤さんに支配人のところまで案内してもらった方がいいよね」 
 そう言って山室は沙理奈を見た。沙理奈は目を丸くしたままうなずいた。
 すれ違う女たちは、沙理奈の先導で安藤と一緒に歩く山室を不審そうに見つめた。
 支配人室の前に着き、沙理奈がドアをノックした。
「ジャスミンです」
「入っていいよ」 
 部屋の中からだみ声が答えた。
 沙理奈に続いて入ってきた山室と安藤を見て、支配人の細田は驚いてイスから腰を浮かせた。
「安藤……、一体どうしたんだ……? それにあんたは一体誰なんだ?」
 山室は軽く笑顔を見せると、安藤の右ひじから腕を離した。安藤は右ひじをさすりながら無言でその場に立ち尽くした。
「あなたが支配人の細田さんですか」
 山室は軽く頭をさげると、丁寧な口調で言った。
「ああ……、そうだが……。ところであんたは?」
「私は山室といいます。となりにいる竹井沙理奈さんの婚約者です」
「沙理奈の……、いや……、ジャスミンの婚約者……?」 
 細田は目を白黒させた。
「ええ、ウソだと思うなら彼女にも訊いてください」
「こ、この男が……、い、言ったことは本当なのか……?」 
 細田はどもりながら訊いた。
「はい、本当です」 
 沙理奈が低い声で答えた。
「細田さん」 
 山室が落ち着いた口調で話しかけた。
「私はあなたの店の対応に怒っています。すぐにでも警察に届けようかと思っているんです」
「け、警察……」
「ええ、沙理奈さんに頼まれて、付き添いで今日の話し合いに立ち会おうとしただけなのに、安藤さんはいきなり私の腕をつかもうとしてきたんですからね。
 それからまだあります。半月ほど前に客でここに来て、沙理奈さんと話していたら、この安藤さんがいきなりやって来て、ものすごい力で私の腕をつかんで店の外に引きずり出したことがあったんです。安藤さん、覚えているよね?」
「俺はてっきりあんたがストーカーだと思ったんだ……」 
 安藤は腕をさすりながらつぶやいた。
 山室は続けた。
「今日のこともそうだけど、相手の話も聞かないで暴力を振るうのはよくないですよね……。それで私が警察に届けたとしてですよ、そのあとで仕事を辞めたいと申し出た女の子から違約金を取ったなんてことがわかったら、もっとまずいことになりますよね?」
「あんたは何が言いたいんだ?」 
 細田がいら立った表情を見せた。
 山室は相変わらず落ち着いた口調で続けた。
「沙理奈さんが仕事を辞めますと言ったら、細田さん、あなたは違約金を取ると言ったそうですね」
「話によっては取ることもあると言っただけだ……」
「仕事を辞めるのは何も法律に違反することじゃないですよ。それなのに違約金を取るってことは、それこそ法律違反ですよ。私が受けた暴力もそうだけれど、そんなことが警察や役所にわかったら、あなたの店は大変なことになりますよ」
「…………」
「細田さん、沙理奈さんは何のペナルティーもなく辞めることができるんですよね?」
 細田は苦い顔でうなずいた。
「それでは今日付で退職届を出せば、今日で仕事を辞めることができるんですよね?」
 細田はそっぽを向きながらうなずいた。
 山室は内ポケットから封筒に入った紙を2枚取り出すと、それを沙理奈に渡した。それは退職届だった。
「沙理奈さん、この2枚に日付と名前を書いて、名前の横にハンコを押したら、支配人に渡しなさい」
「はい……」
 沙理奈は、言われたとおり日付と名前を書き、ハンコを押すと、細田に一礼して退職届を渡した。
 山室は細田に向かって言った。
「お手数ですが、『今日付で退職を認める』の文字の下に、日付、名前、ハンコをお願いできますか」
 細田は黙ったまま、投げやりな態度で日付と名前を書くと、ハンコを押した。
 山室は2枚の退職届を手に取ると、1枚を上着の内ポケットにしまい、1枚を細田に渡した。
「細田さんは私の言うことをわかってくれましたし、沙理奈さんはこの店にお世話になりました。ですので、安藤さんのことは警察に届けることはしません。安心してください。それでは失礼します」
 山室は細田に向かって軽く会釈すると、沙理奈を促して部屋を出た。
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