第9話

文字数 3,378文字

第3章 診断(その2)

 引かれたカーテンの下にそろえて置かれた靴が見えた。
 カーテンの向こうで沙理奈が休んでいるようだった。
「沙理奈さん……」 
 山室が声をかけた。
「はい……」 
 小さな返事が聞こえた。
「山室です……。カーテンを開けてもいいかな……?」
「はい……」
 山室がカーテンを開けると、沙理奈の青白い顔が見えた。
「大変だったね……」
 山室は枕元のイスに腰をおろした。
「山室さん、わざわざ来てくれたの……?」 
 沙理奈がぎごちない笑顔を浮かべた。
「うん……。たったいま先生から検査の結果を聞いたよ……」
「あたし、がんだったんだ……。まだ30前なのに……。何も悪いことなんかしてないのに……。あずさだってまだ小さいのに……。あたし、これからどうしていいかわからない……」
 沙理奈の目にみるみる涙が盛り上がり、目頭から、目じりからとめどなく流れ落ちた。
 それを見つめる山室の目にも涙が浮かんだ。
「かわいそうに……」  
 山室は沙理奈の手を取ると、両手でやさしく包み込んだ。
 沙理奈の口から嗚咽が漏れ出した。すぐにそれは泣き声に変わった。沙理奈は、ぶつけるようにして山室の胸に顔をうずめると大声で泣き出した。
 山室は沙理奈をしっかり抱きしめ、背中をさすった。ドアが開く音に山室は振り返った。ドアを半分ほど開けて立っている石山医師の姿が見えた。 
 石山医師は山室と目が合うと、黙ってうなずき、静かにドアを閉めた。
 10分ほど泣き続けて、ようやく沙理奈は落ち着きを取り戻したようだった。
 沙理奈は顔を起こすと、涙でぐしょぐしょになった顔を拭こうと、バッグを開けてハンカチを探しはじめた。
「これを使うといい……」 
 山室がブルーのハンカチを差し出した。
「……、すみません……」 
 沙理奈は目のまわりをさかんに拭った。
 やがて涙を拭き終わった沙理奈は、少し照れたような顔を見せた。
「人前でこんなに泣いたのは生まれてはじめて……。あたし、小さいときから人前では絶対に泣くもんか、と思って生きてきた。でも大声で泣いたら少しすっきりした……」
 山室は黙ってうなずいた。
「山室さん、ごめんなさい。ハンカチをこんなに汚しちゃって。それからワイシャツも……」
 山室のワイシャツには化粧の汚れがついていた。
「そんなことは気にしなくていいよ……。それより気持ちが落ち着いたら、待合室に行かないとね。大津さんが心配してるだろうから……」
「大津さん……? ああ、香澄ねえさんのことね……。うん、そうだね……」
「それから、外来の患者さんの診察が終わったら、きみに治療方針を説明したいって先生が言っていた。だから昼過ぎまで待っていなくちゃならない」
「そう……、じゃ今度は先生の説明を最後まで聞かないと……」
 沙理奈は、立ち上がるためベッドに腰掛ける姿勢となった。
 そんな沙理奈のために山室は靴をそろえてやりながら、「起き上れるかい?」と声をかけた。
「うん、もう大丈夫……」
 沙理奈が山室の腕にすがって立ち上がったとき、二人は身体を密着させて向き合う格好になった。
 そのとき沙理奈の両肩に山室の手がおかれた。
 沙理奈が山室の顔を見上げた。
 山室は沙理奈の目をじっと見つめると、低く落ち着いた声で言った。
「俺はきみのことが好きになった……」
 肩におかれた手が背中にまわり、沙理奈は強く抱きしめられた。思いがけない抱擁に沙理奈はあえいだ。
 しかし沙理奈の唇はすぐに山室の唇で塞がれた。キスの甘い感触が電流のように身体を走り抜け、沙理奈は夢中で山室にしがみついた。
 すぐに山室の唇が離れた。山室が低い声でささやいた。
「俺はきみのことが好きだ。きみの力になりたい。できることは何でもするつもりだ……」
「……、あたし、がんなんだよ。この先どうなっちゃうかわからないんだよ。それでもいいの……?」
「いい……」
「あたし、誰にでもおっぱいを触らせるような女なんだよ。それでもいいの……?」
「いい……」
「あたし、父親のいない子供がいるんだよ。それでもいいの……?」
「いい……」
「あたし……」
「俺はいまのきみが好きだ。だからもう何も言わなくていい。それよりきみは俺のことをどう思ってるんだい?」
 沙理奈はうつむいた。山室が耳もとでささやいた。
「どう思ってるんだい?」
「好き……」
 そのとたん沙理奈は再び強く抱きしめられ、山室のキスを受けた。沙理奈の目から再び涙があふれた。
 山室が抱擁を解くと、沙理奈はハンカチで涙を拭きながら泣き笑いの顔で言った。
「あたし、今日は不幸なんだか、幸せなんだか全然わからない……。がんだって言われたその日に、山室さんから好きだって言われるなんて……。でも山室さんのおかげで、頑張ろうという気持ちが湧いてきた……」
 山室が笑顔を見せた。
「そうか、それはひとまずよかったということかな……。それじゃ香澄ねえさんのところに行こうか……」

 沙理奈と山室を見つけたあずさは、「ママー」と言いながら駆け寄ってきた。そのあずさの後ろから青い顔をした香澄が小走りに近づいてきた。
「あんた、結果はどうだったの? 山室さんが診察室に入ってから30分以上も待ったんだよ。あたしもあずさちゃんも心配で、心配で……」
 山室が沙理奈を見た。
「俺があずさちゃんを見ているので、きみから香澄さんに話した方がいい」
 沙理奈はうなずくと、香澄の手を取って窓際に向かって歩き出した。窓際まで行って、あたりに人がいないことを確認すると、沙理奈は胸に手をおいて口を開いた。
「ねえさん……、検査の結果は……、がんだったの……」
「そんな……」
 そう言ったきり香澄は絶句した。
「それを聞いたとたん、あたし、気分が悪くなっちゃって、診察室のとなりの部屋で横になってたんだ……。ねえさん、ずうっと待たせてごめんね……」
「あんた……」と言ったあと、香澄は言葉を詰まらせ、ハンカチで目を拭いた。
 沙理奈は目をしばたたかせながら続けた。
「あたし、山室さんの顔を見て大泣きした……。でも……、山室さんがあたしのことを好きだって言ってくれて……、力になるって言ってくれた……。それであたし、頑張ろうと思うの……」
 香澄は沙理奈を抱き寄せた。
「そうかい……。山室さんがあんたのことを……。そうかい……」 
 二人が山室のところに戻ったちょうどそのとき、山室がポケットから携帯電話を取り出して、足早に待合室の外に出ていった。
 しばらくして戻ってきた山室は沙理奈に頭をさげた。
「すまない。急ぎの仕事が入って、これから会社に戻らなければならなくなった」
 そのあと山室は、香澄に目をやりながら言った。
「悪いけど、香澄さんと二人で石山先生の説明を聞いてくれないか」
 沙理奈は黙ってうなずいた。
 山室は沙理奈の肩に手をおいた。
「その前に伝えておきたいことがある。乳がんは初期のものなのできみは助かると石山先生は言っていた。だから落ち着いて先生の説明を聞いてほしい」
 沙理奈がわずかに目を見開いた。
「あたし……、助かるの……?」
 山室は大きくうなずいた。
「もう一つ伝えておくことがある。俺は、きみの胸のしこりを家内の主治医だった仙台の松本先生にも診てもらいたいと考えて、そのことを石山先生に話した。そして先生はそれを了承してくれた」
 沙理奈の目に涙が浮かんだ。
「そんなにまであたしのことを考えてくれるなんて……」
「好きな(ひと)のためだ……」  
 山室はそっとささやいたあと、香澄に向かって頭をさげた。
「彼女のことをよろしくお願いします。それから……、彼女はもう店で働くことができなくなりました。店の責任者にそのことを伝えてほしいのですが……」
「わかりました。店の支配人にはそのように伝えます」
 香澄はうなずいた。
「ありがとうございます」
 山室はもう一度頭をさげたあと、沙理奈の手を握りしめた。
「何があっても俺はきみの力になる。夕方仕事が終わったらきみのところに行くので、アパートで待っていてほしい」
 そう言うと、山室は待合室から足早に出ていった。
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