第24話

文字数 3,804文字

第5章 手術(その3)

 東京に戻った沙理奈のもとに山室から電話があったのは夜の9時すぎだった。
「電話が遅くなってすまない。それで手術の方はどうだった?」
 そう尋ねる山室の声には疲れが滲んでいた。
 沙理奈は、手術は無事済んで、検査の結果は1か月後にわかることを伝えたあと、孝太郎によくしてもらったことを話した。
「そうか……。父ちゃんがそんなにしてくれたのか……。今日は遅いんで、明日電話をしてお礼を言っておこう」
 疲れの中にもうれしさが混じった声で山室が言った。
「ところで純一さん。疲れているみたいだけど……」
「慣れない土地でのセールスなんで、ちょっとね……。まあ、慣れてくれば何でもうまくいくようになるだろうから、別に心配しなくてもいい」
 その言葉を聞きながらも、沙理奈は不安な気持ちが広がっていくのを感じた。

「お昼は焼きそばでもつくろうか?」
 その1週間後、沙理奈があずさとそんな会話を交わしているときだった。
 突然沙理奈の携帯電話が鳴った。山室からだった。
「えっ! 純一さんからだわ」
 急いで通話ボタンを押した沙理奈の耳に、山室の切迫した声が飛び込んできた。
「おやじがけがをして病院に運ばれたそうだ!」
「えっ! お義父さんがけが………」
 その瞬間、心臓がぎゅっと縮み上がり、頭の中が真っ白になった。
「命は大丈夫なの? ひどいけがなの? どこをけがしたの?」
 自分でも何を言っているかわからないまま、沙理奈の口から言葉だけが勝手に飛び出した。めずらしく山室も取り乱した口調で答えた。
「おふくろも取り乱している状態でよくわからない。何でも耕運機が転倒してその下敷きになったらしい。とにかくすぐに仙台に向かうことにする。着いて状況がわかったらすぐに連絡するから」
 通話が切れた携帯電話を耳に当てたまま、沙理奈は呆然と立ち尽くした。
 あずさが不安な顔で沙理奈を見上げた。
「……、ママ……、何かあったの……?」
「仙台のおじいちゃんがけがをして病院に運ばれたんだって……」
 そう言ったとたん、沙理奈の頭に1週間前に孝太郎と別れた時の情景がよみがえった。
「あんなによくしてくれたお義父(とう)さんが……」
 沙理奈の目から涙がどっとあふれ出た。
 
 山室から連絡が入ったのは夜の10時を大きく回ったときだった。
「ようやく状況がわかった」
 山室が落ち着いた声で言った。
「おやじは仙台総合病院に入院した。命に別状はないから安心してくれ。今は麻酔が効いて眠っている。けがをしたときの状況だけど、右脚が転倒した耕運機の下敷きになったそうだ。出血はほとんどなかったが、何か所か骨折しているそうだ」
「命に別状はないのね……」
 沙理奈は涙を拭きながら言った。
「うん……。ただ……」
「ただ……?」
 山室はくぐもった声で続けた。
「右足首の損傷がかなりひどいそうだ。歩くのが不自由になるかもしれないと医者からは言われた……」
「そんな……」
 沙理奈の目から再び涙があふれ出た。
「それで……、お義父(とう)さんはどれくらい入院しなくちゃならないの……?」
「2か月の入院が必要だと言われた」

 沙理奈は、ベッドに入ってからもなかなか寝つくことができなかった。
 山室や孝太郎のために何かをしてあげたいという思いが頭の中を駆け巡っていた。突然その思いが一つの考えにまとまった。
(乳がんの手術は内視鏡手術だったから、両手は動かせるし、料理も洗濯も掃除だってできる。だったら、お義父(とう)さんの看病を手伝ったり、純一さんのおうちの家事を手伝ったりすることはできるはずだわ。
 よし、明日仙台に行って、お義母(かあ)さんにそのようにお願いしよう。お義母(かあ)さんが『いい』と言ってくれるまで、何度でもお願いしよう……)
 そう考えが決まると急に気持ちが軽くなり、やがて沙理奈は眠りに落ちた。
 翌日、沙理奈は山室に知らせることなく仙台に向かった。
 仙台駅前で買い求めた花を手に、病室の前に立ったのはお昼前だった。
「あずさ、おじいちゃんはけがをして寝ているんだから、いい子にしててね……」
 あずさがこっくりとうなずいたちょうどとき、病室のドアが開いて、中から志津江が出てきた。
「あなたたち……」
 志津江は目を丸くして沙理奈とあずさを見つめた。
「……、お義父(とう)さんがけがをしたと聞きましたので、お見舞いに伺いました……」
 そう言って沙理奈はお辞儀をした。一緒にあずさも頭をさげた。
 志津江は、少しの間黙ってその様子を見つめていたが、やがて感情を押し殺した声で言った。
「わざわざ遠くから来てもらってすみません……。いま主人は休んでいるのでここで失礼させてください。あなたたちがお見舞いに来たことは、あとで主人に伝えておきますから」
 志津江は軽く頭をさげてドアを閉めようとした。
 沙理奈はあわてて花を差し出した。
「あの、これ……、お見舞いのお花です……。それから…、何でもいいですから、お手伝いをさせてもらえませんか……。どうかお願いします……」
 そう言いながら、沙理奈は何度も頭をさげた。
 しかし志津江は固い声で、「せっかくですからお花はいただいておきます。でもお手伝いはけっこうですから」と言うと、再びドアを閉めようとした。
「お義母さん……」
 沙理奈がなおも言いかけたときだった。
 病室の中から、「母ちゃん、だれか来てるのかい?」と言う山室の声が聞こえた。 
 そのとたん、「あっ、山室のおじさんだ!」と、あずさが声をあげた。
「えっ! あずさちゃん……?」と言う声がして、山室が顔を出した。
「……、きみたち……、沙理奈さん……。あずさちゃん……。どうしてここに……?」
「どうしてもお見舞いに来たくて……。それと何かお手伝いがしたいと思って……。なにも言わずに来てしまってごめんなさい……」
 沙理奈は頭をさげた。
 山室は振り返って志津江を見たあと、静かに言った。
「母ちゃん、せっかく東京から見舞いに来てくれたんだ。父ちゃんに会わせてやろうよ」
 山室が沙理奈の手を取ったとき、「お湯を入れてくるから……」と言って、志津江がポットを手に病室を出ていった。
 山室に案内されて病室に入ると、目を閉じて横になっている孝太郎の姿が目に入った。
 沙理奈とあずさは枕元に近寄ると、小さな声で、「お義父(とう)さん……」、「おじいちゃん……」と声をかけた。
 すると孝太郎がゆっくりと目を開けた。
「おお……、お前たち……、わざわざ来てくれたのか……。すまないなあ……」
 孝太郎はわずかに笑顔を見せた。
「……、お義父(とう)さん、痛みますか……?」
 沙理奈の問いかけに、孝太郎はわずかに首を振った。
「……、大丈夫だ……。……、俺も年だなあ……。耕運機を転倒させるなんてなあ……」
 そう言うと、孝太郎は再び目を閉じた。
 山室は沙理奈を見て、手ぶりでイスに座るように促した。
 沙理奈とあずさが腰をおろしたとき、ドアが開いて志津江が戻ってきた。
 志津江は何も言わずにお茶の支度をはじめると、「はい、お茶……」と言って、沙理奈とあずさの前に置いた。
「お義母(かあ)さん……。ありがとうございます……」
 沙理奈は立ち上がって深く頭をさげた。
 しかし志津江は、沙理奈と目を合わせようとはせず、黙って部屋の隅にあるイスに座った。
 その様子をじっと見ていた山室は、沙理奈に部屋の外に出るように目配せした。
 山室は、病室から少し離れたところに沙理奈を連れていくと、口を開いた。
「きみはこれからどうしたいと考えてるの?」
「お義父(とう)さんが退院するまで、こっちでお手伝いをしたいと考えてる……」
「そうか……。ばあちゃんの面倒も見なくちゃいけないし、そうしてもらえれば、きっとおふくろだって助かるんだろうな……。ところでおっぱいの方は大丈夫なんだね……?」
「うん。痛みはないし、腕も動くわ……」
「わかった。きみの希望どおりになるようにおふくろを説得してみる。その間、きみはあずさちゃんと食事に行くといい」
 山室はうなずきながら、沙理奈の肩を軽くたたいた。
 
 食事を終えて沙理奈とあずさが病院に戻ったとき、玄関に山室が立っていた。
 山室は沙理奈を見つけると、待合室に連れていった。
「さっきおふくろと話をした。本音を言えば助かると言っていた。ただ……、きみに対してわだかまりがあるとも言っていた。
 それでこう提案してみた。『看病と家事を交代制でやってみたらどうか?』って。たとえば月曜日におふくろが看病に行けばきみは家事をする。火曜日はその反対にする……。そうすればそんなに顔を合わせずに済むだろうからね。
 おふくろは俺の提案に賛成した。だからきみはこっちで手伝いができることになった」
 沙理奈は晴れ晴れとした笑顔を見せた。
「うれしい! 純一さん、ありがとう。わたし、頑張るからね!」
 山室も笑顔を見せた。
「あまり頑張りすぎるなよ。きみだって病み上がりなんだから」
「ううん、動いていた方がいいの。東京であずさと二人っきりでいると、よけいなことをいろいろ考えちゃうから……。それよりも純一さんは大丈夫なの? 疲れているみたいだけど」
 今度は山室が苦笑した。
「こう見えても俺はタフなんだぞ。それに九州はつき合いやすい人が多いんだ。本社にいるよりよほどいいよ。
 俺は今日の夕方の便で帰るけど、毎日電話を入れるからね。それから組織検査の結果が出る日には必ず戻ってきて、きみと一緒に話を聞くつもりだ」
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