第23話
文字数 3,262文字
第5章 手術(その2)
手術当日の朝の8時、沙理奈はあずさの手を引いて病院の入口に立っていた。
これまでずっと自分を支えてくれた山室の姿はなく、沙理奈に心細さが募ってきた。
沙理奈は、それを振り払うようにあずさの手を強く握ると、「さあ、あずさ、行こうか」とつとめて明るく言って病院の中に入った。
そのとき突然、「竹井さん」という声がした。
沙理奈が驚いて声の方を見ると、孝太郎が笑顔を浮かべて立っていた。
沙理奈が、「お義父 さん……」とつぶやくと同時に、あずさが、「おじいちゃん」と叫んで、孝太郎に駆け寄った。
孝太郎はあずさを抱き上げると、「遠いところをよく来たな」と言って頬ずりをした。
孝太郎は、あずさを抱いたまま沙理奈のそばに寄ると、笑顔を見せた。
「純一から頼まれてな……。今日と明日は俺がついているから、何も心配することはないからな」
沙理奈の胸に熱いものがこみ上げてきた。
孝太郎の笑顔があっという間にぼやけて見えなくなった。沙理奈は、あわててハンドバッグからブルーのハンカチを取り出して目を拭った。
孝太郎は照れ臭そうに言った。
「ほら、まわりの人が変な顔で見てるぞ。早く涙を拭いて……」
「お義父 さん、泣いたりしてすみません……。でもうれしくて……」
そうつぶやきながら、沙理奈はあわてて涙を拭いた。
そのあと三人は7階に向かい、沙理奈は受付で手続きを始めた。そこに川原看護師が歩み寄った。
「竹井さん、9時に手術室に入ることになりますからね」
「はい……、よろしくお願いします……」
頭をさげる沙理奈に、川原看護師はけげんそうに尋ねた。
「それで、山室さんは……?」
「……4日前から九州の方に行っているので、今日は来れないんです。でも義父 が来てくれています」
沙理奈は待合のイスに座っている孝太郎を指さした。
孝太郎は川原看護師に気づくと、あわてて立ち上がって小走りに駆け寄ってきた。そして川原看護師の顔と胸の名札を見ると、深々と頭をさげた。
「嫁の佐和子のときは大変お世話になりました。今度また嫁の竹井沙理奈がお世話になりますが、どうぞよろしくお願いします」
孝太郎が、『嫁の竹井沙理奈』と言うのを聞いたとたん、沙理奈はまた胸が熱くなるのを感じた。沙理奈は懸命に涙をこらえながら、受付票にペンを走らせた。
9時までにあと15分となったときだった。
孝太郎は、となりに座っている沙理奈を見るともなしに見ると声をかけた。
「竹井さん……、いや、これからはそんな他人行儀な名前では呼ばんぞ……。なにしろ嫁になるんだからな……。沙理奈と呼んでいいか……?」
「お義父 さん……」と言って、沙理奈は大きくうなずいた。
「いいか、沙理奈。お前は絶対に乳がんを治すんだぞ。絶対にだぞ……」
思いがけない強い言葉に、沙理奈は驚いて孝太郎を見つめた。
「俺はな、佐和子が亡くなったときの純一をまともに見ることができなかった……。あまりにもひどい悲しみようでな……。俺は息子に二度とあんな思いはさせたくないんだ……。
だからお前は、このあずさちゃんのために、純一のために、そして俺たちのために絶対に乳がんを治すんだぞ」
孝太郎が言い終わったとき、川原看護師の声が聞こえた。
「竹井さん、手術の準備ができましたのでご案内します」
沙理奈はうなずくと、あずさの頭を撫で、そのあと孝太郎を見つめたあと、丁寧にお辞儀をした。
「……お義父 さん、それじゃ行ってきます……」
歩きかけた沙理奈に向かって、孝太郎が声をかけた。
「頑張れよ……。あずさちゃんも、純一も、そして俺もついてるからな……」
「ママ、頑張って……」
あずさも小さな声で言った。
沙理奈は泣き笑いの顔で振り返ると、小さく手を振った。そして手術室に向かっていった。
病室の近くの待合スペースで、孝太郎ととあずさは手術が終わるのを待っていた。
「おじいちゃん、ママ、なかなか戻ってこないね……?」
「もうじき戻ってくるから大丈夫だよ」
孝太郎は、不安そうなあずさの頭を撫でながら言った。
その直後、ストレッチャー運搬用のエレベーターのドアが開いて、ストレッチャーに乗せられた沙理奈の姿が見えた。
「ママが戻ってきたぞ」
孝太郎は、あずさの手を取って立ち上がると、沙理奈のもとに駆け寄ろうとした。付き添いの看護師がそれを制して言った。
「患者さんはまだ麻酔から覚めていないので、声をかけるのはもうしばらく待ってくださいね。このまま病室に運んで点滴の準備をします。点滴を始めて少し経てば麻酔から覚めますので、それからだったら病室に入って、声をかけてもかまいませんからね」
孝太郎とあずさが待合スペースに戻ったとき、再びストレッチャー運搬用のエレベーターのドアが開いて、手術服姿の松本医師が姿を現した。
「竹井さんのご家族の方ですか?」
松本医師は孝太郎を見て声をかけた。
孝太郎は立ち上がって頭をさげた。
「山室純一の父親です。純一が九州勤務になって、今日は来れないので私がまいりました。先生、嫁の山室佐和子のときは大変お世話になりました。そして、今度も嫁の竹井沙理奈のことで大変お世話になっています」
松本医師はうなずきながら言った。
「手術の結果をお伝えしたいと思いますので、医局のわきにある相談室にお入りください」
相談室に入ると、松本医師は笑顔を見せた。
「手術は無事終わりました。がんに侵された乳管を完全に摘出しました。それから息子さんと竹井さんにはすでに説明しておりますが、形成外科の先生の協力をいただいて、手術前と変わらないおっぱいに仕上げました」
そのあと松本医師は表情を引き締めた。
「このあと、がん細胞が乳管を破って外に出ていないかを検査することになります。結果が出るまでに1か月ほどかかります。いろいろと心配でしょうが、それまでお待ちください」
「ありがとうございます」
孝太郎は深々と頭をさげた。
松本医師は再び笑顔を見せて言った。
「それから今日ひと晩は入院してもらいますが、明日には退院できますのでご安心ください。さあ、そろそろ麻酔から覚めた頃だと思います。お嬢ちゃんも早く会いたがっているでしょうから、竹井さんのところに顔を出してやってください」
翌日、沙理奈は無事退院することができた。
1階の窓口で支払いを終えたあと、沙理奈は孝太郎に向かって何度も何度も頭をさげた。
「お義父 さんに付き添っていただいたおかげで、安心して手術を受けることができました。それにゆうべは、わざわざあずさと一緒にホテルに泊まっていただいて、本当にありがとうございました」
「なに、純一と約束したことをしただけだよ……。それにあずさちゃんと泊まって楽しかったよ」
「うん、あずさも楽しかった! おじいちゃんはいろんな昔話を聞かせてくれたんだよ!」
あずさが大きな声で言った。
孝太郎は、そんなあずさをにこにこして見たあと、頭をやさしく撫でた。
「さて、そろそろ駅まで送って行こうか」
孝太郎はあずさの手を取って歩き出した。
仙台駅に着き、沙理奈が別れのあいさつをしようしたとき、「ちょっと待ってくれ」と言って、孝太郎が売店に走っていった。
まもなく孝太郎は両手に袋をぶら下げて戻ってきた。
「これ、弁当だ。一つはお子様弁当にしたからな。昼ごはんに新幹線の中で食べてくれ。こっちが牛タンと笹かまぼこだ。晩ごはんに食べるといい。それからアイスクリームも入っているからな。あずさちゃんに食べさせてやってくれ」
沙理奈は目を潤ませて孝太郎を見つめた。
「お義父 さん……。こんなに親切にしてくださって……、何てお礼を言っていいか……」
孝太郎はやさしい目で沙理奈とあずさを見つめた。
「お前はこれまで大変な思いをしてきたんだ。これからは栄養のあるものをたくさん食べて、しっかり身体を休めて、早く丈夫な身体になるんだぞ」
沙理奈は目もとを押さえてうなずいた。
「それからな……。折をみて志津江にもお前たちのことを話しておくからな……」
手術当日の朝の8時、沙理奈はあずさの手を引いて病院の入口に立っていた。
これまでずっと自分を支えてくれた山室の姿はなく、沙理奈に心細さが募ってきた。
沙理奈は、それを振り払うようにあずさの手を強く握ると、「さあ、あずさ、行こうか」とつとめて明るく言って病院の中に入った。
そのとき突然、「竹井さん」という声がした。
沙理奈が驚いて声の方を見ると、孝太郎が笑顔を浮かべて立っていた。
沙理奈が、「お
孝太郎はあずさを抱き上げると、「遠いところをよく来たな」と言って頬ずりをした。
孝太郎は、あずさを抱いたまま沙理奈のそばに寄ると、笑顔を見せた。
「純一から頼まれてな……。今日と明日は俺がついているから、何も心配することはないからな」
沙理奈の胸に熱いものがこみ上げてきた。
孝太郎の笑顔があっという間にぼやけて見えなくなった。沙理奈は、あわててハンドバッグからブルーのハンカチを取り出して目を拭った。
孝太郎は照れ臭そうに言った。
「ほら、まわりの人が変な顔で見てるぞ。早く涙を拭いて……」
「お
そうつぶやきながら、沙理奈はあわてて涙を拭いた。
そのあと三人は7階に向かい、沙理奈は受付で手続きを始めた。そこに川原看護師が歩み寄った。
「竹井さん、9時に手術室に入ることになりますからね」
「はい……、よろしくお願いします……」
頭をさげる沙理奈に、川原看護師はけげんそうに尋ねた。
「それで、山室さんは……?」
「……4日前から九州の方に行っているので、今日は来れないんです。でも
沙理奈は待合のイスに座っている孝太郎を指さした。
孝太郎は川原看護師に気づくと、あわてて立ち上がって小走りに駆け寄ってきた。そして川原看護師の顔と胸の名札を見ると、深々と頭をさげた。
「嫁の佐和子のときは大変お世話になりました。今度また嫁の竹井沙理奈がお世話になりますが、どうぞよろしくお願いします」
孝太郎が、『嫁の竹井沙理奈』と言うのを聞いたとたん、沙理奈はまた胸が熱くなるのを感じた。沙理奈は懸命に涙をこらえながら、受付票にペンを走らせた。
9時までにあと15分となったときだった。
孝太郎は、となりに座っている沙理奈を見るともなしに見ると声をかけた。
「竹井さん……、いや、これからはそんな他人行儀な名前では呼ばんぞ……。なにしろ嫁になるんだからな……。沙理奈と呼んでいいか……?」
「お
「いいか、沙理奈。お前は絶対に乳がんを治すんだぞ。絶対にだぞ……」
思いがけない強い言葉に、沙理奈は驚いて孝太郎を見つめた。
「俺はな、佐和子が亡くなったときの純一をまともに見ることができなかった……。あまりにもひどい悲しみようでな……。俺は息子に二度とあんな思いはさせたくないんだ……。
だからお前は、このあずさちゃんのために、純一のために、そして俺たちのために絶対に乳がんを治すんだぞ」
孝太郎が言い終わったとき、川原看護師の声が聞こえた。
「竹井さん、手術の準備ができましたのでご案内します」
沙理奈はうなずくと、あずさの頭を撫で、そのあと孝太郎を見つめたあと、丁寧にお辞儀をした。
「……お
歩きかけた沙理奈に向かって、孝太郎が声をかけた。
「頑張れよ……。あずさちゃんも、純一も、そして俺もついてるからな……」
「ママ、頑張って……」
あずさも小さな声で言った。
沙理奈は泣き笑いの顔で振り返ると、小さく手を振った。そして手術室に向かっていった。
病室の近くの待合スペースで、孝太郎ととあずさは手術が終わるのを待っていた。
「おじいちゃん、ママ、なかなか戻ってこないね……?」
「もうじき戻ってくるから大丈夫だよ」
孝太郎は、不安そうなあずさの頭を撫でながら言った。
その直後、ストレッチャー運搬用のエレベーターのドアが開いて、ストレッチャーに乗せられた沙理奈の姿が見えた。
「ママが戻ってきたぞ」
孝太郎は、あずさの手を取って立ち上がると、沙理奈のもとに駆け寄ろうとした。付き添いの看護師がそれを制して言った。
「患者さんはまだ麻酔から覚めていないので、声をかけるのはもうしばらく待ってくださいね。このまま病室に運んで点滴の準備をします。点滴を始めて少し経てば麻酔から覚めますので、それからだったら病室に入って、声をかけてもかまいませんからね」
孝太郎とあずさが待合スペースに戻ったとき、再びストレッチャー運搬用のエレベーターのドアが開いて、手術服姿の松本医師が姿を現した。
「竹井さんのご家族の方ですか?」
松本医師は孝太郎を見て声をかけた。
孝太郎は立ち上がって頭をさげた。
「山室純一の父親です。純一が九州勤務になって、今日は来れないので私がまいりました。先生、嫁の山室佐和子のときは大変お世話になりました。そして、今度も嫁の竹井沙理奈のことで大変お世話になっています」
松本医師はうなずきながら言った。
「手術の結果をお伝えしたいと思いますので、医局のわきにある相談室にお入りください」
相談室に入ると、松本医師は笑顔を見せた。
「手術は無事終わりました。がんに侵された乳管を完全に摘出しました。それから息子さんと竹井さんにはすでに説明しておりますが、形成外科の先生の協力をいただいて、手術前と変わらないおっぱいに仕上げました」
そのあと松本医師は表情を引き締めた。
「このあと、がん細胞が乳管を破って外に出ていないかを検査することになります。結果が出るまでに1か月ほどかかります。いろいろと心配でしょうが、それまでお待ちください」
「ありがとうございます」
孝太郎は深々と頭をさげた。
松本医師は再び笑顔を見せて言った。
「それから今日ひと晩は入院してもらいますが、明日には退院できますのでご安心ください。さあ、そろそろ麻酔から覚めた頃だと思います。お嬢ちゃんも早く会いたがっているでしょうから、竹井さんのところに顔を出してやってください」
翌日、沙理奈は無事退院することができた。
1階の窓口で支払いを終えたあと、沙理奈は孝太郎に向かって何度も何度も頭をさげた。
「お
「なに、純一と約束したことをしただけだよ……。それにあずさちゃんと泊まって楽しかったよ」
「うん、あずさも楽しかった! おじいちゃんはいろんな昔話を聞かせてくれたんだよ!」
あずさが大きな声で言った。
孝太郎は、そんなあずさをにこにこして見たあと、頭をやさしく撫でた。
「さて、そろそろ駅まで送って行こうか」
孝太郎はあずさの手を取って歩き出した。
仙台駅に着き、沙理奈が別れのあいさつをしようしたとき、「ちょっと待ってくれ」と言って、孝太郎が売店に走っていった。
まもなく孝太郎は両手に袋をぶら下げて戻ってきた。
「これ、弁当だ。一つはお子様弁当にしたからな。昼ごはんに新幹線の中で食べてくれ。こっちが牛タンと笹かまぼこだ。晩ごはんに食べるといい。それからアイスクリームも入っているからな。あずさちゃんに食べさせてやってくれ」
沙理奈は目を潤ませて孝太郎を見つめた。
「お
孝太郎はやさしい目で沙理奈とあずさを見つめた。
「お前はこれまで大変な思いをしてきたんだ。これからは栄養のあるものをたくさん食べて、しっかり身体を休めて、早く丈夫な身体になるんだぞ」
沙理奈は目もとを押さえてうなずいた。
「それからな……。折をみて志津江にもお前たちのことを話しておくからな……」