第8話

文字数 3,809文字

第3章 診断(その1)

 病院は沙理奈のアパートから歩いて20分のところにあった。
 病院に向かって歩いているとき、香澄が思い出したように言った。
「あんた、今日のことは山室さんには報告しているのかい?」
 沙理奈は大きくうなずいた。
「うん、全部報告してる。検査結果が出ることも話してる。山室さんからは、『結果がわかったらすぐに知らせてくれ』って言われてる」
「そうかい。山室さんってほんとにいい人だね」
「いままで会った人の中で一番いい人……」
 沙理奈はつぶやくように言った。
 
 病院に着いた沙理奈は、エレベーターで5階の外科に向かった。
 エレベーターの中で香澄がけげんそうに言った。
「おっぱいの検査って外科で受けるのかい?」
 沙理奈は緊張した顔でうなずいた。
「うん、この前来て、あたしも初めてわかったんだ……」
 窓口で手続きを済ませ、待合室のイスに腰をおろしたとき、沙理奈が小さくつぶやいた。
「あたし、胸がドキドキしてきた……」 
「お医者さんは前に大丈夫と言ったんだろ?」
 顔を覗き込んだ香澄に向かって沙理奈は小さくうなずいた。
「だったら大丈夫だよ。あんたはまだ若いんだ。間違っても乳がんなんてことはないよ」
 落ち着かせようと香澄は沙理奈の膝を軽くたたいた。
「竹井さん」 
 そのとき看護師が沙理奈の名前を呼んだ。
「はい」 
 さっと立ち上がった沙理奈に向かって、看護師は中に入って診察室の前のイスに座って待つように告げた。
「ねえさん、診てもらってくるからあずさをよろしくね……」
 沙理奈は小走りに診察室に向かった。
 沙理奈がいなくなるとすぐ、あずさが香澄の膝の上に乗ってきた。
「ママ、大丈夫だよね……?」
「うん、大丈夫だよ。ママはすぐに戻ってくるからね」
 香澄はあずさの頭を撫でた。
 沙理奈が診察室に入って30分が経った。時刻は10時15分を回っていた。
 あずさが香澄を振りあおいだ。
「ママ、遅いね……」
「そうだね。でも待っている人がいっぱいいるからね」
 香澄が答えたときだった。エレベーターを降りて受付に向かって足早に歩くスーツ姿の男を見て、あずさが声をあげた。
「あっ、おじさんだ!」
「おじさんって?」
「山室さん!」
 あずさはそう言うと、香澄の膝からおりて山室の方に駆けだした。
「おじさん!」
 その声に山室は振り向いた。
「あずさちゃん……。ママは?」
「お医者さんのところ」
「一人で待ってるの?」
「ううん、香澄ねえさんと一緒」
「香澄ねえさん?」
 あずさは香澄を指さした。山室は、立ち上がった香澄に会釈しながら歩み寄った。
「沙理奈さんにいろいろとおせっかいを焼いている山室といいます」
 香澄は丁寧にお辞儀をしたあと、山室をじっと見つめた。
「あなたが山室さんですか。あたしは沙理奈と同じ店で働いている大津香澄といいます。保険証のことでは沙理奈が大変お世話になったそうで、ほんとにありがとうございました」
「いえ、礼を言われるほどのことではありません」
「今日はどうしてここに?」
「営業で出ていて、たまたま近くまで来たものですから。ところで沙理奈さんは?」
「30分ほど前に診察室に入ったんですけど、なかなか戻ってこなくて……」
 香澄が診察室の方に目をやったとき、急いだ様子で看護師が診察室から出てきた。
「竹井さん、竹井沙理奈さんの付き添いの方はいらっしゃいますか?」
 看護師は、待合室にいる人たちに向かって声をかけた。
 山室と香澄は、同時に「はい」と返事をしながら、小走りに看護師の方に向かった。
 看護師は二人を見ると、「身内の方はいらっしゃいますか」と訊いた。
「私は婚約者です」
 山室は間髪入れずに答えて前に歩み出た。
 看護師はうなずくと、山室に向かって言った。
「先生が身内の方にも説明したいと言っていますので、診察室に入ってもらってもよろしいですか?」
 山室は引き締まった顔でうなずくと、香澄に向かって落ち着いた声で言った。
「私が説明を聞いてきます。大津さんはあずさちゃんとここで待っていてください」
 看護師に案内されて入った診察室には40歳半ばと思われる医師が座っていた。机に置かれたパソコンのディスプレイには画像が映っていた。
 『石山』という名札を付けた医師は、山室を見ると軽く一礼してイスをすすめた。
 石山医師は、山室が一礼して座ったのを見届けると、口を開いた。
「あなたのお名前と竹井さんとの関係を確認させてください」
「私は山室純一といいます。竹井さんの婚約者です」
「ありがとうございます。守秘義務があるものですから確認させていただきました」
 石山医師はイスに座りなおすと言葉を続けた。
「竹井さんですが、検査の結果を説明していたところ、途中で気分が悪くなってしまったので、いまはとなりの小部屋で休んでもらっています」
「気分が悪くなった……」
 山室は緊張した顔で石山医師を見た。
「すると検査結果は悪かったんですか?」
 石山医師は、机の上の検査結果に目を落とすと、落ち着いた声で言った。
「ええ、検査の結果、竹井さんの左胸のしこりは、残念ながらがんでした」
 山室は、石山医師の顔をじっと見つめながら問いかけた。
「彼女の左胸のしこりは間違いなくがんなのですか?」
 石山医師は山室をまっすぐに見ながらうなずいた。
「間違いありません」
 山室はとなりの小部屋に通じるドアに目をやった。
「そうですか……。かわいそうに……。彼女はショックを受けたでしょうね……」
「ええ、顔が真っ青になってしまって、私の説明もまったく耳に入らない様子だったので、となりで休んでもらうようにしました」
 山室は石山医師に視線を戻した。
「それで先生、彼女は助かるんでしょうか?」
「この画像をご覧ください」
 石山医師は、パソコンに映し出された画像を指さした。
「これはエコーの画像です。がんは乳管の中にとどまっている状態です。初期の段階ですので、左の乳房の全摘手術をすれば再発や転移の心配はほぼないと考えられます」
「ということは……、助かるということですか……?」
 パソコンの画像から石山医師に視線を移しながら山室が言った。
「そのように考えていただいて結構だと思います」
 石山医師の言葉に山室は安堵の表情を浮かべた。
 そのあと山室は、「ひとつお訊きしたいのですが…」と言ったあと、石山医師を見つめながら問いかけた。
「初期の段階でも左の乳房を全部切除するのですか?」 
「ええ。がんが乳管の中にとどまっているので初期なのです。しかし乳管の石灰化が広い範囲に認められます。ですので乳房の全摘が最善だと考えています」 
 石山医師は冷静に答えた。
 山室はさらに質問を続けた。
「竹井さんはまだ若いのです。部分切除をして乳房を温存することはできないのでしょうか?」 
「たしかにまだお若いですね」と言って、石山医師はカルテをめくった。
「まだ29歳ですか……。その若さで乳房を失うのは非常につらいことだと思います。しかし広い範囲に石灰化が認められる状況で部分切除をすれば、再発のリスクが高まると思います」
 山室は少しためらったあと口を開いた。
「そうですか……。あの……、先生の診断を信用しないということではないのですが……、別の先生にもう一度診てもらっても差し支えはありませんか?」
 石山医師は軽く笑みを浮かべた。
「セカンドオピニオンですね。ええ、差し支えありませんよ。大事な命と乳房がかかっているわけですから。患者さん自身が納得できる方法を選択することが一番大事です」
「ありがとうございます」
 頭をさげた山室に向かって石山医師が言った。
「それでセカンドオピニオンの先生のあてはあるのですか?」
「はい、宮城医大の松本先生にお願いしようかと思っています」
 石山医師は山室の顔をまじまじと見た。
「ほう、乳腺外科の第一人者の松本先生をご存じなのですか……」
 山室はうなずいた。
「どうも私は乳がんに縁があるようです。実は5年前に妻を乳がんで亡くしているんです。妻はそのとき33歳でした」
「それはお気の毒なことでした」
「そのときの主治医が松本先生でした。松本先生には大変お世話になりました。その縁で年賀状のやり取りをさせてもらっています」
 石山医師は二度、三度とうなずいた。
「さっそく松本先生あてに紹介状を書きましょう。先生なら的確な診断をなさるでしょう。私に気兼ねなどせずに、先生のところで手術を受けられるのがよいと思います。
 宮城医大には形成外科もあるので、かりに乳房の全摘となった場合には、乳房の同時再建手術を受けることもできると思います」
 山室は深々と頭をさげた。
 石山医師は続けた。
「竹井さんのところに行ってあげてください。そして竹井さんが落ち着いたと思ったら、待合室の方に移動していただいてかまいません。それから外来の患者さんの診察が終わってから、もう一度竹井さんには説明したいので、お帰りにならずにそれまでお待ちください」
「わかりました……。本当にありがとうございます……」
 山室は礼を言って立ち上がると、となりの小部屋のドアを開けた。
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