第27話

文字数 5,690文字

第5章 手術(その6)

 その日の夜は沙理奈の快気祝いを催すことになった。
 山室、沙理奈、志津江の三人はスーパーに買い出しに走った。そして山室が美穂にも声をかけて、夕方には家族全員が顔をそろえた。
 尾頭つきの鯛や刺身の盛り合わせ、とんかつなどがところ狭しと並べられ、豪勢な晩ごはんとなった。
「せっかくのお祝いなんだ。一杯でいいから酒を飲ませてくれ」
 孝太郎はさかんに訴えたが、「おじいちゃんはご病気なんだから、わがままを言わないでね」というあずさの一言でそれは却下された。 
 楽しく食事が進み、孝太郎の退院が話題となったときだった。
 山室は、それまでとは一転して真面目な顔で切り出した。
「今日は全員が顔をそろえているので、この先のことについて俺の考えを話すいい機会だと思う」
 その一言で場の雰囲気ががらりと変わり、みんなは真剣な表情で山室の顔を見つめた。
「父ちゃんのけがのあと、父ちゃんがやっているコメ作りのことや、この家のことを俺なりに考え続けた」
 そう言って、山室は家族全員の顔をゆっくりと見渡した。
 そのあと山室は孝太郎に目をやった。
「こういう場でこんなことを言っていいかどうか迷うけど……」
 山室はそこで言葉を切った。
 孝太郎はうなずいたあと、ゆっくりと口を開いた。
「お前が言いたいのはこういうことだろう? この先死ぬまで俺の右足は満足に動くことはない……」
 沙理奈と志津江が黙ってうつむく中、ハナと美穂は呆然と孝太郎を見つめた。
「父ちゃん、知っていたのか……」 
 山室がつぶやくように言った。
「ああ、医者の話すことを聞いていれば、おおよその見当はつくさ」
 孝太郎は穏やかな口調で答えた。
 山室は父をじっと見つめた。
「ただ、リハビリしだいではかなり動くようになるかもしれないと医者は言ってたよ」
「そうか……。だったらリハビリを頑張らないとな……」
 山室の言葉に孝太郎は何度かうなずいた。
 山室は再び家族全員を見渡した。
「ここからが本題だ。右足がこのような状態では、これから先、父ちゃんが一人でコメ作りを続けるのは無理だろうと思う……。
 父ちゃんはいま40町歩の田んぼでコメを作っている。これほどの大規模な農家をここで終わらせるわけにはいかない。
 俺は山室家の長男だし、家でただ一人の男だ。俺にはこの家を守ってコメ作りを続けていく責任があるんだろうと思う。だから俺は会社を辞めて農家を継ぐことにする」
 今度は孝太郎が息子の顔をじっと見つめた。
「純一、お前のいまの話はうれしいかぎりだが、それは沙理奈の考えを聞いたうえでの話なのか?」
 山室は首を振った。
「それじゃ、いまここで聞いた方がいい……」
 山室は沙理奈を見た。
「俺がいま話したことをどう思っているか、正直に言ってくれ」
 家族全員の目が沙理奈に集まった。
 沙理奈はやや緊張した顔をあげた。
「わたしは……、純一さんについていくだけです……。わたしとあずさは純一さんのやさしさに救われたんですから……。
 純一さんに出会わなかったら、わたしは2、3年のうちには間違いなく死んでいたでしょう。そしてあずさは、誰一人頼れる人もないままに世間に放り出されて、つらい人生を送ることになったことでしょう。純一さんはその運命を変えてくれました。
 わたしは純一さんを心から信頼しています。ですから純一さんについていくだけです……」
 沙理奈が山室に目をやると、山室はやさしいまなざしで沙理奈をじっと見つめていた。
 沙理奈はその目にうなずいてから、再び口を開いた。
「祖母が亡くなってから、わたしはずっと一人ぼっちで生きてきました。頼れる人、心許せる人などほとんどいなくて、自分の人生はまるで大海原を小舟で漂っているようだと感じていました。
 あずさが生まれてからも、小舟の中で母娘で身を寄せ合い、『何とか波にさらわれませんように。舟が沈みませんように』と祈る毎日でした。
 いまみなさんとこうしていることは、ようやく安心できる港にたどり着いて、大きな客船に乗ることを許されたようにわたしには感じられるんです。たぶん、あずさも同じ気持ちだと思います」
 沙理奈は、自分をじっと見上げているあずさの頭を撫でた。
「この家でみなさんと一緒に暮らせることを、わたしもあずさも本当にうれしく思っているんです」
 孝太郎はさかんに目をしばたたかせ、志津江とハナと美穂は目を拭った。
 山室はひとつ咳払いをした。
「俺も父ちゃんを手伝っているから、農作業がどういうものかはある程度わかっているつもりだ。でも仕事としてやるとなれば話が違ってくる。だから9月下旬からはじまる稲刈りの前に、父ちゃんからいろいろと教えてもらう必要があると思っている」
 山室はあらためて家族全員を見まわすと、力強く言った。
「8月のお盆前に俺は会社を辞めることにする」
「お前がそこまでの覚悟を持ってコメ作りをやってくれると聞いて、俺も安心した。これからは俺も楽ができるというもんだ」
 孝太郎は志津江と目を合わせながら、何度も何度もうなずいた。
 山室はそんな孝太郎に笑顔で言った。
「父ちゃん。俺は、農機具の販売はやっていても農業は素人なんだから、これからしっかり指導してもらわないと困るんだ。だから楽することなんかは考えないで、リハビリに精を出して前と同じくらいに動けるようにしてくれよな」
「やれやれ、厳しい息子が戻ってきて俺も大変だ」
 孝太郎は満面の笑顔で家族全員を見渡した。

 沙理奈の手術から1年半が過ぎた大晦日の午後、帰省の人で混雑する仙台駅の中央改札口に沙理奈と山室とあずさの姿があった。
「香澄ねえさんはあたしたちのことを見つけられるかしら?」 
 沙理奈は、改札口を通る人の波を見ながら山室に声をかけた。
「中央改札口で待ってるってメールを送って、ちゃんと返事が返ってきたんだから大丈夫だよ」 
 改札口で行列をつくっている人の顔を目で追いながら、山室が答えた。
 到着した新幹線の車両からはき出された人の波がようやく引いてきたとき、赤のダウンコートに身を包み、赤いキャリーバッグを引いた女性が改札口に向かってくるのが見えた。
「パパ、ママ、あの人、香澄ねえさんだよ。ほら」 
 あずさが指をさした。
「あっ、ほんとだ!」
 沙理奈は声をあげると、あずさと二人で、「香澄ねえさん! こっちよー!」と言って手を振った。
 二人に気づいた香澄は笑顔を見せると、急ぎ足で近づいてきた。
 香澄が改札口を抜けたとたん、沙理奈は両手を広げて香澄に抱きついた。そして二人はそのまま何も言わずに抱き合った。
 山室とあずさはその様子をじっと見つめていた。
 やがて抱擁を解いた二人は、あらためて互いの顔を見つめ合った。
「沙理奈、あんた、顔がふっくらしちゃって……。とても幸せそうだよ。それに前は顔が真っ白だったのが、日焼けして健康そうに見えるよ」 
 香澄はしげしげと沙理奈を見つめながら言った。
「うん、いまはすごく幸せ……。日に焼けたのはお義母(かあ)さんやおばあちゃんと畑仕事をやってるからなの。でもそのおかげで健康になったみたい」
 沙理奈は少しはにかみながら答えたあと、香澄を見つめながら言った。
「ねえさんも元気そうでよかった……」
 そのあと沙理奈は、香澄を山室とあずさに引きあわせた。
「香澄ねえさん、こんにちは」
 そう言いながらお辞儀をしたあずさを見て、香澄は感嘆の声を上げた。
「驚いた……。あずさちゃん、すっかりお姉さんらしくなっちゃって……」
「ええ、来年の4月からは小学1年生になるんですよ」 
 山室がにこやかに声をかけた。
 その声に、香澄は頭一つ上にある山室の顔を見上げた。
「ご無沙汰しています。お言葉に甘えて遊びに来てしまいました」
 香澄は丁寧にお辞儀をした。
「こちらこそご無沙汰しております。おいでになるのをみんなで楽しみにしてました。この8月には別棟を建てて台所から浴室、客間までそろっているので、気兼ねなどしないでゆっくりしていってください」 
 山室は日焼けした顔をほころばせると、「それじゃ車まで案内します」と言って、香澄のキャリーバッグを引いて歩き出した。
 沙理奈は左腕を香澄の右腕に絡ませ、あずさは香澄の左手を取ってそのあとを追いかけた。
 若葉マークを付けた白いハイブリット車のところで、山室が立ち止まった。
「来るときは沙理奈が運転したんですよ」
 そう言いながら山室はドアの解錠ボタンを押した。
 山室はトランクを開けてキャリーバッグを積み込んだあと、沙理奈に向かって言った。
「夕方になって道路も混んできたから、帰りは俺が運転しよう。きみは香澄さんと話ができるように後ろの座席に乗るといい」
 車が動き出してすぐ、香澄が沙理奈に向かって話しかけた。
「あんたも車を運転するようになったんだ」
「うん、半年前に免許を取ったの。こっちでは車を運転できないと生活できないし、純一さんからは、『田植え機を運転したいんだったら、車を運転できるようにならないとな』と言われてね」
「そうか……、あんたもこっちで着々と生活の基盤を築いてるんだね」
 香澄は感慨深そうにつぶやいたあと、今度は沙理奈の胸に目をやった。
「ところで、おっぱいの方は大丈夫なんだね?」
「うん、大丈夫。手術して半年間は毎月1回検査を受けていたんだけど、異常がなかったので、そのあと3か月に1回になったんだ。その間も異常は出ていないので、年が明ければ検査は半年に1回になる予定なんだ」
「そうかい、それはよかったねえ。それで手術したおっぱいの具合はどうなの? 傷跡とか違和感とか形なんかは……?」
「それも大丈夫。傷跡もほとんど目立たないし、違和感はないし、形も前と同じ。そうだ、今晩ねえさんと一緒にお風呂に入って、そのときにじっくりと見せてあげるね」
「あずさも一緒に入る!」
 あずさが助手席から振り向いて叫んだ。
「よし、女三人で一緒にお風呂に入ろうか」
 香澄が言ったのを聞いて、あずさが山室に向かって言った。
「パパはダメですからね」
「はい、はい」 
 ハンドルを握ったまま山室が苦笑いを浮かべた。
 そのあと山室は真顔に戻ると、バックミラーで香澄の顔を見ながら話しかけた。
「10月に前の会社の同僚から聞いたんですけど、あの佐川社長が亡くなったんですってね?」
「山室さんもご存じだったんですか? あの方は長年糖尿病を患っていたので、お店に来たときは水割りではなくウーロン茶を出していたんですけどね。ご自宅で寝ていたときに脳出血を起こしてそのまま亡くなったとのことでした」
「そうでしたか……。佐川社長は香澄さんをひいきにしていたので残念でしたね」
「それであたしはこの年末でお払い箱になったんです。でもあたしもまもなく38歳になるので、潮時といえば潮時なんですけどね……」
「ねえさん、次の働き口は……?」 
 沙理奈が心配そうに訊いた。
「あたしもいい年だからねえ。そうそう見つかるもんじゃないと覚悟してるよ。こんな女でも嫁にもらってくれる奇特な人でもいればいいんだけどねえ……」
 香澄が薄く笑ったとき、山室が前を向いたまま呼びかけた。
「香澄さん……」 
「はい……?」
「ここにいる間にお見合いをしてみるつもりはないですか?」
「お見合い?」 
 香澄の声が裏返った。
「実は高校の同級生で、うちの近くで農家をやっている男がいるんです。井上っていう奴なんですけどね。やさしくて気持ちのいい男なんですけど、押しが弱くてどうしても結婚まで行き着かなくて……。
 この前、農家の跡取りで作る研究会があって、その懇親会で井上が俺に言うんですよ。
 『お前はあんなに可愛い嫁さんを東京から連れてきてうらやましいよ。俺もお前のように結婚したいよ。誰か知っている女の人がいるんだったら俺に紹介してくれないか』って。
 そこで香澄さんのことを井上に話してみたら、井上の奴、すごく乗り気になって、『ぜひ紹介してくれ』って、すごい勢いで頼み込んできたんです。
 それで香澄さんさえよかったら、お見合いはどうかなと……」
「純一さん、そんな大事なことをいきなり言うなんて……。香澄ねえさんも困っちゃうでしょう?」
 沙理奈がそう言うのを抑えて山室は続けた。
「俺たちだって、いきなりつき合って、いきなり結婚を決めたんだろう? 人との出会いなんてタイミングがすべてだ。いいタイミングでこれはと思う人と出会えたら、いきなりだっていいと思うんだ。
 香澄さん、会うだけ会ってみてはどうですか? 井上のところは、5年前と3年前に親が相次いで亡くなって、あいつはいま一人で農家をやっているんですが、とにかくまじめに頑張っている奴なんです」
 香澄は車窓に目をやって、しばらく考え込んでいるようだったが、やがてゆっくりと口を開いた。
「そんなまじめが男の人が、あたしみたいな女を気に入ってくれるかしらね……?」
 山室は軽く頭をさげた。
「すみません、香澄さん。実は、井上には香澄さんが水商売で働いている人だということは話してあるんです。それをわかった上で、井上は、『会いたい』って言ってるんです」
 それを聞いた香澄が明るい声で言った。
「沙理奈。あんたの旦那さんってほんとにやさしい人だね。あたしみたいな者のことをこんなにも考えてくれるんだものね……。
 山室さん、あたし、その井上さんという人に会ってみます。そうすれば沙理奈のように運が開けるかもしれないものね」
「ねえさん、頑張って」 
 沙理奈が香澄の手をぎゅっと握りしめた。
 山室がうなずきながら言った。
「香澄さんが井上のことを気に入ってくれたらいいな……。そうだ、明日初詣に行って、そうなるようにみんなでお参りしよう」
 それを聞いたあずさが香澄に向かって叫んだ。
「香澄ねえさんがお嫁さんになれるように、あずさも一生懸命お参りするからね!」
                                     
                                        (終)
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