第4話

文字数 4,597文字

第1章 しこり(その4)

 店の閉店時間までまだ20分あった。
 休憩室に戻った沙理奈は、使い古しの座布団にぺたんと腰をおろすと、左の乳房に手をやった。子どもを一人産んではいるが、きれいな円錐形を保った豊かな乳房だった。
 沙理奈は、この乳房のおかげで、もうすぐ30歳になる自分がこの世界で食べていけると思っていた。
 童顔でありながら豊かな乳房を持つ沙理奈を指名する客は多く、そのおかげでお払い箱になることもなく、娘と二人の生計を何とか立ててこられたのだった。
「もしも乳がんだったら……」
 そう思ったとたん、山室の横で話を聞いていたときに感じた恐怖がよみがえってた。
「今まで生きてきて、いいことなんかなかったけど、でもこの年で死にたくない……。それにあたしが死んだら、あずさはこれからどうやって生きていくの……」
 それは居ても立ってもいられないような底なしの恐怖だった。
 その底なしの恐怖をかき立てられたとの思いから、山室の言うことに反発してみせた沙理奈だったが、こうして一人になったとたん、底なしの恐怖に呑み込まれていく自分を感じた。
 沙理奈は思わず両手で顔を覆った。
「……、どうしよう……。あたし、怖い……」
 そのときドアが開いて、香澄の驚いた声がした。
「沙理奈、どうかしたの? 何かあったの?」
 沙理奈が顔をあげた。
「香澄ねえさん……。どうしよう……」
 沙理奈は、かたわらにしゃがみこんだ香澄の胸に顔を押し当てた。
「沙理奈、何があったの? きちんと話してごらん」
 沙理奈は香澄の胸から顔を上げると、山室がさっき言ったことを香澄に話して聞かせた。そして最後に自分の気持ちを素直に言った。
「ねえさん……。あたしはこの年でまだ死にたくないよ……。あずさのことを思うと死ねないよ……」
 香澄は話を聞き終わると、たばこを取り出して火をつけた。
「そうだったのかい……。安藤が客を引きずって行ったのが見えたから何事かと思ってたら、あんたのことを心配してきてくれたお客さんだったのかい……。
 安藤からストーカー扱いされて、そのお客さんもとんだ災難だったねえ。さぞかし腕が痛かったろうね。安藤の腕っぷしの強さったらないからね。
 ところで沙理奈、あんたの話を聞いたかぎりでは、そんなに心配するほどのことではないと思うよ……」
 そのとき勢いよくドアが開いて、若い女が顔を出した。
「ローズねえさん。ジャスミンさん。掃除の時間ですよ。お願いします」
 若い女はドアを開けっ放しにしたまま、客席フロアの方にバタバタと駆け出して行った。
「お掃除タイムですか……」
 香澄は、「よいしょ」と言って腰を上げると、沙理奈を見やった。
「でもあんたはすごく悩んでるみたいだから、どうしたらいいかを一緒に考えてあげた方がいいんだよね?」
 沙理奈も腰を上げながら、小さく「うん」とうなずいた。
「じゃあ、あたしもあんたと一緒にあずさちゃんを迎えに行って、そのままあんたのところに泊まることにするよ。そうすればこれからのことを一緒に考えられるだろ?」
 沙理奈の顔が明るくなった。
「ねえさん、ありがとう。そうしてもらえればあたしも安心できると思うんだ……」
「そうと決まれば、大急ぎで掃除を終わらせなきゃね」
 
「ほんとにあずさちゃんは可愛くていい子だね」
 ぐっすりと眠っているあずさを見ながら香澄が言った。
 あずさは、香澄が泊まると聞いてひとしきりはしゃいでいたが、さすがに深夜まで沙理奈を待っていた疲れが出て、家に帰るとまもなく、布団に入ってぐっすりと寝入ってしまった。
「あんたが迎えに来るのを寝ないで待っているって聞いて、あたしは涙が出そうになったよ」
「うん、あたしもそんなあずさが不憫なんだ……。だから今度のことでも、あずさをおいて先に死ねないと思うとよけいに心配になっちゃって……」
「さっきの話の続きだけどね……」
 そう言いながら、香澄はたばこを取り出すと口にくわえた。火を点けようとして、香澄は、「あっ、いけない」とつぶやいた。
「たばこの煙はあずさちゃんには毒だったね……」
「ねえさん、ごめんね。あずさのために気を使わせちゃって」
「いや、いいんだよ。自分の身体のためにもやめなくっちゃって思ってるところだから。それよりなんか飲み物はあるかい?」
「あずさのために買っておいた牛乳しかないんだけど……」
「牛乳……? まあいいか……。骨粗しょう症の予防を兼ねて頂戴しますか」
 香澄は、コップに注がれた牛乳を半分ほど飲み干した。
「たまには牛乳もおいしいもんだね。それでさ、あんたのおっぱいのしこりの話の続きだけど、何もしないで心配ばかりしてたって、いいことなんか何ひとつありゃしないよ。
 せっかくそのお客さんが見つけてくれたんだ。あずさちゃんのためにも、腹を決めて医者に診てもらえばいいんだよ。あとは診断結果を見てから考えればいいじゃないか」
 沙理奈は目を伏せた。
「ねえさんの言うとおりなんだけど、がんだなんて言われたらと思うと怖くて……」
「だから腹を決めなって言ってるんだよ」
「うん、結局はそうするしかないんだよね……」
 しかし沙理奈は、目を上げることなく今度はうつむいた。
「おい、沙理奈!」と言って、香澄が沙理奈の顔を覗き込んだ。
「まだ隠してることがあるんだろう。正直に白状しちまいな」
 その声に、沙理奈は顔をあげると小さな声で言った。
「実はね、ねえさん……。あたし、保険証を持ってないんだ……」
「何だって……」
 香澄は目を見開いた。
「うちの店は社会保険なんかに入っていないよね。だから自分で国民健康保険に入らなくちゃいけないんだけど、そのお金を工面できなくて……」
「お金を工面できないって、どういうこと……?」
 沙理奈は顔をうつむけると、消え入るような声で言った。
「……、国民健康保険って、年に20万円とかを納めなくちゃいけないけど……、どんなに頑張ってもそのお金を貯められないんだ……」
「…………」
「アパート代とあずさの保育料を払ったら……、手元に残るお金なんかほとんどありゃしない……。保険料を払いたくても払えないんだ……」
 香澄は沙理奈の頭に手をやると、シャンプーのしすぎでいたみが目立つ髪をやさしく撫でた。
「そうなんだ……。そうなんだよね……。あたしだって同じだよ。あたしは独り身だから、いまは何とか保険料を払えるけど、かつかつの生活だものね……。
 でも沙理奈、あんたには子供がいるんだ。だからあんたは医者に診てもらわなきゃいけないよ。」
 沙理奈は顔をあげると、涙が滲む目で香澄を見つめた。
「でもねえさん、保険証がなかったら医者にはかかれないよ。保険証をもらうためには滞納分を含めて60万円は払わなくちゃいけないけど、そんな大金なんか持っていないよ」
「60万円……」 
 香澄はつぶやくと、「ふーっ」とため息をついた。
「あたしも10万円くらいだったら何とか持ち合わせはあるけど、60万円となるとね……。うちの店は女の子には絶対お金なんか貸さないし……。そうだ、親には頼めないのかい?」
 沙理奈は薄く笑うと、首を大きく横に振った。
「ねえさんも知ってるように、親とは縁が切れてるんだ……。だから親に頼るなんてできっこないよ……」
「そうだったね……」
 香澄は同情を込めた目で沙理奈を見た。
 沙理奈は半ば投げやりな口調で言った。
「あたしには頼れる人が誰もいないんだ。だから保険料をどうすることもできないし、医者に診てもらうこともできないやしないよ」
 香澄はあずさの寝顔をじっと見つめた。
「あんた一人だったらそれでいいかもしれない。困る人はいないんだからね。だけどあんたにはあずさちゃんがいるんだ。あんたは、この子を幸せにしたいと思って頑張ってるんだろう?」
 沙理奈はうなずいた。
「だったら、そんなに簡単にあきらめちゃいけないよ。何がなんでも保険料を工面する手立てを考えないと……」
 そのあと香澄はじっと考え込んでいたが、しばらくすると目を輝かせた。
「そうだ! あんたのおっぱいのしこりを見つけてくれたあのサラリーマン、あんたの話では、医者に行ってくれって頭をさげて頼んだっていうじゃないか。頭をさげて頼むくらいだから、保険料のお金を貸してくれるんじゃないか?」
 沙理奈は大きくうなずいた。
「うん。あたしみたいな女に向かって一生懸命頭をさげてた。それに真面目そうな人だった。今までうちみたいな店に入ったことはなかったみたいだし。あの人にだったら頼めるかもしれない」
 その言葉に香澄は身を乗り出した。
「そうかい。それじゃあんた、そのサラリーマンの名前とか電話番号を知ってるのかい?」
「それが……」
 そのあと沙理奈は、顔を振りながら言った。
「あたしが、『医者になんか行かない』って言って、あの人があたしを説得しようとしてたとき、安藤が来てあの人を連れ出しちまったんだ。だから名前も電話番号も聞いていないんだ」
「それは困ったねえ……。そのサラリーマン、近いうちにまた来るかね……?」
 沙理奈は首をかしげた。
「安藤はストーカーだと思ったらしく、あの人に凄みをきかせたっていうから、たぶんもう来ないんじゃないかな……」
「安藤ったらほんとに困った奴だねえ。名案だと思ったんだけど……」
 そう言って、香澄は大きくため息をついたとき、沙理奈が、「そうだわ!」と声を上げた。
「先週の水曜日にあの人が初めてお店に来たとき、取引先の接待の二次会だって言っていた。取引先の人はうちの常連で、その常連さんは12番席で遊んでるって言ったようだったけど、そのとき相手にしていたのはねえさんじゃなかった?」
「先週の水曜日……」
 香澄は額にしわを寄せて考え込んだ。
「……、思い出した……。農機具販売会社の佐川社長さんだ。あの社長さんったら、あっちの方が役立たずになったから、これからはお触り専門でいくぞって言って、1時間ずっとおっぱいを触りっぱなしなんだ。でも週2回は来てくれるし、あたしを指名してくれるんで、あたしにとっちゃいいお客さんだよ。そうか、佐川社長さんに聞けばわかるね。あんた、よく気がついたね」
 香澄は、ハンドバックの中をごそごそと探し回っていたが、「あった! 佐川社長さんの名刺が見つかった」と言って、名刺を沙理奈に手渡した。
 名刺には、『関東地方農機具販売株式会社 社長 佐川栄之進』と書かれていて、携帯電話の番号も記載されていた。
「なんか立派な会社の社長さんみたい……」
 沙理奈がぼそっとつぶやいた。
「なに、うちの店に来るときはただのスケベなじいさんだから。それよりも明日、あたしは佐川社長さんに電話して、そのサラリーマンの名前と連絡先を聞くことにするから。それから先は、あんたが自分の口でその人に事情を説明して、きちんとお願いするんだよ。
 やれやれ、ようやく方針が決まったね。それじゃ寝ることにするか。もう3時だよ。あんたも早く寝ないと明日が大変だよ」
「うん、明日は朝の10時からコンビニのバイトが入ってるんだ。大急ぎで寝なくっちゃ」
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