第17話
文字数 3,271文字
第4章 家族(その2)
沙理奈は、まず孝太郎を、次に志津江を、そしてハナを見ると、静かな声で話しはじめた。
「わたしの戸籍に父親の名前はありません。父親を知らないのです……」
そして祖母に育てられたこと、その後母親に引き取られたが、ひどい扱いを受けて祖母のところに戻ったこと、中学2年の時に祖母が死んで施設に入ったこと、施設から高校に通い、卒業後は東京の小さな食品会社に就職したことを淡々と話していった。
孝太郎も志津江もハナも一言も発せずじっと耳を傾けていた。
喉をしめらすために沙理奈がお茶に手をかけたとき、ハナがつぶやいた。
「かわいそうに……。あんたは小さいときからえらい苦労をしてきたんだなあ……」
その言葉に沙理奈はわずかに笑顔を浮かべた。
「いえ、そんなに苦労したという気持ちはないんです……。祖母はかわいがってくれましたし、施設では食事でも洋服でも足りないものはありませんでしたし、高校にも通えましたから……」
「そうは言っても、お母さんのことは許せないだろうね?」
孝太郎がくぐもった声で訊いた。
「小さいときは母親のことをひどい人、憎い人だとずっと思ってきました。でも施設に入ったとき、わたしの中で母親の存在が消えていきました。たぶん祖母がわたしにとっての母親だったんだと思います。だから祖母が亡くなったときに、私の中で母親が消えていったんだと思うんです。それからは父も母もいないと思っています」
沙理奈はお茶を一口飲むと、再び話しはじめた。
「23歳のときに10歳年上の係長から言い寄られました。『妻とうまくいっていない。きみと結婚してやり直したい』と言われて……。その言葉を信じてわたしはその人と関係を持ちました……」
そしてそのあと1年ほどして妊娠したこと、係長に結婚を迫ったところ拒絶されたこと、その係長は、『身に覚えがないのに妊娠の責任を押し付けられて困っている』と社長に嘘を吹き込んだため、会社を辞めさせられたことを話した。
「その子があずさちゃんなんだね?」
孝太郎が言った。
「はい……。母親に捨てられたわたしが、子どもを捨てることはどうしてもできませんでした。それで中絶しないであずさを産みました」
「一人で産んだの?」
志津江が訊いた。
「はい。お話ししたように親戚はいませんし、東京に出てからも一人ぼっちでしたから」
「そう……」
志津江はため息ともつかない声を漏らした。
「そのあと半年ほどは貯金で何とか食いつないでいましたが、やがて貯金も底をつきました。そこで必死で働き口を探しましたが、乳飲み子を抱えた女を雇ってくれる会社などどこにもありませんでした。途方に暮れたわたしはあずさを養っていくために……」
そこで沙理奈は言葉を切ると、しばらくの間うつむいた。
そんな沙理奈の背中を山室は軽くたたいた。
沙理奈が顔をあげた。その目にはうっすらと涙が滲んでいた。
沙理奈はわずかに震える声で言った。
「……、あずさを養っていくために……、風俗店で働くことにしました……」
「風俗店……?」
孝太郎と志津江が同時につぶやいた。
「父ちゃん、母ちゃん。ここからは俺が話すことにする」
山室が言った。
「彼女は新宿の風俗店で3年半ほど働いていた。風俗店といっても、酒が入った客が店の女の子の身体を触るという程度の店だ。うちの会社も接待でときどき使っている。
彼女は、あずさちゃんを夕方から夜の12時すぎまでベビーホテルに預けてその店で働き、日中はアパートの近くのコンビニでアルバイトをした」
「あんた、そんなに働いて身体は壊さなかったかい?」
ハナが心配そうに言った。
「はい、きつかったですけど、あずさのためだと思うと何とか身体はもちました」
沙理奈は笑顔を浮かべた。
山室が話を続けた。
「東京の本社では販売店の社長さんを定期的に接待していて、営業部の社員に接待当番が順番に回ってくるんだ。5月に俺にその当番が回ってきたんだけど、接待相手の社長さんが彼女の店をひいきにしていたので、俺もそのお供で彼女の店に入ったんだ」
「そのときお前と竹井さんは知り合ったということか……?」
孝太郎がうなずきながら言った。
「うん、それはそうなんだけど……」
「まだ何かあるのか?」
孝太郎がけげんそうな顔をした。
「この先はわたしがお話しします」
沙理奈はひとつ大きく息をした。
「実は5日前に乳がんに罹 っていることがわかりました」
「えっ!」
孝太郎、志津江、ハナが一斉に声をあげた。
「竹井さん、あなたが乳がんに罹 っているんですか?」
孝太郎がソファーから腰を浮かせた。志津江とハナも身を乗り出した。
「はい……、ひと月前までは全然気がつかなかったんですが、客として来た純一さんが、わたしの左胸に小さなしこりがあることに気がつき、熱心に医者に行くようにすすめてくれました。それで病院で調べてもらったところ、5日前にお医者さんから乳がんと言われました」
「そんなことが……」
孝太郎はソファーに沈み込むと頭を抱えた。志津江は両手で顔を覆った。ハナはいたましそうに沙理奈を見つめた。しばらくの間声を発する者はだれもいなかった。
ようやく孝太郎が顔をあげて山室を見た。
「純一、お前は、竹井さんが乳がんに罹 っているとわかっていながら結婚を申し込んだのか?」
「うん」
「お前は佐和子さんのときの苦労を繰り返しても平気なのか?」
山室は父親をまっすぐ見つめながら答えた。
「佐和子のことがあるから結婚しようと思ったんだ」
孝太郎は深くため息をつくと、再びソファーに沈み込んだ。
「純一」
志津江が呼びかけた。
「お前、よりにもよって乳がんに罹 っている女の人を、どうして結婚相手に選ばなくちゃならないの? わたしは二度とあんな思いをするのは嫌だよ」
そう言うと、志津江は茶の間から小走りに出ていった。
「竹井さん、すまない」
うつむいている沙理奈に孝太郎が声をかけた。
「うちのやつがあんなことを口走ってしまって……。でも純一から聞いていると思うが、わたしらは5年前に、佐和子さんという、純一からすれば妻、わたしらからすれば嫁を乳がんで亡くしているんだ。そのときのつらさや悲しさは、5年経ったいまでも消えることがないんだよ。
とくにうちのやつは足しげく見舞いに行っていたから、よけいなんだろうと思う。それであんなことを口走ったと思うので、どうか許してやってください」
沙理奈はうつむいたまま言った。
「いいえ、お母さんのおっしゃることが正しいと思います……。立場が逆だったら、わたしだってそう言うと思いますから……」
「竹井さん、顔を上げなさい」
そのときハナが声をかけた。
「あんたはほんとに可愛い顔をしているなあ。その可愛い顔をわたしにちゃんと見せてくれないかい?」
その言葉に、沙理奈は涙を拭きながら顔をあげた。
「うん、やっぱり可愛いわ……。これでは純一が好きになるはずだ……。ところでその乳がんは治るのかい?」
「最初に診てくれた先生は、早期発見だったので助かるだろうと言ってくれた」
山室が即座に答えた。
「それで明日、佐和子の主治医だった松本先生にもう一度診てもらうことになっているんだ」
「そうかい、治るのかい。それはよかった」
ハナは何度も何度もうなずいた。
それを聞いた孝太郎がソファーから身体を起こした。
「そうか、松本先生に診てもらうのか。あの先生は立派な先生だから、言うとおりにすれば大丈夫だ」
そのあと孝太郎は息子を見た。
「お前は昔から手回しがいい奴だったが、今度のこともそうだな。竹井さんとあずさちゃんを俺たちに紹介した翌日には、松本先生に診てもらう段取りをつけているんだからな。
お前のことだから、俺たちが何と言おうが、竹井さんと結婚することを決めているんだろう?」
山室はうなずいた。
「お前はもう立派な大人だ。だから俺はお前が決めたことに何も言わないつもりだ。それに……」
そのあと孝太郎は沙理奈を見た。
「俺は竹井さんを気に入った」
沙理奈は、まず孝太郎を、次に志津江を、そしてハナを見ると、静かな声で話しはじめた。
「わたしの戸籍に父親の名前はありません。父親を知らないのです……」
そして祖母に育てられたこと、その後母親に引き取られたが、ひどい扱いを受けて祖母のところに戻ったこと、中学2年の時に祖母が死んで施設に入ったこと、施設から高校に通い、卒業後は東京の小さな食品会社に就職したことを淡々と話していった。
孝太郎も志津江もハナも一言も発せずじっと耳を傾けていた。
喉をしめらすために沙理奈がお茶に手をかけたとき、ハナがつぶやいた。
「かわいそうに……。あんたは小さいときからえらい苦労をしてきたんだなあ……」
その言葉に沙理奈はわずかに笑顔を浮かべた。
「いえ、そんなに苦労したという気持ちはないんです……。祖母はかわいがってくれましたし、施設では食事でも洋服でも足りないものはありませんでしたし、高校にも通えましたから……」
「そうは言っても、お母さんのことは許せないだろうね?」
孝太郎がくぐもった声で訊いた。
「小さいときは母親のことをひどい人、憎い人だとずっと思ってきました。でも施設に入ったとき、わたしの中で母親の存在が消えていきました。たぶん祖母がわたしにとっての母親だったんだと思います。だから祖母が亡くなったときに、私の中で母親が消えていったんだと思うんです。それからは父も母もいないと思っています」
沙理奈はお茶を一口飲むと、再び話しはじめた。
「23歳のときに10歳年上の係長から言い寄られました。『妻とうまくいっていない。きみと結婚してやり直したい』と言われて……。その言葉を信じてわたしはその人と関係を持ちました……」
そしてそのあと1年ほどして妊娠したこと、係長に結婚を迫ったところ拒絶されたこと、その係長は、『身に覚えがないのに妊娠の責任を押し付けられて困っている』と社長に嘘を吹き込んだため、会社を辞めさせられたことを話した。
「その子があずさちゃんなんだね?」
孝太郎が言った。
「はい……。母親に捨てられたわたしが、子どもを捨てることはどうしてもできませんでした。それで中絶しないであずさを産みました」
「一人で産んだの?」
志津江が訊いた。
「はい。お話ししたように親戚はいませんし、東京に出てからも一人ぼっちでしたから」
「そう……」
志津江はため息ともつかない声を漏らした。
「そのあと半年ほどは貯金で何とか食いつないでいましたが、やがて貯金も底をつきました。そこで必死で働き口を探しましたが、乳飲み子を抱えた女を雇ってくれる会社などどこにもありませんでした。途方に暮れたわたしはあずさを養っていくために……」
そこで沙理奈は言葉を切ると、しばらくの間うつむいた。
そんな沙理奈の背中を山室は軽くたたいた。
沙理奈が顔をあげた。その目にはうっすらと涙が滲んでいた。
沙理奈はわずかに震える声で言った。
「……、あずさを養っていくために……、風俗店で働くことにしました……」
「風俗店……?」
孝太郎と志津江が同時につぶやいた。
「父ちゃん、母ちゃん。ここからは俺が話すことにする」
山室が言った。
「彼女は新宿の風俗店で3年半ほど働いていた。風俗店といっても、酒が入った客が店の女の子の身体を触るという程度の店だ。うちの会社も接待でときどき使っている。
彼女は、あずさちゃんを夕方から夜の12時すぎまでベビーホテルに預けてその店で働き、日中はアパートの近くのコンビニでアルバイトをした」
「あんた、そんなに働いて身体は壊さなかったかい?」
ハナが心配そうに言った。
「はい、きつかったですけど、あずさのためだと思うと何とか身体はもちました」
沙理奈は笑顔を浮かべた。
山室が話を続けた。
「東京の本社では販売店の社長さんを定期的に接待していて、営業部の社員に接待当番が順番に回ってくるんだ。5月に俺にその当番が回ってきたんだけど、接待相手の社長さんが彼女の店をひいきにしていたので、俺もそのお供で彼女の店に入ったんだ」
「そのときお前と竹井さんは知り合ったということか……?」
孝太郎がうなずきながら言った。
「うん、それはそうなんだけど……」
「まだ何かあるのか?」
孝太郎がけげんそうな顔をした。
「この先はわたしがお話しします」
沙理奈はひとつ大きく息をした。
「実は5日前に乳がんに
「えっ!」
孝太郎、志津江、ハナが一斉に声をあげた。
「竹井さん、あなたが乳がんに
孝太郎がソファーから腰を浮かせた。志津江とハナも身を乗り出した。
「はい……、ひと月前までは全然気がつかなかったんですが、客として来た純一さんが、わたしの左胸に小さなしこりがあることに気がつき、熱心に医者に行くようにすすめてくれました。それで病院で調べてもらったところ、5日前にお医者さんから乳がんと言われました」
「そんなことが……」
孝太郎はソファーに沈み込むと頭を抱えた。志津江は両手で顔を覆った。ハナはいたましそうに沙理奈を見つめた。しばらくの間声を発する者はだれもいなかった。
ようやく孝太郎が顔をあげて山室を見た。
「純一、お前は、竹井さんが乳がんに
「うん」
「お前は佐和子さんのときの苦労を繰り返しても平気なのか?」
山室は父親をまっすぐ見つめながら答えた。
「佐和子のことがあるから結婚しようと思ったんだ」
孝太郎は深くため息をつくと、再びソファーに沈み込んだ。
「純一」
志津江が呼びかけた。
「お前、よりにもよって乳がんに
そう言うと、志津江は茶の間から小走りに出ていった。
「竹井さん、すまない」
うつむいている沙理奈に孝太郎が声をかけた。
「うちのやつがあんなことを口走ってしまって……。でも純一から聞いていると思うが、わたしらは5年前に、佐和子さんという、純一からすれば妻、わたしらからすれば嫁を乳がんで亡くしているんだ。そのときのつらさや悲しさは、5年経ったいまでも消えることがないんだよ。
とくにうちのやつは足しげく見舞いに行っていたから、よけいなんだろうと思う。それであんなことを口走ったと思うので、どうか許してやってください」
沙理奈はうつむいたまま言った。
「いいえ、お母さんのおっしゃることが正しいと思います……。立場が逆だったら、わたしだってそう言うと思いますから……」
「竹井さん、顔を上げなさい」
そのときハナが声をかけた。
「あんたはほんとに可愛い顔をしているなあ。その可愛い顔をわたしにちゃんと見せてくれないかい?」
その言葉に、沙理奈は涙を拭きながら顔をあげた。
「うん、やっぱり可愛いわ……。これでは純一が好きになるはずだ……。ところでその乳がんは治るのかい?」
「最初に診てくれた先生は、早期発見だったので助かるだろうと言ってくれた」
山室が即座に答えた。
「それで明日、佐和子の主治医だった松本先生にもう一度診てもらうことになっているんだ」
「そうかい、治るのかい。それはよかった」
ハナは何度も何度もうなずいた。
それを聞いた孝太郎がソファーから身体を起こした。
「そうか、松本先生に診てもらうのか。あの先生は立派な先生だから、言うとおりにすれば大丈夫だ」
そのあと孝太郎は息子を見た。
「お前は昔から手回しがいい奴だったが、今度のこともそうだな。竹井さんとあずさちゃんを俺たちに紹介した翌日には、松本先生に診てもらう段取りをつけているんだからな。
お前のことだから、俺たちが何と言おうが、竹井さんと結婚することを決めているんだろう?」
山室はうなずいた。
「お前はもう立派な大人だ。だから俺はお前が決めたことに何も言わないつもりだ。それに……」
そのあと孝太郎は沙理奈を見た。
「俺は竹井さんを気に入った」