第22話

文字数 3,209文字

第5章 手術(その1)

 翌日出勤した山室は、まわりの社員たちが自分を見たとたん含み笑いをしたり、ひそひそとささやきあっていることに気がついた。
(俺のことで何かあったんだろうか……?)
 首をかしげながらその日のスケジュールを確認しようとしたとき、課長の滝野が血相を変えて飛んできた。
「山室くん、たったいま専務から呼び出しがあった。これから一緒に専務室に入ってくれ」
「専務から……?」
 山室はあわてて立ち上がると上着を羽織った。
 まわりの社員たちはそんな山室を興味津々で眺めていた。
 滝野と山室を見ると、役員室の秘書はさっと立ち上がった。秘書はそのあと専務室のドアをノックすると、「営業部の滝野課長が見えました」と言って来訪を伝えた。
 滝野がしゃちほこばった口調で、「失礼します」と言いながら深々と頭をさげて部屋に入った。山室も一礼して続いた。
 広々としたデスクに向かっていた専務の吉沢は、不機嫌そうな顔で滝野と山室をじろりと見やると、手振りで応接ソファーに座るように指示した。
 そのあと吉沢は、のっそりと立ち上がってソファーに歩み寄ると、肥満した身体をソファーに沈めた。
「きみが山室くんか……?」 
 吉沢は山室をねめつけるように見ながら、身体に似合わない甲高い声で言った。
「はい……」
 山室がうなずいた。
「きみのせいで、僕は満座の中で恥をかかされたぞ」
「はい……?」
 けげんそうな顔をする山室に向かって、吉沢は一段声を張り上げた。
「きみは新宿のお触りパブの女と結婚するって言ってるそうだが、それは本当かね?」
 山室は黙って吉沢を見つめた。
 わきから滝野がおろおろした様子で、「き、きみ、そんなことはないよな……?」と口を挟んだ。
「きみなんかに訊いていない」
 吉沢はぴしゃりと言うと、「山室くん、どうなんだ?」と答えを迫った。
「本当です」
 山室は低いが、はっきりした口調で答えた。
「佐川社長が言ったことは本当だったのか……。まったくきみは何ということをしてくれたんだ。きみはうちの会社の社会的信用というものをどう考えているんだ。
 先週の土曜日、農機具販売会社の社長連中との懇親会で、佐川さんから満座の中でこう言われたんだ。
『おたくのような一流企業の社員さんが風俗店の女にころりと参って、結婚すると言い出すとはね。いやー、驚いたのなんのって。まあ、今の世の中、誰と結婚しようが自由だが、住んでいる世界にふさわしい相手というものがあると私は思うがね。
 それに女房ともなれば、旦那の口から会社のことも耳に入るだろうが、ああいう女たちは裏で誰とつながってるかわかったもんじゃないからね……。せいぜいうちの会社の情報は女房に言わないようにしっかり釘を刺しておいてくださいよ』
 まったくとんだ赤っ恥をかかされたよ」
 吉沢は苦々しく山室を見ると、高飛車な調子で言い放った。
「それで山室くん。結婚はなしということになるんだな?」
 わきで滝野が、「はい、って言え」とささやいた。
 山室の顔が一瞬紅潮したあと、青白く変わった。
 山室は落ち着いた声で答えた。
「ありがたいご指導を頂戴しましたが、結婚するという気持ちに変わりはありません」
「や、山室くん……、き、きみは何てことを言うんだ……」
 滝野はうろたえて山室の上着の袖を引っ張った。
 吉沢は山室を睨みつけると、低い声で言った。
「山室くん、きみは僕の命令が聞けないというのかね?」
 山室は静かな声で言った。
「専務、ただいまのお話は命令なんでしょうか……?」
 吉沢は赤く染まった頬を膨らませると、高飛車に言い放った。
「そうだ。命令だ。なにしろうちの会社の信用に関わることだからな。結婚は個人の自由なんて言われているが、そんなものは建前にすぎん。きみぐらいの年だったら、いい加減そんなことはわかりそうなものだがな。
 まあ、命令といっても、逆らったからクビと言うわけにはいかんが、会社にいてもクビになったと同じ扱いはいくらでもできるんだ。そこのところをよく考えるんだ。1週間やるから、その間によく考えて賢明な選択をするんだな」
 
 専務室を退出したあと、山室は滝野から結婚をやめるように執拗な説得を受けた。
 山室は一言も口を開くことなく話を聞くだけだった。
 最後に滝野が言った。
「きみは大抜擢を受けて本社に栄転になったんだぞ。出世の階段に足をかけたところなんだぞ。ふさわしい再婚相手ならいくらでも見つかるんだ。そこのところをよく考えてくれ」
「課長にはご迷惑をおかけして申し訳ありません」
 山室は深々と頭をさげた。
 
 言葉少なに考え込む山室の様子に、沙理奈は不安を隠せなかった。
「純一さん、会社で何かあったの……?」
「いや、変わったことはないよ……」
 山室は気弱な笑いを浮かべた。
 これまで沙理奈は、そのような山室の笑いを見たことがなかった。沙理奈は抱いていた不安が現実のものになったと確信した。
 沙理奈は向い合せに座ると、山室の手を取った。
「純一さん、何でも正直に話して……。隠し立てをするなって教えてくれたのは純一さんでしょう? だったら何でも話してよ。あたしのことで会社の人から何か言われたのね?」
 山室は沙理奈を見つめるとうなずいた。
「実は……、専務に呼び出されて結婚をやめろと言われた……」
「専務さんから……?」
 沙理奈は呆然と山室を見た。
「あの佐川社長が専務の耳にあれこれ吹き込んだみたいだ……」
「それで……、純一さんはどうするの……?」
 山室は笑顔を見せた。今度はしっかりとした笑顔だった。
「前にも言ったと思うけど、もちろんきみと結婚するよ」
 しかし沙理奈は心配そうな顔で続けた。
「でも……、専務さんの言うことを聞かなかったら、大変なことになるじゃないの……?」
「そうだね……。たぶん左遷されるだろうな……」
 沙理奈の顔がみるみる青白くなった。
「左遷……? それはだめ。あたしのために人生を棒に振るなんて……」
 山室は沙理奈の手を強く握りしめた。
「俺だって普通の人間だ。会社の中で認められたい気持ちは人並みに持っているよ。そういう俺が、左遷されたあとの待遇に耐えられるだろうかって、ずっと考えていたんだ。正直なかなか結論が出なかった。でもきみと話しているうちに、不思議と腹が決まったよ。結論は俺は耐えられるということだ……」
 沙理奈はなおも首を振った。
「でも人の心は変わるわ……。そんな待遇を受けていたら、あなたはきっとあたしを恨むようになるわ……」
「俺がそんな人間に見えるかい?」
 山室は静かに言った。
「これまでも俺はそんな人間にならないように生きてきたつもりだし、これから先もそうならないように生きていくつもりだ。だから俺を信頼してほしい」
 そう言うと、山室は沙理奈を胸に引き寄せた。
 
 その3日後、山室は沙理奈と結婚することを吉沢に伝えた。
「きみはいつまでも青臭さが抜けない男だな。まあ、社内での立場がどうなるかまで考えての決断なんだろうから、このあとどんなことが起こっても泣き言は言わん事だな……」
 吉沢は、脂ぎった顔に薄ら笑いを浮かべて言った。
 それから2日後、吉沢が予告したことが起こった。
 山室に3か月の期限付きで九州営業所への出向命令が出された。九州営業所はベテランの営業マンが手薄なのでその応援というのが名目だった。
「すまない。5日後のきみの内視鏡手術に立ち会えなくなった」
 頭をさげる山室に、沙理奈は涙を浮かべながら首を振った。
「あたしのせいでこんなことになったんだもの、謝るのはあたしの方よ……」
「そんなことより、手術のときあずさちゃんをどうするかだ? 手術のあと、ひと晩の入院は必要だって松本先生が言ってたからね」
「病室にあずさも泊めてもらえないかって、病院に訊いてみようかと思ってる……」
 山室は沙理奈の言葉に首を振ると、「俺が何とかする」と言って腕組みをした。
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