第5話

文字数 5,753文字

第2章 健康保険証(その1)
 
 翌日の夕方、香澄は出勤してきた沙理奈を見つけると、1枚のメモを手渡した。
 それには『アグリ農機工業(株) 営業部 山室純一』とあり、そのわきに会社の電話番号が書かれていた。
「佐川社長さんに電話して教えてもらったよ。大手の会社の人みたいだね。
 佐川社長さんったらけっこう詮索好きでね。『どうして山室くんの連絡先を聞きたがるんだ』ってしつこく訊くんで、しかたないから、『山室さんを気に入って、どうしても連絡を取りたいっていう娘がいるんだ』って答えておいたけど、社長さんは腑に落ちなかったようだったね。それはそうとして、明日は必ず山室さんに電話するんだよ」
 沙理奈は香澄に丁寧に頭をさげた。
「ねえさん、どうもありがとう。言われたとおりにするから」
 沙理奈はメモを二つに折ると、大事そうにハンドバックにしまい込んだ。
 
 翌日の午後2時すぎ、コンビニのバイトが終わった沙理奈は、携帯電話を取り出すと、山室の会社の番号を入力して発信ボタンを押した。
 大手の会社に電話するということで、沙理奈は緊張していた。
 呼出音が二度鳴ったあと、「毎度ありがとうございます。アグリ農機、営業部です」と答える若い男の声がした。
 電話からは別の電話に応対している声や仕事を指示する声などが聞こえ、忙しい職場であることがわかった。
 沙理奈はひとつ息を吸い込んでから言った。
「あの……、山室さんをお願いしたいんですけど……。わたし、竹井といいます」
「山室さん……? ああ、山室チーフですね。少々お待ちください」
 若い男が答えたあと、転送に伴うメロディが聞こえはじめた。
 少しして、「電話を替わりました。山室ですが……」と、聞き覚えのある声が電話に出た。
「山室さんですか? あたし、竹井沙理奈といいます」
 沙理奈は固い声で言った。
「竹井沙理奈さん……?」
 けげんそうな山室の声が聞こえた。
「あの……、おとといの晩に寄って頂いたお店の……、ジャスミンです……」
「ジャスミンさん……?」
 急に山室の声の調子が変わった。
「ああ……、あのお店のジャスミンさん……。竹井沙理奈さんっていうのが本当の名前なんですか。それにしても、よく私の名前と会社の電話番号がわかりましたね」
「農機具販売の社長さんから教えていただきました」
「なるほどね……。それでわざわざ会社に電話をよこすというのは、差し迫った話があるからですよね。例のしこりの件ですか?」
「はい、その件でお願したいことがあるんです。明日の土曜日のお昼、時間はおまかせしますので、会っていただけませんか?」
 山室の軽く笑いを含んだ声が聞こえた。
「いつもと違って言葉づかいがすごく丁寧ですよね? まあ、会社の電話なので私もそうなんですけどね。それで例の件で相談ということならOKですよ。お昼時間だったら、せっかくだからお昼ごはんを一緒に食べましょうか」
 思いがけない山室の誘いに、沙理奈はとまどった。
「お昼ごはんをですか……? あの……、あたし、子持ちなんです……。4歳の女の子がいるんです……」
「へえー、子供さんがいるんだ……」 
 山室が探るような口調になった。 
「それじゃ旦那さんがいるのかな……?」
「いえ……」
 山室の声が明るくなった。
「それじゃ子供さんも一緒に三人で食事をしましょう。家から近いところがいいですよね。どのあたりに住んでるんですか?」
「大久保です」
「じゃ、明日の12時、大久保駅ということで」 

「ママ、とってもきれい。女優さんみたい」
 沙理奈のピンクのワンピース姿を見たあずさが声をあげた。
 沙理奈は、朝から気持ちが弾むのを感じていた。
 山室に会うのはお金を借りるためであり、気持ちが重くなるのが普通だと自分に言い聞かせてみても、自然と気持ちが弾んでくるのだった。
 そんな気持ちになることが不思議で、沙理奈はその理由をあれこれ考え続けたが、思い当たることはなかった。
 山室に会う時間が近づき、何を着ようか思案しているとき、沙理奈が手に取ったのがピンクのワンピースだった。
 そのピンクのワンピースは、かつかつの会社員時代にようやく手に入れた沙理奈の宝物だった。
 お金に余裕がなかった沙理奈の唯一の楽しみは、デパートのウィンドウショッピングだった。 
 いろんな売り場を回り、飾ってある洋服を着た自分を想像しては、それなりに楽しい時間を過ごしていた。
 そんなとき、ピンクのワンピースを見た沙理奈は、一目でそのとりこになった。
 どうしても着てみたいという気持ちを抑えられずに試着した沙理奈だったが、鏡に映ったその姿はとても愛らしく見え、自分が良家のお嬢さまに思えるほどだった。
(このワンピースは自分の生い立ちを忘れさせてくれるかもしれない……) 
 そんな思いから、沙理奈は、10回の分割払いで5万円のワンピースを手に入れたのだった。
 あずさを産んでからは一度も袖を通したことがなかったが、娘らしさを残している沙理奈にはいまでもよく似合っていた。
 そのことに気をよくした沙理奈は、機嫌よくあずさの身支度に取りかかった。
 量販店で買い求めたものの中から、沙理奈のワンピースの色と一番近いピンクのワンピースを着せ、おかっぱ頭にはピンクの帽子をかぶせてやった。
「さあ、これで出かける準備ができました。今日は大事なお客様と会うんだから、あずさはいい子にしててね」
 母親と二人、おめかしして外出することなどなかったあずさは、それだけで大はしゃぎで、目をきらきらさせて沙理奈のまわりを飛び跳ねていた。
「うん、いい子にしてるから大丈夫だよ。それよりも早く行こうよ」
 日差しは強いものの、外は5月のさらっとした風が吹くすがすがしい天気だった。
 ともすれば駆け出しそうなあずさの手をしっかり取って、沙理奈は約束の5分前に駅に着いた。
 改札口の方に向かおうとしたとき、後ろから男の声がした。
「竹井沙理奈さん……?」
 沙理奈が振り向くと、頭ひとつ上に山室の顔があった。
「やっぱりそうか。素敵なワンピースを着た可愛い人が歩いてくると思って見ていたら、あれっと思ってね。いやー、お店で見たときと全然違うんで驚いたよ」
 それから山室は、沙理奈の後ろに半分隠れているあずさを見てしゃがみ込んだ。そして笑顔を見せると、やさしく問いかけた。
「ママとおそろいのワンピースでかわいいね。お名前は?」
「竹井あずさ……」
「年は?」
「4つ……」
 山室は、しゃがみ込んだままあずさに向かって自己紹介をした。
「おじさんは山室純一っていうんだよ。ママのお友達なんだ」
 そのあと山室は立ち上がった。
「ちょうどお昼になったからごはんを食べに行こうか。俺、東京はよく知らないし、このあたりは全然わからないんで、この先のファミリーレストランでいいかな?」
 山室はファミリーレストランの看板を指さした。
 沙理奈はうなずくと、「お昼ごはんを食べに行こうね」と言って、あずさの手を取った。
 お昼どきで店はそれなりに混んでいたが、三人は何とか一番奥のボックス席に座ることができた。
「ここは誘った人のおごりだから、何でも好きなものを選んでいいよ」
 山室はそう言いながら沙理奈にメニューを渡した。
「すみません。それではご馳走になります……」
 沙理奈は頭をさげると、子ども用のメニューの中から一番安い350円のパンケーキを指さしながら、あずさに向かって、「これにしようね」とささやいた。
「うん……」
 一度はうなずいたあずさだったが、すぐにハンバーグやエビフライがのったミックスランチを指さした。
「こっちがいい! それと……」
 あずさはそう言ったあと、となりの席の似たような年頃の女の子が食べているフルーツパフェを指さした。
「あれも食べたい!」
「こら、そんなわがままはダメでしょ」
 すかさず沙理奈はあずさをたしなめたが、山室はにこにこしながら二人の様子を見つめていた。
「よし、あずさちゃんにはその二つを頼もう」
 山室は、沙理奈からメニューを取り上げながら言うと、メニューに目を落としながら続けた。
「それと……、俺は満足な朝めしを食ってないんで、このステーキランチにしよう。沙理奈さん、きみは……、せっかくの洋服を汚さないようなもの……、よし、この特上ヒレカツ定食でいいね」
 そう言うと、山室は沙理奈の返事も待たずに注文ボタンを押した。
「そんな高いものじゃなくていいんです」
 沙理奈はあわてて断ったが、山室は涼しい顔で、注文を聞きに来た店員に自分が決めた注文を伝えた。
「そんなにしてもらうと、あたし、困っちゃいます……」
 沙理奈はうつむいて言った。
「この前……、山室さんは親切にいろいろ言ってくれたのに……、あんな口をきいてしまって……。そのうえ安藤……、あのお目付け役の男が、山室さんを引っ張っていくのを止めることもできないで……。ごめんなさい……」
 頭をさげる沙理奈を見ながら、山室は軽く手を振った。
「いやー、あの安藤さんの力は凄かったよ。さすがは店の用心棒というだけのことはあるな。俺はこう見えても農家の生まれで、高校まで柔道をやってたんで、それなりに腕っぷしには自信があるんだけどね。
 言い訳になるけど、あのときはいきなり肘をきめられたんで、動きが取れなかったんだ。そうじゃなかったらいい勝負ができるかな」
 そう言って、山室は笑顔を見せた。
「それよりも、昨日きみから電話をもらって、例の件で相談したいって言われたときはうれしかったよ。俺の言うことをちゃんと聞いてくれたと思ってね」
 そのとき、店員がミックスランチを持ってきて、あずさの前に置いた。
 それを見てあずさが歓声をあげた。
「わあー! すごい!」
 いまにも手を出しそうな勢いのあずさに、沙理奈が声をかけた。
「あずさ、ごはんを食べる前にはどうするんだったけ?」
 あずさは両手に目を落とした。
「お手てを洗う……」
 そう言いながら、幼児用のイスからおりようとしたあずさを見て、山室は席から立ち上がると、さっとあずさを抱きあげた。
「あずさちゃんを見習って、おじさんも手を洗いに行こう」
 山室はあずさを軽々と抱えたまま、洗面所に歩いていった。
 あずさのうれしそうな笑顔を見たとき、沙理奈の胸に切ない思いがこみ上げてきた。
(あのようにやさしい父親をあずさに持たせてあげたかった……。それなのに……。あずさ、ごめんね……)
 沙理奈がうつむいていると、突然、「ママもちゃんと手を洗ってきてね」というあずさの声がして、沙理奈はさっと顔をあげた。
 見るとあずさは、山室に抱きかかえられて幼児用のイスに座ろうとしているところだった。
「うん、ママも急いで手を洗ってくるからね……」
 沙理奈は小走りに洗面所に駆けていった。
 手洗いを済ませて席に戻ってみると、自分と山室の料理も運ばれていた。そして山室が、あずさの首に紙エプロンをかけてやっているところだった。
「あっ、すみません。あずさのためにそんなことまでさせてしまって……」
 紙エプロンをかけ終わった山室は、あずさの頭を軽く撫でながら、恐縮する沙理奈に向かって言った。
「あずさちゃんと一緒に手を洗ったら、すっかり仲良しになった……」
 あずさは笑顔で山室を見上げた。
「うん、おじさんは力持ちでやさしいから好き」
 そのあとあずさは、フォークを手にしながら沙理奈を見た。
「いただきますを言ったら、食べていい?」
 沙理奈が大きくうなずいた。
「いただきまーす!」
 あずさは元気よく言うと、エビフライにフォークを突き立てた。
 それを見ながら、沙理奈は、「それじゃご馳走になります」と言って、箸を取った。
 山室は、食事の間もにこにこしながらあずさの様子を見ていて、あずさが食べ物をこぼすと、それをナプキンの上に乗せてやった。
 そんな山室の様子を見て、沙理奈は思わず声をかけた。
「山室さんって、子供が好きなんですか?」
「うん、大好きだ。結婚したら早く子供が欲しいと思っていた。でも家内も働いていたので、仕事に区切りがついたらと先延ばしにしているうちに、家内があんなことになってしまった……」
 まもなくフルーツパフェが運ばれてきた。
 うず高く盛り付けられたクリームと、それを取り囲むように配置されたイチゴやメロン、バナナ、マンゴーなどを見て、あずさは歓声をあげた。
 そんなあずさに向かって、山室はやさしく話しかけた。
「こぼしたりすると大変だから、最初はおじさんが食べるのを手伝ってあげようか」
 あずさがうなずくと、山室はクリームやフルーツをあずさの口に運んでやった。
(あずさがすごくうれしそう……)
 沙理奈が胸を熱くしながらその様子を見つめていると、山室が目の前にスプーンを差し出した。
「沙理奈ママ、いよいよ出番だよ。あずさちゃんはお腹がいっぱいだってさ」
「あたしもヒレカツだけでお腹がいっぱいで……」
「そうか……、じゃ、俺が責任を取って残りを食べるしかないか……」
 山室は、あずさが残した3分の2ほどのパフェをあっという間にたいらげた。
 沙理奈が目を丸くして問いかけた。
「山室さんは甘いものも好きなんですか?」
「うん、俺は、お酒も甘いものもそこそこにいけるみたいなんだ。そのかわりお腹がだんだん出てきて、少しヤバい状態だよ」
 山室は腹のあたりをさすりながら答えたあと、急に表情を引き締めた。
「ところで例の件での相談って、どんなことかな?」
 沙理奈はあたりを見まわした。
「あの……、ここではちょっと……。人には聞かれたくない話なので……」
「そうか……。だったらどこがいいかな……」
「あの、あたしのアパートの近くに公園があるんですけど、そこはいつも人がほとんどいないので、そういった話もできると思うんですけど……」
「よし、天気もいいし、そこにしよう」
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