第11話
文字数 3,927文字
第3章 診断(その4)
食事が終わってまもなく、病院での待ち疲れが出たのか、あずさは山室に抱かれたままぐっすりと寝入ってしまった。
「山室さん、ごめんね。重いでしょう? いまあずさの布団を敷くから」
布団に移されてもぐっすり眠っているあずさを見ながら、山室が口を開いた。
「今日訪ねたのは、どうしても今日のうちにきみに話しておきたいことがあったからなんだ。乳がんとわかった以上、きみはもうあそこの店では働けない」
沙理奈はうなずいた。
「そうするときみは働き口を失くして生活ができなくなる……」
再び沙理奈はうなずいた。
「俺はきみとあずさちゃんの面倒を見たいと思っている。だから明日には俺のところに引っ越してきてほしい。俺は2LDKに住んでいるので、一部屋はきみたちが使えばいい」
「そんな厚かましいことをして山室さんは困らないの?」
山室は苦笑した。
「今日病院でお互いの気持ちは確認している。だから一緒に暮らしても何も困ることはない」
その言葉に沙理奈も笑顔を見せた。
山室は続けた。
「それから、これは一番大事なことだけど、来週のはじめには宮城医大の松本先生に診てもらう必要がある。診察の結果次第では長期間仙台に滞在する必要があるかもしれない」
「…………」
「その場合に備えて、きみとあずさちゃんが住むところを考えておく必要がある。それに……」
「それに……?」
「きみが入院したりしている間、あずさちゃんの面倒をだれが見るかだ」
これから直面するであろう問題を山室から次々と示されて、沙理奈は言葉がなかった。
「俺の実家は仙台の近くの町にあって、両親は農業をやっている。きみが治療を受けている間、きみとあずさちゃんは俺の実家の世話になればいいと思っている。それで俺は、今度の日曜日にきみたちを連れて実家に戻り、きみを結婚相手として紹介したいと考えている」
それを聞いたとたん、沙理奈は即座に首を振った。
「そんなことはできない。山室さんはあたしの生い立ちやこれまでの人生を知らないから、そんなことが言えるのよ」
そのあと沙理奈は、顔をうつむけるとつぶやくように言った。
「あたしの生い立ちやこれまでの人生を聞いたら、好きだって言ってくれた山室さんだって、きっと気持ちが変わってしまうと思う……」
「顔をあげて。俺を見て」
山室は、おずおずと顔をあげた沙理奈に向かって落ち着いた声で言った。
「俺はいまのきみが好きだ。きみの生い立ちもこれまでの人生も丸ごと受け入れるつもりだ。きみの生い立ちやこれまでの人生がどんなものであろうが、俺の気持ちが変わることはない……」
「ありがとう……」
沙理奈はつぶやいたあと、静かに話を始めた。
「あたしね、父親が誰だかわからないの……。母親は男関係が派手なひとで、高校を卒業するといろんな男をつき合っていて、そのうち誰かの子供を妊娠して……。それがあたしだったってわけ。だからあたしの戸籍には母親の名前しか入ってないの……。
あたしが生まれてからも、母親は自分の母親、あたしからすれば祖母だけど……、に預けっぱなしにしていろんな男と遊びまわっていたそうで、あたしは赤ん坊のときは祖母に育てられたの。
あたしが6歳になったとき、母親はトラック運転手をしている男と結婚して、あたしはようやく母親と一緒に暮らすことになったの。でも母親にとって、あたしなんか男遊びの最中に間違ってできた子供だったんで、あたしへの愛情なんてこれっぽちもなくて、『あんたなんか間違ってできた子供だ』とか、『あんたがいるから旦那に対して肩身が狭くて大変だ』とか言われ続けて……。
それでもその頃はまだごはんを食べさせてもらえたんだけど、そのうち旦那との間に子供が生まれてからは、ますますあたしが邪魔になったみたいで、ちょっとしたことで叩かれたり、ごはんも満足に食べさせてもらえなくなって……。
それであたしも9歳だったけど、さすがにこれでは殺されちゃうと思って、祖母のところに逃げ帰って、また面倒を見てもらうことになったの。
でもあたしが中学2年のときに祖母が死んじゃって、母親はあたしを引き取らないし、あたしも母親と暮らす気持ちはなかったから、結局は児童養護施設で暮らすことになったの……」
山室は何も言わずに沙理奈をじっと見つめていた。
「でも施設に入ったら、あたしよりももっとひどい扱いを受けた子たちもいてね。『あたしは祖母に可愛がってもらって、しつけもしっかりしてもらった分だけ幸せだったんだなあ』って思えたりしたんだ。
それに施設では高校にも行かせてくれてね。こう見えてもあたし、それなりに勉強もできたんだよ。
あたしは高校生のときから、早く自分でお金を稼いで自立したいって思っていたの。それで、施設のあっせんもあって、卒業と同時に東京にある小さな食品会社に就職することができて、念願の一人暮らしを始めたの。
その頃が一番楽しかったなあ。スズメの涙ほどのお給料だったけど、一人だったから何とか暮していけたし、何よりもほかの人に頼らずに生きていけるってことが幸せだって毎日思ってた……」
そう話す沙理奈は自然と笑顔になっていた。しかし沙理奈はすぐに笑顔を消して目を伏せた。
「会社に入って5年が経ったとき、あたしより10歳年上の係長が言い寄ってきたの。クリスマスイブにデートに誘われて、ホテルのレストランで、『きみが入社したときからきみのことが好きだった。僕は結婚しているけど、女房との仲はうまくいっていないので、女房と離婚してきみとやり直したい』って言われて。そいつは用意周到に花束まで用意しててね。
施設を出て幸せに飢えてた小娘は一発で陥落したわ。結婚している男がそんなに簡単に奥さんと別れるはずなんかないのにね」
沙理奈は自嘲気味に笑い声をあげた。
「その夜、そのホテルでそいつに抱かれたわ。それからそいつは週に2回はアパートに来てあたしを抱いたわ。そんな関係が1年近く続いたあと、妊娠していることがわかったの。
それまでもあたしは、抱かれるたびに、『いつ結婚してくれるの?』って訊いて、そいつは『慰謝料のことでもめてるんだ』なんて言ってたんだけど、妊娠した以上は絶対に結婚してくれると思って、あたしは強く結婚を迫ったの。
そしたらそいつはひどくあわてて、『子供ができた……? 僕は子どもができないように細心の注意を払ってたんだ。だから僕の子供のはずがない。きみはほかの男とも関係を持っていて、その男との子供を僕の子どもだと言ってるんじゃないか。そんなふしだらな女と結婚するなんて考えられない』ってまくし立てたわ。
そのときになってはじめて、そいつがあたしの身体だけを目当てに近づいてきたことにようやく気がついたわ。あたしはショックのあまりどうしていいかわからない状態だった。相談できる人は誰もいなかったし……。
でもそいつはもっとひどいことをあたしにしたの。翌日出勤したあたしは社長から呼び出しを受けた。『何だろう?』と思いながら社長室に行ったら、いきなり社長からこう言われたの。
『小川係長から聞いたんだが、きみは妊娠してるんだって? そして身に覚えのない小川係長に向かって、『あなたの子どもだから責任を取って結婚してください』って言ったそうだね。小川係長は大変困惑してたよ。『いろいろ苦労してきた子だけれど真面目で頑張る子だから、親身になって相談に乗ってきただけなのに』ってね。
そして社長は次にこう言ったわ。
『私は、父親がいない子供や施設にいた子供に一切偏見などは持っていないつもりだ。だからきみを雇い入れてそれなりに処遇をしてきたつもりだ。しかし結婚前にわけのわからない男とふしだらな関係を持って妊娠したあげくに、世話になっている小川係長に向かって、『お腹の子どもはあなたの子だ』なんて言う人間は、生い立ちに大きな問題があったと考えざるを得ない。私はこれ以上きみのような人間を雇っておくわけにはいかない』って……」
そのときの屈辱を思い出してか、沙理奈の目に涙が滲んだ。
沙理奈は涙を拭うと、眠っているあずさに目を向けた。
「お腹の子供は5か月目に入ったところだった。ぎりぎり中絶できる月数だったけど、どうしても中絶はできなかった。母親に捨てられたあたしが、今度は自分の子供を捨てるようなことはできなかったの……。
爪に火をともすようにして貯めた貯金が100万円あったので、そのお金とわずかばかりの退職金と失業保険で生活しながらあずさを産んだわ。
でも出産費用やあずさのミルク代やおむつ代、それから毎月のアパート代なんかを払ってたら、たちまちお金がなくなっていった。
それで働くところを探しはじめたけど、施設出身で学歴もない乳飲み子を抱えた女を雇ってくれるところなんてどこにもなかった。
困り果てたあたしは、『もう風俗しかない』って覚悟を決めて、スポーツ新聞なんかの求人広告で働くところを探すようになったけど、あずさのために本番だけはしたくないって思ってた。そしたら『お触りだけのお店。安心して働けます』という広告が出てたんで、面接を受けに行って採用になったのがあのお店だったの」
沙理奈が話している間、山室は黙ってじっと耳を傾けていた。
最後に沙理奈は小さく言った。
「そのうえ乳がんに罹 ってるんだもの、受け入れてくれる人なんかだれもいないわ……」
沙理奈が話し終わったあともしばらくの間、山室は黙ったままだった。
食事が終わってまもなく、病院での待ち疲れが出たのか、あずさは山室に抱かれたままぐっすりと寝入ってしまった。
「山室さん、ごめんね。重いでしょう? いまあずさの布団を敷くから」
布団に移されてもぐっすり眠っているあずさを見ながら、山室が口を開いた。
「今日訪ねたのは、どうしても今日のうちにきみに話しておきたいことがあったからなんだ。乳がんとわかった以上、きみはもうあそこの店では働けない」
沙理奈はうなずいた。
「そうするときみは働き口を失くして生活ができなくなる……」
再び沙理奈はうなずいた。
「俺はきみとあずさちゃんの面倒を見たいと思っている。だから明日には俺のところに引っ越してきてほしい。俺は2LDKに住んでいるので、一部屋はきみたちが使えばいい」
「そんな厚かましいことをして山室さんは困らないの?」
山室は苦笑した。
「今日病院でお互いの気持ちは確認している。だから一緒に暮らしても何も困ることはない」
その言葉に沙理奈も笑顔を見せた。
山室は続けた。
「それから、これは一番大事なことだけど、来週のはじめには宮城医大の松本先生に診てもらう必要がある。診察の結果次第では長期間仙台に滞在する必要があるかもしれない」
「…………」
「その場合に備えて、きみとあずさちゃんが住むところを考えておく必要がある。それに……」
「それに……?」
「きみが入院したりしている間、あずさちゃんの面倒をだれが見るかだ」
これから直面するであろう問題を山室から次々と示されて、沙理奈は言葉がなかった。
「俺の実家は仙台の近くの町にあって、両親は農業をやっている。きみが治療を受けている間、きみとあずさちゃんは俺の実家の世話になればいいと思っている。それで俺は、今度の日曜日にきみたちを連れて実家に戻り、きみを結婚相手として紹介したいと考えている」
それを聞いたとたん、沙理奈は即座に首を振った。
「そんなことはできない。山室さんはあたしの生い立ちやこれまでの人生を知らないから、そんなことが言えるのよ」
そのあと沙理奈は、顔をうつむけるとつぶやくように言った。
「あたしの生い立ちやこれまでの人生を聞いたら、好きだって言ってくれた山室さんだって、きっと気持ちが変わってしまうと思う……」
「顔をあげて。俺を見て」
山室は、おずおずと顔をあげた沙理奈に向かって落ち着いた声で言った。
「俺はいまのきみが好きだ。きみの生い立ちもこれまでの人生も丸ごと受け入れるつもりだ。きみの生い立ちやこれまでの人生がどんなものであろうが、俺の気持ちが変わることはない……」
「ありがとう……」
沙理奈はつぶやいたあと、静かに話を始めた。
「あたしね、父親が誰だかわからないの……。母親は男関係が派手なひとで、高校を卒業するといろんな男をつき合っていて、そのうち誰かの子供を妊娠して……。それがあたしだったってわけ。だからあたしの戸籍には母親の名前しか入ってないの……。
あたしが生まれてからも、母親は自分の母親、あたしからすれば祖母だけど……、に預けっぱなしにしていろんな男と遊びまわっていたそうで、あたしは赤ん坊のときは祖母に育てられたの。
あたしが6歳になったとき、母親はトラック運転手をしている男と結婚して、あたしはようやく母親と一緒に暮らすことになったの。でも母親にとって、あたしなんか男遊びの最中に間違ってできた子供だったんで、あたしへの愛情なんてこれっぽちもなくて、『あんたなんか間違ってできた子供だ』とか、『あんたがいるから旦那に対して肩身が狭くて大変だ』とか言われ続けて……。
それでもその頃はまだごはんを食べさせてもらえたんだけど、そのうち旦那との間に子供が生まれてからは、ますますあたしが邪魔になったみたいで、ちょっとしたことで叩かれたり、ごはんも満足に食べさせてもらえなくなって……。
それであたしも9歳だったけど、さすがにこれでは殺されちゃうと思って、祖母のところに逃げ帰って、また面倒を見てもらうことになったの。
でもあたしが中学2年のときに祖母が死んじゃって、母親はあたしを引き取らないし、あたしも母親と暮らす気持ちはなかったから、結局は児童養護施設で暮らすことになったの……」
山室は何も言わずに沙理奈をじっと見つめていた。
「でも施設に入ったら、あたしよりももっとひどい扱いを受けた子たちもいてね。『あたしは祖母に可愛がってもらって、しつけもしっかりしてもらった分だけ幸せだったんだなあ』って思えたりしたんだ。
それに施設では高校にも行かせてくれてね。こう見えてもあたし、それなりに勉強もできたんだよ。
あたしは高校生のときから、早く自分でお金を稼いで自立したいって思っていたの。それで、施設のあっせんもあって、卒業と同時に東京にある小さな食品会社に就職することができて、念願の一人暮らしを始めたの。
その頃が一番楽しかったなあ。スズメの涙ほどのお給料だったけど、一人だったから何とか暮していけたし、何よりもほかの人に頼らずに生きていけるってことが幸せだって毎日思ってた……」
そう話す沙理奈は自然と笑顔になっていた。しかし沙理奈はすぐに笑顔を消して目を伏せた。
「会社に入って5年が経ったとき、あたしより10歳年上の係長が言い寄ってきたの。クリスマスイブにデートに誘われて、ホテルのレストランで、『きみが入社したときからきみのことが好きだった。僕は結婚しているけど、女房との仲はうまくいっていないので、女房と離婚してきみとやり直したい』って言われて。そいつは用意周到に花束まで用意しててね。
施設を出て幸せに飢えてた小娘は一発で陥落したわ。結婚している男がそんなに簡単に奥さんと別れるはずなんかないのにね」
沙理奈は自嘲気味に笑い声をあげた。
「その夜、そのホテルでそいつに抱かれたわ。それからそいつは週に2回はアパートに来てあたしを抱いたわ。そんな関係が1年近く続いたあと、妊娠していることがわかったの。
それまでもあたしは、抱かれるたびに、『いつ結婚してくれるの?』って訊いて、そいつは『慰謝料のことでもめてるんだ』なんて言ってたんだけど、妊娠した以上は絶対に結婚してくれると思って、あたしは強く結婚を迫ったの。
そしたらそいつはひどくあわてて、『子供ができた……? 僕は子どもができないように細心の注意を払ってたんだ。だから僕の子供のはずがない。きみはほかの男とも関係を持っていて、その男との子供を僕の子どもだと言ってるんじゃないか。そんなふしだらな女と結婚するなんて考えられない』ってまくし立てたわ。
そのときになってはじめて、そいつがあたしの身体だけを目当てに近づいてきたことにようやく気がついたわ。あたしはショックのあまりどうしていいかわからない状態だった。相談できる人は誰もいなかったし……。
でもそいつはもっとひどいことをあたしにしたの。翌日出勤したあたしは社長から呼び出しを受けた。『何だろう?』と思いながら社長室に行ったら、いきなり社長からこう言われたの。
『小川係長から聞いたんだが、きみは妊娠してるんだって? そして身に覚えのない小川係長に向かって、『あなたの子どもだから責任を取って結婚してください』って言ったそうだね。小川係長は大変困惑してたよ。『いろいろ苦労してきた子だけれど真面目で頑張る子だから、親身になって相談に乗ってきただけなのに』ってね。
そして社長は次にこう言ったわ。
『私は、父親がいない子供や施設にいた子供に一切偏見などは持っていないつもりだ。だからきみを雇い入れてそれなりに処遇をしてきたつもりだ。しかし結婚前にわけのわからない男とふしだらな関係を持って妊娠したあげくに、世話になっている小川係長に向かって、『お腹の子どもはあなたの子だ』なんて言う人間は、生い立ちに大きな問題があったと考えざるを得ない。私はこれ以上きみのような人間を雇っておくわけにはいかない』って……」
そのときの屈辱を思い出してか、沙理奈の目に涙が滲んだ。
沙理奈は涙を拭うと、眠っているあずさに目を向けた。
「お腹の子供は5か月目に入ったところだった。ぎりぎり中絶できる月数だったけど、どうしても中絶はできなかった。母親に捨てられたあたしが、今度は自分の子供を捨てるようなことはできなかったの……。
爪に火をともすようにして貯めた貯金が100万円あったので、そのお金とわずかばかりの退職金と失業保険で生活しながらあずさを産んだわ。
でも出産費用やあずさのミルク代やおむつ代、それから毎月のアパート代なんかを払ってたら、たちまちお金がなくなっていった。
それで働くところを探しはじめたけど、施設出身で学歴もない乳飲み子を抱えた女を雇ってくれるところなんてどこにもなかった。
困り果てたあたしは、『もう風俗しかない』って覚悟を決めて、スポーツ新聞なんかの求人広告で働くところを探すようになったけど、あずさのために本番だけはしたくないって思ってた。そしたら『お触りだけのお店。安心して働けます』という広告が出てたんで、面接を受けに行って採用になったのがあのお店だったの」
沙理奈が話している間、山室は黙ってじっと耳を傾けていた。
最後に沙理奈は小さく言った。
「そのうえ乳がんに
沙理奈が話し終わったあともしばらくの間、山室は黙ったままだった。