第15話

文字数 3,750文字

第3章 診断(その8)

 土曜日の銀座は午前中から人で賑わっていた。外国人の姿も数多く、さながら国際都市の様相を呈していた。
 有楽町駅から銀座に向かう間、あずさは絶えずあれこれ質問したり、興味を引かれたところに行こうとしたりして、かたときもおとなしくしていることがなかった。
「あずさ、もっといい子にしてね。そうじゃないとおじさんが疲れて大変でしょ」
 たびたび沙理奈が言って聞かせても、あずさの耳にはまったく入らないようだった。
「うん、わかってるよ。でもとっても楽しいんだもん」
 あずさは山室の手を握ったまま離すことがなかった。
 やがてお目当てのデパートが見えてきた。
「さてと、はじめにあずさちゃんの服を選びに行くか。終わったら食事をして、そのあとは沙理奈ママの服を選ぶことにしよう」
 山室の言葉にあずさは歓声をあげた。
 子供服売り場には、色やデザインが違う洋服が数多く飾られていた。それぞれのメーカーごとに目を引く洋服が飾ってあり、どれを選ぶかは至難の業だった。
 あずさは沙理奈に似て色白なので色を嫌わず、身体にあててみた服はどれもよく似合っていた。
「さて困ったぞ。あずさちゃんはどの洋服でもよく似合っているからなあ……」 
 ひととおり売り場を回ったあと山室が言った。
「純一さん、そんなに高いものでなくていいんだから」 
 すかさず沙理奈が言った。
「俺もサラリーマンだから贅沢はさせてあげられないが、あずさちゃんは生まれてはじめてデパートで洋服を買うんだ。そのときぐらいは値段を気にせずに一番似合う服を買ってあげようよ」 
 山室はそう言うと、あずさに向かって尋ねた。
「あずさちゃんはどれが一番気に入った?」
「あそこに飾ってあるお洋服……」
 あずさが指さしたのは、襟が白くてそのほかは赤いワンピースだった。
「あれはあずさちゃんによく似合うと思う」 
 山室はうなずいた。
「それじゃ試着させてもうおうか」
 売り場の店員はにこやかな笑顔を浮かべると、マネキンからワンピースをはずした。
 赤いワンピースを着たあずさはとても愛らしかった。
 あずさ自身もそう思ったようで、鏡の前でいろんなポーズをとってみせた。
「これにしていい?」 
 あずさは山室を見上げて言った。
「よく似合ってるよね?」と言って、山室は沙理奈を見た。
「うん、とてもかわいらしく見える」 
 沙理奈がうなずいた。
 有頂天になっているあずさを見ながら、沙理奈は山室に頭をさげた。
「すみません、2万円もするワンピースを買っていただいて」
 山室がさりげなく言った。
「俺は自分の娘に買ってあげるんだから、遠慮なんかしなくていい」
「自分の娘……?」 
 あまりに思いがけない言葉に、沙理奈はその意味をすぐには理解できないまま、呆然と山室の顔を見つめた。
 山室は、大きく見開かれた沙理奈の目を覗き込みながら続けた。
「実は、俺の親に会う前に話そうと思っていたんだけど……。きみが承知すれば、俺はあずさちゃんを養子にするつもりでいる。親子になればこの先いろんな場面でうまくいくと思うから」 
 沙理奈が激しく目をまばたかせた。
「トイレに行ってくる……」
 沙理奈がいきなり小走りに駆けだした。
「お腹の具合でも悪いのかな……?」
 その後ろ姿を見ながら山室は小首をかしげた。
 5分ほどして沙理奈は戻ってくると、手を引っ張って山室を客がいないところに連れていった。
「いきなりそんな大事な話をデパートでするなんて……。聞いたとき、あたし、うれしくて大泣きしそうだったけど、ようやく我慢したんだから……。でもトイレの中で泣いてきた……。あたし、あずさには幸せになってほしいってずっと思ってた。純一さんが父親になってくれるんだったら、あずさは絶対に幸せになれる。これであたし、乳がんで死ぬことになっても安心して死ねる……」
 山室は沙理奈の肩に手をおいた。
「死ぬなんてことを簡単に口に出しちゃいけない。石山先生も言ってたじゃないか、きみは治るって。松本先生のところには一番良い治療をしてもらうために行くんだ。俺は、きみが良くなったら、俺の子どもを産んでもらいたいと思っているんだ」
 沙理奈は目頭に手をやりながら何度もうなずいた。
「よし、これで午前中の買い物は終わったから、食事に行くとするか」
 三人はデパートの中にあるお好み焼き店に入った。
 沙理奈もあずさも焼きそばが入ったお好み焼きを食べるのは初めてで、あずさは、「こんなにおいしいものははじめて」と言って、夢中になって食べた。
 お好み焼き店を出たところで、山室が沙理奈に向かって言った。
「今度はきみの番だ。気に入ったものを買うといい」
 沙理奈は、生まれてはじめてお金のことを気にすることなくショッピングを楽しむことができた。フロアをくまなく回り、目にとまった服を手に取り、似合うかどうかを山室や店員に尋ねた。
 あれこれ試着した末に、沙理奈はブルーに花柄のワンピースと同じブルー系のジャケットを選んだ。
「落ち着いた色でよく似合ってるよ」 
 試着室から出てきた沙理奈に山室が声をかけた。
「ママ、とってもきれい」 
 あずさも目を輝かせて言った。
「純一さん、こんなに高いものを本当に買っていいの?」 
 沙理奈が遠慮がちに訊いた。
「ああ、もちろんだよ。あずさちゃんのと合わせても10万円までいってないんだ。十分予算の範囲内だ。それよりもきみたちは洋服に合う靴が必要だろう。それときみはハンドバッグも買わないと」
 沙理奈はあわてて手を振った。
「これ以上買ってもらうなんてとんでもない。純一さんに申し訳なくて」
 しかし山室は洋服の支払いを済ませると、さっさと靴売り場に向かった。
「純一さん、ほんとにもういいんだから」
 沙理奈が言っても、山室は、「靴が似合わなかったらせっかくの洋服も台無しになるから」と言って、どの靴がいいかを店員に尋ねはじめた。
 店員はにこやかにうなずくと、たちまち二人が買ったワンピースに似合う靴を取りそろえた。
「ほら、きみはおしゃれが好きなんだろ? せっかく素敵な靴をそろえたもらったんだ。好きなものを選んでくれ」 
 山室は沙理奈の背中を軽くたたいた。
 山室にそこまで言われて、沙理奈もようやく覚悟が決まったらしく、店員にあれこれ質問をしはじめた。
 あずさと二人で30分もかけて、沙理奈はワンピースと同じブルー系の靴を、あずさは赤い靴を買うことになった。
 そのあと山室がバッグ売り場に向かうと、沙理奈はもう何も言わずに熱心にハンドバッグを選びはじめた。

 翌日の日曜日、東京駅の新幹線ホームに山室たち三人の姿があった。
 赤いワンピースを着たあずさは、初めて新幹線に乗れると言って大はしゃぎだった。
「あたしも高校の修学旅行で乗って以来二度目なんだ」 
 ワンピースにジャケットをまとった沙理奈が言った。
「きみはどこの生まれなの?」 
「山梨。修学旅行で福岡に行ったときに乗っただけなの」
「そうか……、でもこれからは新幹線で、東京と仙台を往復することが多くなるかもしれないな」
 そのとき新幹線の車両がホームに入ってきた。
 あひるのくちばしのような先頭車両を見て、あずさは、「かっこいい」と言って大喜びだった。
 三人が乗り込んでまもなく車両はゆっくりと動き出した。
「今日と明日であたしのこれからの人生が決まるんだなって思ったら、少し緊張してきちゃった」
 三人席の真ん中に座った沙理奈がつぶやいた。
「きみの立場になれば誰だって緊張すると思う。今日と明日は俺たちにとって人生の正念場だと思って、二人で頑張って乗り切るしかない」
 宇都宮を過ぎたあたりから山が見えはじめ、緑が濃くなってきた。新白河を過ぎたあたりから、満々と水を湛え、その中に苗がきれいに植えられた田んぼが目に飛び込んできた。
「すごい、まるで湖の上を走ってるみたい……。東北ってきれいなところね……」 
 沙理奈が思わず声をあげた。
「うん、東北は自然が豊かだし、おコメはおいしいし、本当にいいところだ。東日本大震災ではたくさんの人がつらい目にあったけど、何とかそれを乗り越えて元の暮らしを取り戻そうとしているんだ。この一面の田んぼはその努力の結晶だよ」
 沙理奈は車窓に目をやったまましばらく黙り込んでいた。やがて静かに口を開いた。
「あたし、今まで自分が世の中で一番不幸な人間だと思っていたけど、そんなことはないんだよね。ずっと一人ぼっちだったあたしだけど、子供を持つことができて、今度は純一さんというパートナーを持つことができた。
 東日本大震災では、たくさんの人が命を失くしたり、家族を亡くしたりしたけど、あたしは増えるだけで失くしたものはないんだもの。純一さんのご両親にお会いするのも家族を増やすためなんだものね」
 沙理奈は左胸に手を当てながら続けた。
「ここを失くすかもしれないけど、生きていればこの先埋め合わせはできるものね」
 山室は、何度も何度も大きくうなずくと、沙理奈の手を強く握りしめて言った。
「きみを選んだ俺の目に狂いはなかった。胸を張ってきみのことを親に紹介できる」
 白石蔵王駅を通過してしばらくすると、新幹線は次第にスピードを落としはじめ、まもなく仙台駅に到着した。
 
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