第12話

文字数 4,224文字

第3章 診断(その5)

 やがて山室が口を開いた。
「生まれてからいままで、きみは何か悪いことをしてきたかい? きみは一度だって悪いことなんかしてきていない。親に関してはきみには何の責任もない。施設のことだって、お母さんが面倒を見ないから入っただけじゃないか。
 あずさちゃんのことだって悪いのは男の方だ。むしろきみは立派だ。お腹に宿した子供を一人で産んで一人で育てているんだから。風俗店で働いていることだって、生きて行くためには仕方がないじゃないか。まして乳がんに(かか)ったことなんか、いい、悪いの話じゃない」
 山室は沙理奈を抱き寄せた。
「意地悪な運命のせいできみは日陰ばかりを歩かされてきた。これからは世の中を胸を張って堂々と歩いていいんだ。でも一度隠し立てをすれば、それが負い目になって堂々と生きられなくなる。だから、これから俺たち二人が堂々と生きて行けるように、俺の両親には隠し立てをすることなくきみの生い立ちや人生のことを話すつもりだ」
 山室の腕の中で沙理奈の身体が激しく震えた。山室は、沙理奈が泣きやむまで静かに抱きしめていた。
 やがて顔を起こした沙理奈は、「顔を洗ってくる」と言って台所に立った。タオルで顔を拭きながら戻ってきた沙理奈は、山室の前に座ると言った。
「山室さんのご両親は結婚を認めてくれるかしら?」
「親には親なりの考え方があるだろうから、話してみないとわからない。ただ、両親は二人とも人の話を聞く耳は持っているひとなので、とにかく誠実に説明するつもりだ」
「ご両親が結婚を認めないって言ったときはどうするの?」
 山室が苦笑した。
「きみって意外と心配性なんだな」
 沙理奈がはにかんだようにうつむいた。
「うん、香澄ねえさんからもそう言われた……」
「もちろんきみと結婚するよ。俺の人生は誰のものでもない、俺自身のものだ。だから俺は、自分が好きだと思った(ひと)と結婚する」
 沙理奈は再び山室の胸に顔を寄せた。
「そんなふうに言ってもらってうれしい……。でもあたしのどこを好きになったの……?」
 山室は沙理奈の髪を撫でながら言った。
「きみは可愛い……。そしてやさしくて思いやりがある……。店できみと初めて話したときにすぐにわかった……。きみはいつもあずさちゃんのことを考えて大切にしている……。だから好きになった……」
 沙理奈の目が閉じられ、山室は彼女の唇に唇を重ねた。
 山室が唇を離すと、沙理奈がささやいた。
「山室さんと離れたくない……。ずっと一緒にいたい……」
「それならこれから俺のところに行こう。まだ8時半だし。きみは着替えとか化粧道具とか身の回りの物を持っていけばいい」
「でもあずさが眠っちゃってる……」
「タクシーを呼べばいい」

 山室が住んでいるマンションは、大塚駅から歩いて10分のところにあった。7階建ての5階に山室の部屋はあった。
「男の一人住まいで片付いてないけど、とりあえず入って」
 山室に促されて沙理奈は中に入った。
 玄関を入ってすぐ左手に4畳半の部屋があり、そこが山室の寝室だった。右手にはトイレと浴室があり、突き当たりがダイニングキッチン、その右に6畳の部屋があった。
 沙理奈がつぶやいた。
「きれいなお部屋……。こんなお部屋に住んでみたいと思ってた……」 
「今日からはきみが自由に使っていいんだ。とりあえず俺のベッドにあずさちゃんを寝かしておくか……。これからきみはそのベッドを使うといい。セミダブルなんで、きみとあずさちゃんなら十分な広さだと思う。寝る前にはシーツとか枕は取り替えるから」
 あずさをベッドに置いてリビングに戻ってきた山室に、沙理奈がそっと身体を寄せた。
「なんか新婚旅行でここに来ているような気がする……。あたし、今夜を新婚旅行の初夜にしたい……」
 山室は沙理奈の顔をじっと見つめた。
「俺もきみを抱きたいと思っている。でも今日はショックなことがあったし、疲れてるんじゃないか?」
「ううん、今夜抱いてもらいたい。抱いてもらって山室さんの愛情を身体で確認したい。それに……、山室さんに、左のおっぱいがなくなる前のあたしの身体を見ておいてほしい……」
 山室は沙理奈の左胸を見つめたあと静かに言った。
「……、わかった。今夜を結婚の初夜にしよう……」

 先に風呂から上がった山室は、ふとんに横になって浴室から出てくる沙理奈を待っていた。
(あのときからもう8年も経ったのか……)
 沙理奈を待ちながら、山室は最後にセックスをしたのはいつだったろうかと考えていた。
 
 妻の佐和子の右の乳房の全摘手術の日取りが決まった夜、佐和子が思いつめた顔で山室にせがんだ。
「あなたに、右のおっぱいがなくなる前のわたしの身体を覚えていてほしい。そして壊れるくらい強く抱いてほしい」
 いつもは明かりを消した中でのセックスを好む佐和子だったが、そのときは違った。
 明かりを消そうとした山室に、「あなたに、あたしのおっぱいを見てもらいたいの」と言って、明るい中でのセックスをせがんだ。
 山室は、()えそうになる自分を奮い立たせて、佐和子と身体を合わせた。自分の動きに合わせて揺れ動く佐和子の右の乳房を見ながら、山室は涙が止まらなかった。佐和子の目からも涙が滝のように流れ落ちていた……。

 山室は目を閉じて首を振った。
(今夜を8年前のあのような悲しいものにしてはいけない……)
「山室さん……」と呼ぶ声で山室は目を開けた。
 山室のパジャマの上だけを羽織った沙理奈が立っていた。
「眠ったかと思っちゃった……」
「初夜のときに何もしないで眠る男なんているものか。もしいたら、そんな男とはさっさと別れた方がいい」
 山室は起き上がると、沙理奈を抱き寄せた。
「よし、お姫様だっこをしてあげよう」と言うや、山室は沙理奈を横抱きにしてそっと布団に横たえた。
「明かりを消した方がいいね……」
 沙理奈が小さくうなずいた。
 山室は目を閉じている沙理奈にそっとキスすると、静かにパジャマのボタンをはずした。沙理奈の白い裸身が浮かび上がった。
「きれいな身体だ……」
 沙理奈が目を開けた。
「でも左のおっぱいが……」
「そんなことをいま考えなくていい。今夜は俺ときみとの初夜なんだ。俺に抱かれることだけを考えればいいんだ」
 山室は沙理奈の左の乳房に手を這わせていった……。

 フライパンのジューという音で山室は目を覚ました。上半身を起こすと、キッチンで料理する沙理奈の姿が目に入った。
「あれ、きみ、どうしてそこにいるんだい?」
 沙理奈が笑顔を見せた。
「今日から奥さんのまねごとをしようと思って。朝ごはんをつくってるの」
「材料はあった?」
「冷蔵庫を開けさせてもらったら、玉子とハムときゅうりがあったのでハムエッグをつくってる。それとパンに紅茶」
「それはすごい。きみは料理が得意なの?」
 フライパンから目を離すことなく沙理奈が言った。
「上手かどうかはわからないけど、ずっと貧乏暮らしできたから、自然と料理をするようになったの」
「いま何時?」
「もうすぐ6時半」
「それじゃ、そろそろあずさちゃんを起こしてくるか」
 山室は大きく伸びをしながら起き上げると、あずさが寝ている部屋に向かった。
 まもなく、「あれー、おじさんがいる。ここ、おうちと違う」というあずさの声が聞こえ、バタバタという足音とともにあずさがキッチンに駆け込んできた。
「ママ、ここはどこ?」
「山室のおじさんのおうち」
「どうしてここにいるの?」
 沙理奈は料理の手を止めると、あずさの顔がよく見えるようにしゃがみ込んだ。
「あのね、ママはおじさんと結婚することになったの。それで今日からおじさんのおうちで暮らすことになったの」
「ここだとママとおじさんとずっと一緒にいられるの?」
「そうだよ」
 あずさが歓声を上げてキッチンのまわりを飛び跳ねた。
「こら、あずさ、ママはお料理をしてるんだから飛び跳ねるのはやめなさい」
 山室がやってきて、あずさをさっと抱き上げた。
「さあ、顔を洗ってお着替えをしようか」
 あずさを洗面所につれていった山室は、かいがいしくあずさの面倒を見はじめたようだった。
「きれいに顔を洗うんだよ」
「うん」
「はい、タオル」
「おじさん、ありがとう」
「スカートを持ってきてあげるからね」
「うん」
 山室とあずさの会話を聞くうちに、沙理奈の目に涙が浮かんできた。沙理奈はエプロンで懸命に涙を拭いながら料理をテーブルに並べた。
「これは朝からすごいご馳走だ」 
 山室はテーブルを見るなり声をあげたあと、「あずさちゃん用のイスがないんで、今日の朝はおじさんと一緒に食べよう」と言ってあずさを膝に乗せた。
 そして沙理奈がイスに座ったのを見届けると元気よく言った。
「さあ、俺たちが家族になって初めて食べるごはんだ」

 クローゼットの鏡の前でネクタイを結びながら、山室はそばに立っている沙理奈に言った。
「今日、仕事の合間に宮城医大に電話をして、来週の月曜日の診察が可能かどうかを確認するつもりだ。診てもらえるとなったら、日曜日に俺の両親に会いに行こうと思う」
「うん、山室さんの言うとおりにする」
 山室は上着を羽織ると、ポケットから鍵を取り出した。
「部屋の鍵を渡しておくから」
「ありがとう」
 そのあと山室は内ポケットから財布を取り出すと、その中から10万円を抜き出した。
「これは当面の生活費。きみに家計のきりもりをお願いするから」
「10万円なんて多すぎる……」 
 沙理奈は手渡されたお金に目を落として言った。
「だったらあずさちゃんに服を買ってあげればいい……」
 そう言ったあと、山室は沙理奈の肩に手をおいた。 
「それから今日中にアパートと託児所の契約を打ち切る手続きをするように……」
「はい、わかりました。山室さん、本当にありがとう」
 山室は笑いながら沙理奈の頬に軽くキスをした。
「もう他人じゃないんだから、山室さんって呼ぶのはおかしいぞ。それじゃ行ってくるから。帰りは遅くならないと思う」
 沙理奈は頬をほんのりと赤らめると、小さな声で言った。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み