第6話
文字数 3,545文字
第2章 健康保険証(その2)
山室と沙理奈は、あずさの足にあわせてゆっくりと歩いた。
あずさは、大通りでは沙理奈の手だけを握っていたが、裏の路地に入ると、二人の間に入って山室と沙理奈の手を握った。そのあとあずさは、二人の手を握ったままで両足を地面から浮かせた。
「ちょっと、あずさ、重いでしょ」
思わず沙理奈が声を上げた。
「ママは女だから力がないんだって」
山室は、甘えたい素振りのあずさを見てしゃがみ込んだ。
「そのかわりおじさんが肩車をしてあげようか」
そう言うなり、山室はあずさを肩に乗せて立ち上がった。
「すごーい! 遠くの方まで見えるよ! あずさ、ママより背が高いよ!」
2メートル近い高さから見える景色に、あずさは歓声を上げると、両手をパチパチと叩いた。
そんなあずさの様子を見て、沙理奈はさびしげな笑みを浮かべたあと、山室に声をかけた。
「すみません。重くないですか……?」
「全然。それよりも肩車ぐらいでこんなに喜んでもらえるなんて感激だよ」
「男の人に肩車をしてもらうのは初めてなんです……。あずさには父親がいないものだから……」
「…………」
小さく言った沙理奈の横顔を、山室は黙って見つめた
そのときあずさが、山室の頭の上で叫んだ。
「あっ! ママがお仕事してるお店が見える!」
あずさの指さす方向に、一軒のコンビニが見えた。
「へえー、きみは昼間も働いてるんだ……」
山室からしげしげと見つめられて、沙理奈はわずかに頬を染めた。
「……、お店のお給料だけでは生活が苦しくて……」
「そうか……、それは大変だ……」
コンビニを見ながら、山室はぼそっとつぶやいた。
コンビニを通り過ぎて100メートルほど歩いたところに公園があった。ブランコが2つに、2メートルの高さのすべり台、それに大人が二人座れるだけのベンチが置いてある小さな公園だった。
山室があずさをおろすと、あずさはブランコめがけて一目散に走って行った。
そんなあずさを見ながら、沙理奈と山室はベンチに腰をおろした。
「それで相談って?」
少しの間、沙理奈は自分の手もとを見つめたまま口を開かなかった。やがてこわばった顔をあげると、視線をあずさの方に向けたまま、ささやくような声で言った。
「……、恥ずかしい話なんですけど……、お金を貸してほしいんです……。お金がなくて……、保険料を払えなくて……、保険証を持ってないんです……。だから医者に行きたくても行けなくて……」
二人の間に沈黙が流れた。あたりにはあずさのはしゃぐ声だけが響いていた。
しばらくして、山室がぼそっと言った。
「事情もよくわからずに、『早く医者に診てもらえ』なんて、無神経なことを言って悪かった……」
沙理奈はうつむいたまま小さく顔を振った。
「ううん……、あんな店で、あたしらのような女のおっぱいを触って、あんな小さなしこりを見つけてくれる男なんて誰もいない……。
それを山室さんは見つけてくれて、そのうえ親切に『医者に診てもらえ』って言ってくれたんだから、あたしはすごく感謝してる……。
保険証ぐらい持ってるのが普通ですよね……。普通じゃないあたしが悪いんです……」
山室は淡々とした口調で言った。
「何が普通で、何が悪いかはわからないけど、きみは遊んで暮らしてるわけじゃなくて、昼も夜も頑張って働いているんだろう? それでも保険料が払えないんだったら、借りるしか方法はないだろうな。
高利貸しなんかじゃなくて、俺に言ってくれてよかった。わかった。利息なし、返済期限なしでお金を貸そう。それでいくら融通すればいいのかな?」
山室の言葉に、沙理奈の緊張が一気に解けたようだった。
沙理奈は大きく息を吐いた。
「ありがとうございます……。60万円あれば何とかなると思います……。借りたお金は一度には返せないけど、何回かに分けて必ずお返しします」
山室は、沙理奈の顔を覗き込みながら強い口調で言った。
「そんなことより、一刻も早く保険証の交付を受ける必要がある。あさっての月曜日の午後1時に区役所で待ち合わせをしよう。俺も午後休みを取って一緒に窓口に行く。そのとき俺が保険料を納付しよう」
「あたしのためにそんなに親切にしてくれるなんて……」
思いがけない申し出に、沙理奈は弾かれたように顔をあげると、感謝に満ちた目で山室を見つめた。
「医者に診てもらえって言ったのは俺だからな。それにきみにはあんなに可愛いあずさちゃんがいる。俺はあずさちゃんのために一肌脱ぐことにすることにしよう」
そう言ったあと、山室はポケットから携帯電話を取り出した。
「この先、きみと連絡を取ることがあるかもしれないんで、きみの携帯の電話番号を教えてもらいたいんだけどな……。電話番号を教えてもらったからといって、きみに迷惑をかけることはしないから」
沙理奈は黙ってうなずくと、色あせたピンク色のハンドバッグから携帯電話を取り出した。そして画面に電話番号を表示させると、それを山室に差し出した。
沙理奈の電話番号を保存し終えたところで、山室が言った。
「ところで、立ち入ったことを聞くようで悪いが……」
山室は、すべり台の方に移動したあずさを目で追いながら言葉を続けた。
「きみは、夕方から夜遅くまであの店で働いてるけど、その間あずさちゃんはどうしてるの?」
沙理奈も、すべり台を元気よくすべりおりてくるあずさを見つめた。
「託児所に預けてる……。託児所っていったって、風俗店のオーナーがやってて、マンションの一室で子どもたちを預かってるだけで、おもちゃも遊び場所も何にもないところだけど……。
それでも1か月で10万円近くもかかってしまうの。でもそんなところでも子供を預けないと働いていけないから……」
「…………」
山室は黙ったまま、すべり台から降りてくるあずさを見つめた。
「あずさは小さいけど、そのへんのことをわかってるみたいで、託児所に行きたくないなんて絶対に言わないの……。それに迎えに行ったときも必ず起きて待ってるし……。あずさには申し訳ないっていつも思ってる……」
「…………」
山室は、沙理奈の白い横顔を見つめた。
「お金を貸してくれる人に、こんな身の上話を聞かせちゃってごめんなさい……」
山室が何か言おうと口を開きかけたとき、あずさが二人のところに飛んできた。
「ママもおじさんもあずさと一緒に遊ぼうよ! あずさ、ブランコを押してもらいたいな!」
「よし!」
山室は立ち上がってあずさの手を取った。
「背中を押してあげよう!」
山室が背中を押すたびに、あずさは歓声をあげながら、より高い場所を目指して必死に両足を前に突き出した。
それを50回ほど繰り返したところで、とうとう山室が音を上げた。
「これでおしまいにしよう。おじさんはへとへとだ」
あずさは、息を弾ませ、ほっぺたを紅潮させながら山室を見上げた。
「じゃあ、こんどはすべり台に行こうよ!」
「あずさ、おじさんにあまりわがままを言わないの。おじさんは疲れたって言ってるんだから。それにそろそろ託児所に行く準備をしないとね」
沙理奈の言葉を聞いたとたん、あずさの顔から急速に輝きが消えていった。
あずさは下を向いたままブランコから飛び降りた。
そんな様子のあずさに、山室が声をかけた。
「今日はおじさんと一緒におうちにいて、ママが帰ってくるのを待ったらどうかな?」
それを聞いたあずさの顔が再び輝きだした。
そのとき、沙理奈が小さな声で言った。
「山室さん、楽しいことはここまでにしましょうよ。気持ちはうれしいけど、あたしたちはこれから先も二人っきりで生きていくしかないの。山室さんが楽しいことを教えすぎたら、そのあとあずさはよけいにかわいそうになってしまうもの……。
あずさには悪いけど、母子が二人で生きていく先には、楽しいことなんかないってことを教える必要があるの……」
沙理奈はあずさの手を取った。
「山室さん……、最後に生意気なことを言ってごめんなさい……。
でも今日はほんとに楽しかった。とくにあずさにとっては、生まれてから一番楽しい一日だったと思います。あずさと一生懸命遊んでくれてありがとうございます。それじゃ月曜日に区役所で待っていますから、よろしくお願いします……」
沙理奈は深々と頭をさげると、山室に背を向けて歩き出した。
あずさも手を取られて歩き出したが、何度も何度も山室の方を振り返り、公園の出口のところで大きな声で叫んだ。
「おじさん! また遊んでね!」
山室と沙理奈は、あずさの足にあわせてゆっくりと歩いた。
あずさは、大通りでは沙理奈の手だけを握っていたが、裏の路地に入ると、二人の間に入って山室と沙理奈の手を握った。そのあとあずさは、二人の手を握ったままで両足を地面から浮かせた。
「ちょっと、あずさ、重いでしょ」
思わず沙理奈が声を上げた。
「ママは女だから力がないんだって」
山室は、甘えたい素振りのあずさを見てしゃがみ込んだ。
「そのかわりおじさんが肩車をしてあげようか」
そう言うなり、山室はあずさを肩に乗せて立ち上がった。
「すごーい! 遠くの方まで見えるよ! あずさ、ママより背が高いよ!」
2メートル近い高さから見える景色に、あずさは歓声を上げると、両手をパチパチと叩いた。
そんなあずさの様子を見て、沙理奈はさびしげな笑みを浮かべたあと、山室に声をかけた。
「すみません。重くないですか……?」
「全然。それよりも肩車ぐらいでこんなに喜んでもらえるなんて感激だよ」
「男の人に肩車をしてもらうのは初めてなんです……。あずさには父親がいないものだから……」
「…………」
小さく言った沙理奈の横顔を、山室は黙って見つめた
そのときあずさが、山室の頭の上で叫んだ。
「あっ! ママがお仕事してるお店が見える!」
あずさの指さす方向に、一軒のコンビニが見えた。
「へえー、きみは昼間も働いてるんだ……」
山室からしげしげと見つめられて、沙理奈はわずかに頬を染めた。
「……、お店のお給料だけでは生活が苦しくて……」
「そうか……、それは大変だ……」
コンビニを見ながら、山室はぼそっとつぶやいた。
コンビニを通り過ぎて100メートルほど歩いたところに公園があった。ブランコが2つに、2メートルの高さのすべり台、それに大人が二人座れるだけのベンチが置いてある小さな公園だった。
山室があずさをおろすと、あずさはブランコめがけて一目散に走って行った。
そんなあずさを見ながら、沙理奈と山室はベンチに腰をおろした。
「それで相談って?」
少しの間、沙理奈は自分の手もとを見つめたまま口を開かなかった。やがてこわばった顔をあげると、視線をあずさの方に向けたまま、ささやくような声で言った。
「……、恥ずかしい話なんですけど……、お金を貸してほしいんです……。お金がなくて……、保険料を払えなくて……、保険証を持ってないんです……。だから医者に行きたくても行けなくて……」
二人の間に沈黙が流れた。あたりにはあずさのはしゃぐ声だけが響いていた。
しばらくして、山室がぼそっと言った。
「事情もよくわからずに、『早く医者に診てもらえ』なんて、無神経なことを言って悪かった……」
沙理奈はうつむいたまま小さく顔を振った。
「ううん……、あんな店で、あたしらのような女のおっぱいを触って、あんな小さなしこりを見つけてくれる男なんて誰もいない……。
それを山室さんは見つけてくれて、そのうえ親切に『医者に診てもらえ』って言ってくれたんだから、あたしはすごく感謝してる……。
保険証ぐらい持ってるのが普通ですよね……。普通じゃないあたしが悪いんです……」
山室は淡々とした口調で言った。
「何が普通で、何が悪いかはわからないけど、きみは遊んで暮らしてるわけじゃなくて、昼も夜も頑張って働いているんだろう? それでも保険料が払えないんだったら、借りるしか方法はないだろうな。
高利貸しなんかじゃなくて、俺に言ってくれてよかった。わかった。利息なし、返済期限なしでお金を貸そう。それでいくら融通すればいいのかな?」
山室の言葉に、沙理奈の緊張が一気に解けたようだった。
沙理奈は大きく息を吐いた。
「ありがとうございます……。60万円あれば何とかなると思います……。借りたお金は一度には返せないけど、何回かに分けて必ずお返しします」
山室は、沙理奈の顔を覗き込みながら強い口調で言った。
「そんなことより、一刻も早く保険証の交付を受ける必要がある。あさっての月曜日の午後1時に区役所で待ち合わせをしよう。俺も午後休みを取って一緒に窓口に行く。そのとき俺が保険料を納付しよう」
「あたしのためにそんなに親切にしてくれるなんて……」
思いがけない申し出に、沙理奈は弾かれたように顔をあげると、感謝に満ちた目で山室を見つめた。
「医者に診てもらえって言ったのは俺だからな。それにきみにはあんなに可愛いあずさちゃんがいる。俺はあずさちゃんのために一肌脱ぐことにすることにしよう」
そう言ったあと、山室はポケットから携帯電話を取り出した。
「この先、きみと連絡を取ることがあるかもしれないんで、きみの携帯の電話番号を教えてもらいたいんだけどな……。電話番号を教えてもらったからといって、きみに迷惑をかけることはしないから」
沙理奈は黙ってうなずくと、色あせたピンク色のハンドバッグから携帯電話を取り出した。そして画面に電話番号を表示させると、それを山室に差し出した。
沙理奈の電話番号を保存し終えたところで、山室が言った。
「ところで、立ち入ったことを聞くようで悪いが……」
山室は、すべり台の方に移動したあずさを目で追いながら言葉を続けた。
「きみは、夕方から夜遅くまであの店で働いてるけど、その間あずさちゃんはどうしてるの?」
沙理奈も、すべり台を元気よくすべりおりてくるあずさを見つめた。
「託児所に預けてる……。託児所っていったって、風俗店のオーナーがやってて、マンションの一室で子どもたちを預かってるだけで、おもちゃも遊び場所も何にもないところだけど……。
それでも1か月で10万円近くもかかってしまうの。でもそんなところでも子供を預けないと働いていけないから……」
「…………」
山室は黙ったまま、すべり台から降りてくるあずさを見つめた。
「あずさは小さいけど、そのへんのことをわかってるみたいで、託児所に行きたくないなんて絶対に言わないの……。それに迎えに行ったときも必ず起きて待ってるし……。あずさには申し訳ないっていつも思ってる……」
「…………」
山室は、沙理奈の白い横顔を見つめた。
「お金を貸してくれる人に、こんな身の上話を聞かせちゃってごめんなさい……」
山室が何か言おうと口を開きかけたとき、あずさが二人のところに飛んできた。
「ママもおじさんもあずさと一緒に遊ぼうよ! あずさ、ブランコを押してもらいたいな!」
「よし!」
山室は立ち上がってあずさの手を取った。
「背中を押してあげよう!」
山室が背中を押すたびに、あずさは歓声をあげながら、より高い場所を目指して必死に両足を前に突き出した。
それを50回ほど繰り返したところで、とうとう山室が音を上げた。
「これでおしまいにしよう。おじさんはへとへとだ」
あずさは、息を弾ませ、ほっぺたを紅潮させながら山室を見上げた。
「じゃあ、こんどはすべり台に行こうよ!」
「あずさ、おじさんにあまりわがままを言わないの。おじさんは疲れたって言ってるんだから。それにそろそろ託児所に行く準備をしないとね」
沙理奈の言葉を聞いたとたん、あずさの顔から急速に輝きが消えていった。
あずさは下を向いたままブランコから飛び降りた。
そんな様子のあずさに、山室が声をかけた。
「今日はおじさんと一緒におうちにいて、ママが帰ってくるのを待ったらどうかな?」
それを聞いたあずさの顔が再び輝きだした。
そのとき、沙理奈が小さな声で言った。
「山室さん、楽しいことはここまでにしましょうよ。気持ちはうれしいけど、あたしたちはこれから先も二人っきりで生きていくしかないの。山室さんが楽しいことを教えすぎたら、そのあとあずさはよけいにかわいそうになってしまうもの……。
あずさには悪いけど、母子が二人で生きていく先には、楽しいことなんかないってことを教える必要があるの……」
沙理奈はあずさの手を取った。
「山室さん……、最後に生意気なことを言ってごめんなさい……。
でも今日はほんとに楽しかった。とくにあずさにとっては、生まれてから一番楽しい一日だったと思います。あずさと一生懸命遊んでくれてありがとうございます。それじゃ月曜日に区役所で待っていますから、よろしくお願いします……」
沙理奈は深々と頭をさげると、山室に背を向けて歩き出した。
あずさも手を取られて歩き出したが、何度も何度も山室の方を振り返り、公園の出口のところで大きな声で叫んだ。
「おじさん! また遊んでね!」