第2話

文字数 3,188文字

第1章 しこり(その2)

 営業が終わった店内で、10人ほどのベビードレス姿の女が忙しく立ち働いていた。
 ある者はグラスを運び、ある者はテーブルを拭き、ある者は床に掃除機をかけていた。
 そんな中で、ひとり沙理奈(さりな)だけが仕事の手を休めて、自分の左の乳房を触っていた。
「こら! ジャスミン! じゃなくて沙理奈! さぼってないでちゃんと掃除しなさい。みんなでやらないと早く帰れないでしょ」
 リーダー格の香澄(かすみ)の少しとんがった声がした。
「あっ、香澄ねえさん、ごめんなさい」
 沙理奈はあわてて乳房から手を離すと、目の前のテーブルを拭きはじめた。
 香澄は、沙理奈が拭きはじめたテーブルの上のグラスをトレーに乗せながら言った。
「今日のあんた、少し変だよ。心配事でもあるの?」
 沙理奈は上目づかいで香澄を見た。
「うん……。今日ついたお客さんから変なことを言われちゃったんだ……。それでちょっとね……」
「ふーん。あたしでよかったら、掃除が終わったあとで話を聞いてあげてもいいよ」
 沙理奈はぺこりと頭をさげた。
「ねえさん、ありがとう。たいした話じゃないんだけど、ねえさんに話せば少しすっきりするかな……。じゃ、休憩室で話を聞いてもらえる?」
「ああ、いいよ」
 仕事が終わった女たちは、更衣室から飛び出すようにして家路を急いでいった。
 そんな女たちを見ながら沙理奈と香澄は更衣室のとなりにある休憩室に向かった。
 休憩室といっても、4畳半の畳の部屋に小さな四角いテーブルと座布団がいくつか置いてあるだけだった。
「ねえさん、遅くしてごめんね」
 部屋に入るや、沙理奈が正座をして頭をさげた。
「あんただって子供を託児所に預けてるんだから、早く帰らなきゃいけないんでしょ。そんな前置きはいいから何があったか話してごらん」
「今日ついたサラリーマン風の人なんだけど、あたしの左のおっぱいを触ってたら、いきなりしこりがあるって言ったんだ。そして自分でも触ってみろって……。
 それで触ってみたら、小さいけどたしかにしこりがあったんだ。そしてその人は、早く医者に診てもらえって言ったんだ」
「しこり……?」
 香澄は少し眉をひそめた。そして沙理奈の左胸に手を伸ばした。
「ちょっと触らせて……」
 香澄は沙理奈のTシャツをまくり上げ、ブラジャーを押し上げたあと、沙理奈が指さしたところをゆっくりと触っていった。
 香澄の手が止まった。
「小さいけどたしかにしこりがあるね……。でもその男の人、よく見つけたね……」
 沙理奈は、香澄の手を見つめながらうなずいた。
「うん……。だからあたしも心配になっちゃってね」
 香澄は、沙理奈の左胸から手を離しながら言った。
「ところであんた、年はいくつだった?」
「29。今度の12月がくれば30……」
 めくれたTシャツをなおす沙理奈を見ながら、香澄は冷やかすように言った。
「若く見えるけど、けっこう年がいってたんだ」
 沙理奈はちょっと口を尖らせた。
「ねえさん、そんなこと言わないでよ。4歳になる娘がいるんだよ。それくらいの年になってるよ」
 香澄は、沙理奈をなだめるように頭を軽くたたいた。
「そうか……。でも30前だったら……、乳がんなんてことはないと思うな。がんってある程度年がいった人がかかる病気じゃないか。
 あたしなんかはもうすぐ36だろ。そのくらいの年になれば乳がんの心配をしなくちゃいけないと思うけどさ。ただ、心配だったら医者に診てもらった方がいいんじゃないか。安心料だと思ってさ」
「うん……。わかった……。ねえさんに話したら少しすっきりしたわ。ごめんね、遅くさせちゃって……」
 そう言って頭をさげる沙理奈に向かって、香澄は明るく言った。
「そんなに気にしなくていいよ。あたしなんか、家に帰ったって待ってる人なんていやしないんだから気楽なものよ。それよりあんた、急がないと夜中の1時になっちまうよ。早く娘を迎えに行ってやりなよ」
 
 沙理奈は、娘のあずさが待つベビーホテルへの道を急いだ。
 そのベビーホテルは、沙理奈が働く界隈の一角にある古びたマンションの2階の3DKの一室で、ある風俗店のオーナーが経営していた。
 子持ちの女でも安心して働けるために設置したと銘打ってはいるが、実のところは働き手の女の確保と、その女たちから金を吸い上げることがその大きな目的となっていた。
 そのため、満足な保育の設備などはなく、子どもが眠れるように部屋一面に布団が敷かれているだけだった。そのうえ、アルバイトの女が一人で20人の子どもの世話をしており、子どもたちにとってはけっして居心地のいい場所ではなかった。
 沙理奈は息を切らせながらドアの呼び鈴を押した。しばらくしてドアの鍵をはずす音がして、「キーッ」という音とともにドアが開いた。中から眠そうな目をした50歳くらいの女が顔を出した。
「竹井……、竹井あずさの母親だけど……」
 沙理奈の言葉に、女は無言のまま廊下の壁に身体を寄せた。
 沙理奈はそのわきをすり抜けて奥の8畳間に向かった。そこには0歳から5歳までの8人の子どもがいた。
 蛍光灯は煌々(こうこう)と灯っていたが、深夜の1時を大きく回った時間ということもあって、大半の子供は布団に横になって眠っていた。
 そんな中にあって、上下赤のジャージを着たおかっぱ頭の女の子だけが布団の上に起き上がって、膝の上に開いた絵本を眺めていた。
「あずさ……」
 他の子を起こさないように沙理奈は小さく呼びかけた。
 女の子はさっと頭を上げると、たちまち顔いっぱいに笑顔を浮かべた。
 あずさは、ばね仕掛けの人形のようにパッと立ち上がると、無言で沙理奈のジーンズの太腿にしがみついてきた。
「遅くなってごめんね……」
 沙理奈は絵本をしまうため、あずさにいつも持たせているナップザックの口を開いた。おやつにと入れておいたジュースとスナック菓子は手つかずだった。
「おやつ、食べなかったの?」
 あずさはこっくりとうなずいた。
「……。急いでおうちに帰ろうね……」
 その言葉に、あずさは沙理奈の足から手を離すと、小走りで玄関に向かって行った。
 マンションのわずかばかりのスペースの駐輪場に沙理奈は自転車を置いていた。その後部の幼児座席にあずさを座らせると、ナップザックからヘルメットを取り出しておかっぱ頭にかぶせ、シートベルトであずさの身体を固定した。
 沙理奈が借りているアパートは、自転車で10分ほどのところにあった。この10分間のサイクリングが母娘にとって一番心がなごむ時間だった。
 ペダルを漕ぐ足に力を込めながら、沙理奈は肩越しにあずさに声をかけた。
「ねえ、あずさ。いつも起きて待ってなくていいんだよ。眠いときは寝てていいんだからね」
「……。ママが迎えに来るまでは起きてるって決めたんだもん。だから全然眠くないよ」
 あずさの細い腕が一段と強く沙理奈の腰にまわされた。
 切ない思いが沙理奈の胸に突き上げてきた。こみ上げてきたものを振り払うように、沙理奈は再び声をかけた。
「ママを待ってる間におなかがすいたら……、おやつを食べていいんだからね……」
「……。ママと一緒じゃないとおなかがすかないんだもん」
 あずさの顔が背中に強く押し当てられるのを感じた。
 涙でぼやける夜道を一刻でも早くアパートに帰ろうと、沙理奈は力いっぱいペダルを漕いだ。 
 まもなく自転車は古ぼけた2階建てのアパートに着いた。シートベルトをはずして地面に下ろすや、あずさはヘルメットをかぶったまま2階への階段を一目散に昇っていった。
 そんな娘の姿を見ながら、沙理奈は左の乳房にそっと手をやった。
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