第3話

文字数 3,299文字

第1章 しこり(その3)

 それから1週間が過ぎた日のことだった。
 その日の沙理奈は、夕方の5時から10時半まで指名の客の予約がびっしりと入っていた。
 ようやく10時半までの客が帰り、休憩室で一息ついたときだった。
 休憩室のドアがノックされ、茶髪で耳にピアスを付けた兄ちゃん風の店員が顔を出した。
「ジャスミンさんをご指名のお客さんが来てるんですけど……。10時45分からで大丈夫ですか?」
「ご指名なの……? それじゃ仕方ないわね。オーケーよ」
 沙理奈の返事を聞くと、兄ちゃん風の店員は顔を引っ込めてすぐにドアを閉めた。
 沙理奈は飲みかけのコーヒーを急いで飲み干すと、更衣室の隅にあるシャワー室に飛び込んで、シャワーでざっと身体を洗い流した。それから手早くパンティーをはき、いつものベビードレスをまとうと客室フロアに向かった。
 沙理奈の姿を見つけた兄ちゃん風の店員が、10番と書かれた席に彼女を案内した。
「いらっしゃいませ……」と言いながら、沙理奈はいつもの習慣で、どんな客かを確認するために視線を走らせた。
 顔をあげた客を見て沙理奈は驚いた。
「お客さんは……、この前あたしのおっぱいを触ってしこりがあるって言ったお客さん……?」
 山室がうなずいた。
「きみって人気があるんだね。もっと早い時間にって思ってたけど、指名が入っていると言われてさ。2時間も待たされたよ。いやあ、待合室で待っている間、他の客と顔を合わせるのが恥ずかしくてまいったよ」
「今日はたまたま予約が重なってただけで、いつもはこんなんじゃないんだよ」
 沙理奈は山室のそばに腰をおろした。
「ところで今日はどんな用でここに来たの……?」と言いかけて、沙理奈は笑い出した。
「いやねえ、あたしったら。この前お客さんに説教したんだよね。ここは女のおっぱいを触る店だって……。今日はあたしのおっぱいを触りに来てくれたんだよね?」
 しかし、山室はわずかに笑いを浮かべただけで、すぐに真面目な目つきで沙理奈の顔を見た。
「この前の話の続きをしに来たんだ」
 山室の方に身体を寄せながら、沙理奈は笑顔をつくった。
「あたしの左のおっぱいのしこりのこと? あれなら大丈夫だよ」
「医者から大丈夫だって言われたのか?」
 顔を覗き込んできた山室の目を避けるように、沙理奈は大きく首を振った。
「ううん。うちのお店の先輩に相談したら、あたしはまだ若いから乳がんなんかにかかる年じゃないって……。それよりもお客さん、前に話したお目付け役がこっちをじっと見てるから、おっぱいを触ってくれない?」
 山室は、真面目な顔のままでベビードレスの裾に手を差し入れると、左の乳房に手を当てた。
「お客さん、しこりは大丈夫って言っただろ」
 しかし山室は、それには何も答えずに慎重に乳房を触りはじめた。
 しばらくして山室は手の動きを止めた。
「やっぱり医者に診てもらった方がいい……。それもすぐの方がいい……」
 山室の低く静かな声を聞いたとたん、沙理奈は身体からすっと血が引くような感覚に襲われた。
 沙理奈は、あわてて頭を振るとかすれた声で言った。
「あのね、お客さん。ちょっと聞くけどさ、こんな店で働いている見ず知らずの女のおっぱいのしこりなんかをどうして気にするんだい? あたし、少しうんざりしてるんだよね」
 山室は、ベビードレスの下から手を引き抜くと、沙理奈に水割りを二つつくるように指示した。
 できあがったところで、一つを沙理奈にすすめ、残った一つを手に取った。
「気にする理由か……。俺は……、いまから5年前、33歳のときに家内を乳がんで亡くしたんだ。家内も俺と同い年だったから33歳で死んだことになる……」
 沙理奈は驚きに満ちた目で山室の顔を見た。
 山室はグラスに目を落としたまま続けた。
「家内のしこりは右の胸にあった。それに気づいたのは俺だった。セックスの最中に家内の乳房を触っていたとき、人差し指にしこりを感じたんだ。しこりの大きさはきみぐらいだった。
 そのとき俺は、『右のおっぱいに何か硬いものがあるよ』と言い、家内は、『そうなの?』と言ったが、そのあと二人ともしこりのことは気にもとめなかった。俺も家内も働いていて、二人とも忙しかったこともあったからね。
 それから1年ぐらいが過ぎたとき、家内が、『右のおっぱいのしこりが大きくなってる』って言うんで、触ったら倍の大きさになっていたんだ。
 翌日あわてて二人で病院に行ったよ。医者の診断は乳がんだった。
 そのあと家内は、右の乳房を切除して抗がん剤治療や放射線治療を受けたけど、がんの転移を防ぐことができずに亡くなった。
 がんの転移がわかったとき、医者が言った言葉がいまでも忘れられない。
『本当に残念です。1年早く治療を始めていたら、助けることができたのですが』
 俺はいまでも悔やみ続けているよ。『なぜしこりを見つけたときに家内を病院に連れて行かなかったんだろう』って……。『家内を死なせたのは俺のせいだ』って……」
 山室は一気に水割りを飲み干した。
 山室の話に沙理奈は言葉がなかった。
 山室は沙理奈の左の乳房に視線を移した。
「たしかにきみにとっては迷惑な話かもしれない。初めて会ったばかりの男が、いきなりおっぱいを触って、しこりがあるから医者に診てもらえなんて言うんだからな」
 山室はそこで言葉を切ると、自分の人差し指を見た。
「でも、この人差し指でしこりを感じたとき、俺には死んだ家内ときみが二重映しになった。きみが見ず知らずの女だからって、知らぬ存ぜぬを決め込んでいたら、俺はまた悔いを残すことになると思った。だから今日きみに会いに来たんだ」
 そこまで言って、山室は頭をさげた。
「俺の言うことを聞いて、医者のところに行ってもらえないか」
「お客さん、頭をあげてよ……。お客さんに頭なんかさげられたら、あたし、困っちゃうんだよね……」
 沙理奈はこわばった顔でつぶやいた。
「お客さんの気持ちはわかったよ。でもお客さんが言ってることは少し変だよ……」
「変……?」
「だってお客さんは、あたしのおっぱいのしこりをがんだって決めつけてるみたいだけど、お客さんは医者じゃないんだからそんなことはわからないよね」
「だから医者に診てもらった方がいいって言ってるんだ……」
 山室から顔をそむけるようにして沙理奈は続けた。
「自分の身体のことを他人からとやかく指図されるのは好きじゃない。それに医者にかかればお金だってかかるだろうし……」
「そんなことを言って、もしも手遅れにでもなったりしたら……」
 そう言いながら、山室が沙理奈の肩に手をかけたとき、突然、「お客さん、うちの女の子が嫌がることをしてもらっては困るんですけどね」という声がした。
 山室が顔を上げると、ワイシャツに蝶ネクタイの男が立っていた。
「うちの店は女の子と楽しく遊ぶ場所なんですよ。それなのにお客さんは嫌がる女の子に言い寄ったりして。ほら、女の子が迷惑そうな顔をしてるでしょ。悪いけど、このあたりで引き取ってもらいますよ」
 ワイシャツに蝶ネクタイの男は山室に近づくと、左腕に自分の右腕を巻きつけて山室を軽々と引っ張り上げた。そのものすごい力に山室はなすすべがなかった。
「き、きみ、誤解だよ。俺は彼女に言い寄ってなんかいない……」
 しかし男は、「まあ、まあ、静かに願いますよ、お客さん……」と言いながら、山室を出口の方に引きずって行った。
 あっという間の展開に、沙理奈は言葉を挟むこともできずに呆然と見送るだけだった。
 入れ替わるように茶髪の兄ちゃん風の店員が近づいてきた。
「ジャスミンさん、とんだ災難でしたね。あっちで安藤さんが凄みをきかせてるんで、あいつは二度と寄りつかないでしょう。いまどきはあいつのように一見真面目そうに見えてもストーカーって奴が増えてるんで、安藤さんがいてくれてほんとに助かりますよ。それから今日は上がっていいそうです」
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