第23話

文字数 3,364文字

 お腹まで毛布と布団をかけられ、草太の腕に背中を支えられたまま、彼が用意した解熱剤を飲まされた。粉薬のため、途中、喉にひっかかって噎せてしまう。咳き込む咲の背中を草太がさすってくれた。喉の痛みをこらえてなんとか飲み下すと、シーツのうえに寝かされ、しっかりと顎まで毛布と布団をかけられる。
「親父とお袋には伝えとくから、おまえは余計なことを考えずにとにかく寝てろ。いいな」
 口を開くが声が出ない。横になったとたん眠気が襲ってきて、草太の言葉どおり、咲はすぐに意識を手放した。

  *  *  *  

 ひやりとした冷たい感触に、咲はふっと目を覚ました。額に冷たいタオルがのせられたところだった。
「ああ、ごめんな。起こしちまったか」
 おかみさんの声だ。咲はゆっくりとまばたきをして、ひとの気配がするほうへ顔を向ける。いつもの真っ白な割烹着姿のおかみさんが枕元に座っていた。
 無断で仕事に遅刻したうえ、こうしてのうのうと寝かせてもらっていることを思い出して、必死に口を動かす。しかし、やはり声が出ない。
 おかみさんは咲の頬を撫でた。
「まだ熱が高い。苦しいだろう。水、飲めそうか?」
 咲は小さくうなずく。口のなかがカラカラだった。おかみさんは、用意していたらしい吸い飲みを咲の口に近付けて、少しずつ水を飲ませてくれる。水分を補給したおかげで少し楽になった気がした。お礼をいいたいが、喉が使えない。もどかしさのあまり涙目になる咲を見下ろして、おかみさんは宥めるようにいう。
「咲ちゃんのことだから、たぶんすげえ気に病んでるんだろ? それなら心配いらない。ほんとくそまじめだよな。こんなになるまで我慢しなくていいんだよ。昨日もやっぱり調子悪かったんだろ。あたしがもっと早く気付けばよかった。ごめんな」
 咲はあわててふるふると首を振る。おかみさんがそんなふうに咲に謝る必要はない。謝らなくてはいけないのは咲のほうだ。
「咲ちゃんは黙って遅刻なんかしないからさ、なにかのっぴきならない事情があるんだと思って草太にようすを見に行かせたんだけど、こんな状態で仕事にこようとしてたんだって? バカだよな」
 バカだといわれても傷つかない。そのとおりだし、おかみさんの口調がやさしかったからだ。咲が話せないのを知っているのか、おかみさんは返事を求めることはなく、ひとりで話しつづける。
「店のことは気にしなくていい。ちょうど週末だし、草太をこき使ってやるからさ。咲ちゃんはおとなしく寝てな。最低でも月曜日までは帰さないからな」
 暗に、このまま看病してやると伝えられて、咲はぽろぽろと涙を流した。
「ほら、泣くんじゃないよ。また熱があがるだろ」
 額にのせたタオルで涙を拭われる。ちょうど目許が隠れて、おかみさんがなにかいいたげな顔をしていたことに、咲は気付かなかった。おかみさんはすぐに表情を切り替えると、小さな子をあやすようにいった。
「いつもの看板娘がいないから、小金井のご隠居さんが心配してたぜ。秋吉さんもようすを見に来てたし。今はちゃんと休んで、また元気な顔を見せてあげな」
 咲は嗚咽をこらえながらこくこくとうなずいた。

 それからまた眠りに落ちて、熱に浮かされて朦朧としつつも何度か目を覚ましたような気がするが、咲はぼんやりとしていたので、夢かうつつかはっきりしない。
 抱き起こされて、汗で濡れたトレーナーを着替えさせられたり、水や薬を飲まされたような記憶が途切れとぎれにある。
 そうして、どのくらい眠っていたのか。
 ぱち、と目が覚めた。
 熱が下がっているのが自分でもわかる。ずいぶん気分がよくなって、頭もすっきりしていた。障子を立てているせいか、部屋のなかは薄暗い。時間がわからない。トイレに行きたくなって、咲はもそもそと布団から出る。スウェットの裾から伸びた素足にぎょっとしたが、布団に入るまえに着替えさせられたことを思い出して、今さらながら赤面する。
 ジーンズを探したけれど見当たらない。恥ずかしい格好だが、しかたなく、そろりと部屋を出て、トイレへと向かう。電気をつけなくても支障なく歩ける程度には明るい。申し訳なく思いながらも、勝手知ったるなんとやらで廊下を進んでいくと、ふいに玄関のほうからもの音がした。
 びく、と立ち竦んでいると、学生服姿の草太が現れた。
 草太も驚いた顔をして咲を見つめる。その視線がすっと下へとおりていくのを見て、咲はあわててスウェットの裾をひっぱって足を隠そうとする。太腿までが精いっぱいだ。
「おまえ、なにうろうろしてるんだよ」
 不機嫌そうな声で咎められて、咲はますます小さくなりながら答える。
「ト、イレ、に」
 ひどい掠れ声だが、話せるようになっただけましだ。
 草太は眉をひそめると、つかつかと近付いてきて、咲の身体をひょいと抱きあげた。突然のことに、咲はあんぐりと口を開けて草太の服にしがみつく。
「そ、た、くん?」
「黙ってろ。勝手にうろちょろすんな」
「う、ごめ、なさ」
 知らないあいだに自分の家のなかをうろうろされるのは、たしかにいい気分ではないだろう、と思うので、咲はしょんぼりと黙った。トイレのドアのまえで咲はおろされる。
「早く行ってこい」
 急かされて、咲はよたよたとトイレに入った。用をすませて出てくると、草太はいなくなっていた。きょろきょろとあたりを見まわして、咲は途方に暮れる。黙って部屋に戻るくらいは大丈夫だろうか。
 すると、見計らったように草太が戻ってきた。問答無用でふたたび咲を抱きあげると、そのまま部屋まで運び込まれる。
「あの、わたし、重たい、から」
 少しふらふらするが、ゆっくりなら自分の足で歩ける。しかし、咲の訴えは見事に無視され、布団におろされる。
「ろくに飯も食ってねえやつが重いもくそもあるか。おまえなんか、米抱えるより軽いっつーの。ほら、熱計ってみろ」
 首を竦めながら、咲はおとなしく、差し出された体温計を受け取り、服のなかで脇に挟む。それを見届けて草太が立ちあがる。
「飯作ってくるから、それまでおとなしく寝てろよ」
「え」
 出会いがしら、頭ごなしに怒られてびくびくしていたくせに、いざ草太がいなくなると思うと心細くなり、咲は縋るようにして彼を見あげた。その潤んだ目を見て、草太が低く呻く。
「おまえ、」
 どすん、と乱暴に咲のそばに座ったかと思うと、荒々しく肩を掴まれ抱き寄せられる。びっくりして目を見開きながらも、脇に挟んだ体温計の存在が頭を掠めて、咲は身動きができない。硬い素材でできた学ランからは、微かに草太の匂いがする。すり、と顔を寄せると、顎を掴まれ、視界を塞がれた。視界だけでなく、唇も。
「ん、む」
 真っ先に思ったのは、風邪を移してしまう、という危険性だった。だけど、それを伝えられない。乾いた口のなかを縦横無尽に掻きまわされて、咲は抵抗を諦めた。病人相手に容赦ない。
 しばらくして唇を解放されると、咲は息を乱しながら真っ赤な顔で草太を睨んだ。
「風邪、移ったら、困る」
 がらがら声で途切れとぎれに訴えるが、草太はあっさりとそれを躱した。
「今さらだろ。おまえがそんな顔をするから悪い」
「え」
「ただでさえヤバいんだよ、おまえのその格好。頼むからこれ以上おれを煽るな」
 怒ったような口調でそういわれて咲はきょとんとする。そんな格好といわれても。そうしてやっと気付く。今は布団に隠れているが、ついさっきまで足が剥き出しだったことに。赤い顔をしたまま、咲は反論を試みる。
「だ、だって、これは、草太くんが」
 今着ているスウェットはおそらく草太のものだろう。どう見ても男ものだし、咲が着るとぶかぶかで袖があまっている。最初に、草太に強引に着替えさせられたことまで思い出してしまい、咲は血がのぼった頭を草太の胸に押しつけた。蚊の鳴くような声でつぶやく。
「草太くんが、むりやり、」
「しかたねえだろ。あのままじゃ寝苦しいに決まってる。けど、こんな」
 ぎゅ、と肩を強く抱き寄せられる。
「おれの服着て、しかもぶかぶかで、袖こんなだし。おまえ、小さくてすげえかわいい」
 草太の口からときどき不意打ちで飛び出す「かわいい」という言葉に、咲はひどく狼狽してしまう。ふだんの口調が口調なだけに、このひとことの威力はすさまじい。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み