第1話
文字数 2,467文字
「いらっしゃいませ、あっ、おはようございます」
午前十一時。
寒空の下、開店してすぐにやってきたのは近所に住む小金井という名の老人だった。
「おはよう、咲ちゃん。今日も元気だねぇ」
ご近所内でも、怒ったところを見たことがないといわれるほどいつもにこにこと笑っている好好爺の小金井は、これまたいつものようにふんわりとした笑みを浮かべて咲を見た。
開店前に磨きあげたショーケース越しに、咲はつられてふにゃりと笑って応える。
「ありがとうございます。元気だけが唯一の取り柄なので」
「いやいや、元気なのはいいことだよ。はい、これをあげよう。今朝いただいたものだけど、ひとりでは食べきれなくてね。もらいもので悪いけど、よかったらお茶うけにみんなでお食べ」
「わあ、ありがとうございます! あっ、月代屋さんの和菓子ですね、嬉しいです」
差し出された袋を受け取ってはしゃぐ咲の背後から、仕込みをしながら話を聞いていた店主とおかみさんが礼をいう。
「いつもすみません。ありがとうございます」
「ご隠居さん、ありがたくいただきます」
「いやいや。さて、今日はなにを食べようかね」
にこにことつぶやきながらショーケースを覗き込む小金井のあとから、小さな子ども連れの顔馴染みの女性がやってくるのが見えた。咲はにっこりと笑顔でふたりを迎える。
「いらっしゃいませ」
ここは個人で経営している小さな弁当屋で、もともとはコロッケなどの揚げものを主に扱う惣菜屋だったそうだ。
このコロッケが絶品で、むかしからの贔屓のお客さんも多く、近年になって進出してきた大型スーパーやコンビニなどの影響を受けつつも、日々繁盛している。
近くに高校があり、駅から徒歩圏内という立地もあってか周囲に学習塾や専門学校が多く、小腹を空かせた学生たちやひとり暮らしの単身者からの要望に応じて弁当をはじめたところ好評だったため、惣菜とあわせて弁当を扱うようになったという。
数年前、咲がはじめてこの店の存在を知ったときには、弁当屋としてすっかり地域に定着していた。
咲は、基本的に毎週月曜日と定休日の木曜日が休みで、それ以外の日は朝十一時の開店から閉店の二十時まで、あいだに休憩を挟みながらみっちり働いている。
咲の仕事は主に接客で、惣菜が並べられたショーケース越しにお客さんからの注文を聞き、代金を受け取り、商品を手渡す。そのあいだに、店主やおかみさんを手伝って揚げものをしたり弁当を詰めたりもする。
だから、たいていの常連客とはもうすっかり顔馴染みだし、話好きな年寄りに至っては、その家族構成や内部事情まで把握していたりする。
どこの家庭でも、それぞれなにかしらの事情があるものなんだな、と思いつつ、咲はにこにこと、ときには神妙な顔をしながらうんうんと話を聞くのだった。
咲は、ひとことでいえばそそっかしい。ものを覚えるのが苦手だし、ちょっとしたことですぐに動揺してしまい、ふつうならありえないような失敗をやらかしてしまう。
働きはじめた当初は、それはもうひどいものだった。人の好い店主に代わって、気の強いおかみさんからはさんざん怒鳴られて叱られたものの、あれでよくクビにならなかったと思う。当時を思い返すだけでも冷や汗がにじむ。
最近ではだいぶ要領を掴んできて失敗することは減ったが、それでも忙しいお昼どきや夕方にはとくに気が抜けない毎日を送っている。
*****
午後八時。
なんとか粗相もなく一日を終えて、咲はようやくほっと肩の力を抜いた。
「お疲れさん、咲ちゃん」
「お疲れさまです」
おかみさんの笑顔を見て、咲は安心してふにゃりと笑う。とたんにほっぺたをひっぱられた。
「はうっ」
「あー、咲ちゃんの笑顔を見ると癒されるぜ」
おかみさんはいつもの男前な口調でそんなことをいいながらきれいな顔で笑う。台詞と仕草が合っていない。
意志の強さを表すようなきりりとした目許、端整かつ華やかな顔立ち。同性である咲が見てもどきどきするような美貌の持ち主で、このおかみさんほどきれいなひとを、今までほかに見たことがない。舞台に立って人びとを魅了するのが似合いそうなひとなのに、三角巾とエプロンを身に着けて片手にお玉や菜箸を持っていても、それだけで絵になるのだからすごい。
おかみさん、と呼ぶのも憚られそうな女性だが、「あたしのことはおかみさんと呼んでくれ」と本人からいわれたのでそれに従っている。
この美人なおかみさんは十代のころ、本人いわく「若気の至り」で「ちょっとぐれていた」らしい。詳しいことはこわくて聞けないが、「そのころから比べるとだいぶまるくなった」というものの、今でもその言動の端々に当時の名残が見られる。
そんなおかみさんのまえで失敗して怒鳴られるのは本当に恐ろしいが、家を追い出されそうになって途方に暮れていた咲を助けてくれたのはこのひとで。
感謝している。感謝しているけれど、痛いものは痛い。
「おひゃみひゃん、いひゃいれす」
涙目になって訴えていると救世主が現れた。
「なにやってんだよ」
白地にでかでかと黒い髑髏が描かれたパーカーを着た少年が出入口に立ち、呆れたような目で咲たちを見ている。
「うるせー邪魔すんな草太」
「邪魔はどっちだよ。店終わったんだろ。咲送ってくから寄越せ」
「まー生意気! 咲ちゃんを呼び捨てにするなんざ百年早いぜこのヒヨッコが」
勃発しそうな親子喧嘩を制したのは店主の穏やかな声で。
「はいはいそこまで。咲ちゃんお疲れさま。これ、今月のお給料ね」
ようやくほっぺたを解放された咲は店主から差し出された封筒を受け取る。
「ありがとうございます」
待ちに待った封筒を握りしめて顔をほころばせる咲の襟首を掴んで、草太と呼ばれた少年がぶっきらぼうにいう。
「ほら、とっとと着替えてこい。給料落とすなよ」
「はいっ」
母親譲りの鋭い目で睨まれて、咲はあわてて休憩室に向かった。
午前十一時。
寒空の下、開店してすぐにやってきたのは近所に住む小金井という名の老人だった。
「おはよう、咲ちゃん。今日も元気だねぇ」
ご近所内でも、怒ったところを見たことがないといわれるほどいつもにこにこと笑っている好好爺の小金井は、これまたいつものようにふんわりとした笑みを浮かべて咲を見た。
開店前に磨きあげたショーケース越しに、咲はつられてふにゃりと笑って応える。
「ありがとうございます。元気だけが唯一の取り柄なので」
「いやいや、元気なのはいいことだよ。はい、これをあげよう。今朝いただいたものだけど、ひとりでは食べきれなくてね。もらいもので悪いけど、よかったらお茶うけにみんなでお食べ」
「わあ、ありがとうございます! あっ、月代屋さんの和菓子ですね、嬉しいです」
差し出された袋を受け取ってはしゃぐ咲の背後から、仕込みをしながら話を聞いていた店主とおかみさんが礼をいう。
「いつもすみません。ありがとうございます」
「ご隠居さん、ありがたくいただきます」
「いやいや。さて、今日はなにを食べようかね」
にこにことつぶやきながらショーケースを覗き込む小金井のあとから、小さな子ども連れの顔馴染みの女性がやってくるのが見えた。咲はにっこりと笑顔でふたりを迎える。
「いらっしゃいませ」
ここは個人で経営している小さな弁当屋で、もともとはコロッケなどの揚げものを主に扱う惣菜屋だったそうだ。
このコロッケが絶品で、むかしからの贔屓のお客さんも多く、近年になって進出してきた大型スーパーやコンビニなどの影響を受けつつも、日々繁盛している。
近くに高校があり、駅から徒歩圏内という立地もあってか周囲に学習塾や専門学校が多く、小腹を空かせた学生たちやひとり暮らしの単身者からの要望に応じて弁当をはじめたところ好評だったため、惣菜とあわせて弁当を扱うようになったという。
数年前、咲がはじめてこの店の存在を知ったときには、弁当屋としてすっかり地域に定着していた。
咲は、基本的に毎週月曜日と定休日の木曜日が休みで、それ以外の日は朝十一時の開店から閉店の二十時まで、あいだに休憩を挟みながらみっちり働いている。
咲の仕事は主に接客で、惣菜が並べられたショーケース越しにお客さんからの注文を聞き、代金を受け取り、商品を手渡す。そのあいだに、店主やおかみさんを手伝って揚げものをしたり弁当を詰めたりもする。
だから、たいていの常連客とはもうすっかり顔馴染みだし、話好きな年寄りに至っては、その家族構成や内部事情まで把握していたりする。
どこの家庭でも、それぞれなにかしらの事情があるものなんだな、と思いつつ、咲はにこにこと、ときには神妙な顔をしながらうんうんと話を聞くのだった。
咲は、ひとことでいえばそそっかしい。ものを覚えるのが苦手だし、ちょっとしたことですぐに動揺してしまい、ふつうならありえないような失敗をやらかしてしまう。
働きはじめた当初は、それはもうひどいものだった。人の好い店主に代わって、気の強いおかみさんからはさんざん怒鳴られて叱られたものの、あれでよくクビにならなかったと思う。当時を思い返すだけでも冷や汗がにじむ。
最近ではだいぶ要領を掴んできて失敗することは減ったが、それでも忙しいお昼どきや夕方にはとくに気が抜けない毎日を送っている。
*****
午後八時。
なんとか粗相もなく一日を終えて、咲はようやくほっと肩の力を抜いた。
「お疲れさん、咲ちゃん」
「お疲れさまです」
おかみさんの笑顔を見て、咲は安心してふにゃりと笑う。とたんにほっぺたをひっぱられた。
「はうっ」
「あー、咲ちゃんの笑顔を見ると癒されるぜ」
おかみさんはいつもの男前な口調でそんなことをいいながらきれいな顔で笑う。台詞と仕草が合っていない。
意志の強さを表すようなきりりとした目許、端整かつ華やかな顔立ち。同性である咲が見てもどきどきするような美貌の持ち主で、このおかみさんほどきれいなひとを、今までほかに見たことがない。舞台に立って人びとを魅了するのが似合いそうなひとなのに、三角巾とエプロンを身に着けて片手にお玉や菜箸を持っていても、それだけで絵になるのだからすごい。
おかみさん、と呼ぶのも憚られそうな女性だが、「あたしのことはおかみさんと呼んでくれ」と本人からいわれたのでそれに従っている。
この美人なおかみさんは十代のころ、本人いわく「若気の至り」で「ちょっとぐれていた」らしい。詳しいことはこわくて聞けないが、「そのころから比べるとだいぶまるくなった」というものの、今でもその言動の端々に当時の名残が見られる。
そんなおかみさんのまえで失敗して怒鳴られるのは本当に恐ろしいが、家を追い出されそうになって途方に暮れていた咲を助けてくれたのはこのひとで。
感謝している。感謝しているけれど、痛いものは痛い。
「おひゃみひゃん、いひゃいれす」
涙目になって訴えていると救世主が現れた。
「なにやってんだよ」
白地にでかでかと黒い髑髏が描かれたパーカーを着た少年が出入口に立ち、呆れたような目で咲たちを見ている。
「うるせー邪魔すんな草太」
「邪魔はどっちだよ。店終わったんだろ。咲送ってくから寄越せ」
「まー生意気! 咲ちゃんを呼び捨てにするなんざ百年早いぜこのヒヨッコが」
勃発しそうな親子喧嘩を制したのは店主の穏やかな声で。
「はいはいそこまで。咲ちゃんお疲れさま。これ、今月のお給料ね」
ようやくほっぺたを解放された咲は店主から差し出された封筒を受け取る。
「ありがとうございます」
待ちに待った封筒を握りしめて顔をほころばせる咲の襟首を掴んで、草太と呼ばれた少年がぶっきらぼうにいう。
「ほら、とっとと着替えてこい。給料落とすなよ」
「はいっ」
母親譲りの鋭い目で睨まれて、咲はあわてて休憩室に向かった。