第9話

文字数 3,414文字

「草太くん、ごめん」
 少し落ち着いてくると、咲はひっくひっくと肩を上下させながら草太に謝る。
「ごめ、なさぃ」
 はあ、と本日二度めのため息が落ちてくる。草太が手探りで玄関の照明を点けた。視界があかるくなる。
「べつに。今さらだろ」
 呆れたようにいわれて、咲は小さくなりながらも草太の背中に手をまわしてしがみつく。草太がもう帰ってしまうのだと思うと、考えるより先に、勝手に身体が動いていた。
 その瞬間、草太の身体がびくりと強張る。咲は泣き腫らした顔をあげて草太を窺う。
「草太くん?」
「……っ、」
 草太は珍しく動揺したように口許をひきつらせて咲から視線を逸らすと、ぐいっと身体を引き剥がした。
「近寄るな馬鹿」
 そんなことをいわれても、咲を抱き寄せていたのは草太のほうだ。呆気に取られて立ち尽くす咲に背を向けて鍵を開けようとする草太のジャケットを、とっさに掴んで引き留めた。
 草太が振り返る。
「帰っちゃうの?」
 消え入りそうな声で尋ねたとたん、草太の目つきが変わった。咲は息を呑む。腕を掴まれ、ふたたび引き寄せられて。照明が点いているはずなのに、目の前が真っ暗になった。
「……っん、」
 草太くん、と呼びかけようとしたけれど、口を塞がれていて言葉にならない。なにが起きたのかわからず硬直していると、唇に噛みつかれたうえ舐められた。草太に。
 咲は思いきり草太の胸を突き飛ばした。力いっぱい突き飛ばしたつもりだが、草太はさほど衝撃を受けたようすもなく、とん、とドアに軽く背中をあてただけで、まだ咲の身体を抱き寄せたままだ。
 だけど、顔は離れた。
 目と口をぽかんと開いて埴輪のような顔をした咲を、草太は恐ろしい目で見据える。
「咲、おまえな」
 怒りを押し殺した声で草太が凄む。
「隙だらけなんだよこの馬鹿が。おれも男だっていいかげんわかれこの鈍感女」
 苛立たしげにそう吐き捨てると、草太はいくぶん乱暴に咲を押しやり部屋から出ていく。音を立てて閉じたドアを呆然と見つめたまま、咲はその場にへたり込んだ。

 *****

 電子音が聞こえた。なんの音だっけ、とぼんやりしていると後ろから怒鳴られた。
「タイマー鳴ってるだろ咲ちゃん!」
「え、わっ、はいっ」
 危うくコロッケを爆発させるところだった。咲はあわてて、熱々の油のなかに浮いているコロッケを掬いあげてバットのうえで冷ます。
 ぼうっとしている場合ではない。仕事中だ。そう気を引き締めてみるものの、すっかり慣れて目を閉じたままでも打てるはずのレジを打ち間違えたりお釣りを渡し忘れたり弁当をひっくり返しそうになったりと、結果は散々だった。
「すみません」
 仕事が終わったあと、咲は店主とおかみさんに半泣きで謝った。おかみさんの顔が見られない。
「咲ちゃん、ちょっと」
 おかみさんに手招きされておそるおそる近付いていくと、内緒話をするように咲の耳許に顔を寄せてきた。そして。
「草太になにかされたのか」
 おかみさんとしては耳打ちしているつもりだろうが、地声が大きいので店主にも筒抜けだった。
 背後で派手な音がして驚いて振り向くと、店主がボウルを取り落としていた。ふたりの視線に気付くと、なにやら狼狽しきったようすでしゃがみ込み、「いや、失礼、どうぞつづけて」と話をうながす。
 おかみさんはなにもなかったように話をつづける。
「昨日、なんかあったんだろ」
「う、いえ、あの」
「べつに無理に話せとはいわないけどさ、あれでもいちおうあたしの不肖の息子だからな。もし、嫁入りまえの娘さんに手え出したっていうなら、きっちり落としまえつけねえと」
 そういっておかみさんは胸のまえで両手を組み、ポキポキと骨を鳴らす。咲は竦みあがってぶんぶんとかぶりを振った。
「そっそんなことはなにも」
「ほんとに? 庇う必要なんかないぜ」
「いえほんとに!」
 全力で否定する咲を眺めて、おかみさんはつまらなそうな顔をする。まるで、「嫁入りまえの娘さん」である咲に手を出したほうがよかったといわんばかりの反応だ。
「ちっ、なにやってんだあのヘタレは」
「え?」
 空耳、だろうか。
「ああいや、こっちの話。手え出したんじゃないなら、いったいなにをやらかしたんだあいつは」
「べつになにもしてねえよ。余計なこというな」
 ふいに会話に割り込んできた声に、咲はびくっとしてそちらを見る。入口に、いつものように草太が立っていた。咲は顔が赤くなるのを感じてうつむく。
「ほら、とっとと着替えてこい」
「は、はいっ」
 いつもと同じ、だった。
 咲は目を伏せたまま草太のそばを通り抜けて休憩室へ向かう。
 夢、だったのだろうか。
 昨夜から繰り返し自問したことがまた頭のなかをぐるぐるとまわる。
 気が付いたときには、夜道を草太とふたりで歩いていた。
 今まではなにも感じなかった距離が急に気になって、咲はいつもより離れて草太のあとをついていく。
 無言で先を歩いていた草太が足を止めて振り返る。弾かれたように咲はあとずさる。不機嫌そのものといった顔で咲を見ると、草太は淡々とした口調でいった。
「もうしねえよ」
 白い息を吐きながら咲は目を瞠る。
「意識されるのはいいけど、そうやってビビられるのはむかつく」
「え」
「もう触らねえからふつうにしてろ」
 ふつうに。
 草太はたしかに、ふつうにいつもどおりだった。だけど、そんなことをいわれても、今の咲にはふつうがどんなものだったのか思い出せない。昨日まで、どうやって草太と接してきたのかわからなくなってしまった。

 *****

 それからも、草太はなにもなかったように、仕事が終わると咲をアパートまで送り届けた。
 ただひとつ今までと異なるのは、宣言したとおり、咲に指一本触れなくなったことだ。ほっぺたをつねることもおでこを弾くこともない。咲としては、痛くないのはありがたいし、これでもう、いつでこぴんを食らうかと身がまえる必要もない。万々歳のはずだった。
 それなのに。もの足りないような寂しいような、そんな気持ちになってしまう。どうしてだろう。

 数日後、秋吉夫人から、あの仔猫をアパートで飼うことになったと報告を受けた。大家さんから許可が下りたらしい。幼い健は、はじめて身近にする動物にとても喜んでいた。
 隣室に招かれ、新しく用意された清潔な寝床ですやすやと眠る仔猫を見て、よかった、と咲は思った。
 そのことを、夜、おずおずと草太に話すと、「そうか」というそっけない返事が返ってきた。いつもなら、憎まれ口のひとつやふたつ、もれなくくっついてくるはずなのに、それもない。
 気まずい沈黙のなか、咲はしょんぼりとうなだれながらとぼとぼと歩いた。

 咲は混乱の極みにあった。
 あのとき、草太が残した捨て台詞を何度も反芻した。
『隙だらけなんだよ』
『おれも男だっていいかげんわかれこの鈍感女』
 草太のことは、年下の、高校生だと思っていた。
 男の子だと、思っていた。
 彼が、平日の閉店後には主に片付けを、休日には店を手伝ったりおかみさんに代わって家事をこなしていることを咲は知っている。咲などより遥かにおとなでしっかりしていて頭もいい。
 そんな草太から見た咲は、さぞかしひどいものだろう。手のかかる年上のだめ女。きっとそんなところだろうと思っていた。
 咲が草太をそういうふうに見たことがないように、草太もまた、まかり間違っても咲をそういう――恋愛対象として見ることはないと思い込んでいた。
 学生にとっては、たとえひとつでも歳が違えば、その差は大きい。たったひとつ学年が違うだけで、ずいぶん距離が隔てられる。
 咲と草太は三つも歳が離れているのだ。それなのに、年上のはずの咲のだめっぷりときたらもう、目もあてられないようなありさまで。
 実際、草太には今まで散々だらしないところを見られてきた。咲自身、自分のことながら、呆れ果てる要素には事欠かないが、好意を持たれるようないい材料はひとつもない。
 考えれば考えるほど頭がこんがらかってくる。
 このままではいやだと思うのに、いざ草太をまえにするとなにもいえなくなってしまう。
 顔を合わせるたび、頬を赤くしておろおろする咲を、草太は無言で見ていた。
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