第6話

文字数 3,521文字

 台所の流しで顔を洗っていると、すぐ側にある玄関のドアが外側から二度叩かれた。来訪を告げるチャイムはもともとついていないので、訪ねてきた人間はドアをノックするか直接呼びかけるしかない。
 しかし、咲の部屋を訪ねてくるのは草太くらいのものだ。その草太はここにいる。
 咲は蛇口を捻って水を止めると、タオルで顔を拭きながら草太を見た。草太も怪訝な顔をして咲に目を向ける。
「こんばんは。隣の秋吉です」
 柔らかな女性の声が聞こえた。たしかにお隣さんの声だと思った咲が玄関に向かうと、草太に阻止された。
「おまえ、その顔で人前に出る気か」
 呆れ果てたように草太がいう。そんなにひどい顔をしているのだろうかと狼狽している隙に、草太がドアを開けた。
 出てきたのが咲ではなかったことに隣人は驚いたようだが、すぐに表情を和らげて草太に挨拶をした。
「草太くん、こんばんは」
「どうも」
「ころっけのおにいちゃん?」
 秋吉夫人の足許には幼児がいた。母親に似たふっくりとした顔で目をまるくして草太を見あげている。
 咲の隣の部屋に住む秋吉家は弁当屋の常連客で、草太とも顔馴染みだった。
「さきちゃんは?」
「あー」
 くりくりとしたつぶらな瞳で見つめられて草太は珍しく言葉に詰まる。咲はタオルで顔を押さえたまま草太の横から顔を出した。
「こんばんは、秋吉さん、健くん」
「さきちゃん」
 母親のスカートを握りしめたまま、健くんと呼ばれた男の子はぱっと顔を輝かせる。咲は、草太から横目で睨まれたが、秋吉夫人は咲に用があってきたのだろう。出ないわけにはいかない。
 秋吉夫人は咲の顔を見て一瞬目を見開いたが、心得たとばかりにひとつうなずくと、なにも聞かずに用件を切り出した。
「お取り込みのところごめんなさい。出先で洋菓子をたくさんいただいたのだけど、日持ちのするものじゃないから、よかったらおふたりでどうぞ」
 そういう秋吉夫人の手には洋菓子店の白い箱があった。
「わ、いいんですか、嬉しいです」
 甘いものに目がない咲は、ついさっきまでべそをかいていたのが嘘のようににこにこしながら箱を受け取る。
「あのね、それね、しゅうくりーむなの。おいしいよ」
 舌足らずな健の言葉に、咲はふにゃりと笑う。
「わあ、シュークリーム大好きです。ありがとうございます」
「お好きならよかったわ。それとね、ちょっと気になることがあって」
 秋吉夫人は、咲と草太を交互に見て声をひそめた。
「昨日なんだけど、このアパートの周りをうろついている男の人がいたの」
「え」
「昨日は私、日曜日で仕事が休みだったから、健と一緒に買いものに出かけたの。それで、何時ごろだったかしら、午後の二時か三時くらいだったと思うんだけど、帰ってきたら、黒いコートを着た男の人がアパートのまえにいて。通りすがりという感じじゃなくて、このアパートをじっと見てるの」
 咲は思わず草太と目を見合わせた。
「でも、私が見ているのに気付いたら、あわてたように逃げていったわ。なんの用があったのかはわからないけど、わからないからなんだかこわいでしょう? 最近はへんなひとも多いって聞くし」
「どんな男でした?」
 草太が尋ねる。
「ええとね、わりと背は高かったわ。そうね、草太くんくらいかしら」
「顔は」
「それがね、見えなかったの。サングラスをかけてマスクをしていたし、毛糸の帽子を深々とかぶっていたから」
「えっ、それ、ものすごく怪しいじゃないですか」
 想像したら、変装して顔を隠している変質者や犯罪者の図しか浮かばない。
 秋吉夫人は重々しくうなずく。
「そうでしょ、なんだか気持ち悪くて。いちおう、大家さんにはお話ししておいたんだけど、咲ちゃんは若い女の子のひとり暮らしだから、とくに用心したほうがいいと思って。こわがらせちゃうかなとも思ったんだけど、ちょうど草太くんがきているみたいだったから」
 どうやらこちらが本題で、シュークリームはそのおまけらしい。
「だから草太くんのいうとおり、戸締まりにはじゅうぶんに気を付けて」
 さきほどの草太の怒鳴り声は隣の部屋まで筒抜けだったようだ。草太もばつが悪そうに謝る。
「うるさくしてすみません」
「あ、ううん、気にしないで。そういう意味でいったんじゃないの。咲ちゃんもひとりじゃ寂しいでしょうし、賑やかなほうがいいわよ。うちのほうこそ、いつも健がうるさくしてごめんなさいね」
「え、いえ、そんな、全然」
 ふるふると首を振る咲をじっと見あげていた健がぽつりとつぶやく。
「さきちゃん、ないたの?」
「えっ」
「おめめがうさぎさん」
「こら、健」
 秋吉夫人があわてたように息子をたしなめる。咲はしゃがんで健と視線を合わせた。
「ううん、泣いてないよ」
「ほんと?」
「うん、ほんと。心配してくれたの? ありがとう」
「ん」
 健は急にそわそわしはじめたと思ったら、恥ずかしくなったのか、ぱっと母親の後ろに隠れてひたすらもじもじしている。
 咲は小さな弟を思い出して目を伏せた。
「もう、健は咲ちゃんが大好きなんだから」
 わが子を見て笑う母親は、ふっと草太に視線を向けて意味ありげにいった。
「草太くんも、ほどほどにね。咲ちゃんは女の子なんだから」
「わかってます」
 ぶっきらぼうに応えると、草太は立ちあがった咲を睨んだ。たじろぐ咲はとっさに片手で額を庇うが、さすがに草太も人前ででこぴんを食らわすつもりはないようだ。
「突然お邪魔してごめんなさい。そういうわけだから、くれぐれも気を付けてね」
 暇を告げる秋吉夫人の言葉にはっとして、咲は神妙にうなずく。
「はい、わざわざありがとうございます」
「いえいえ。あ、あと、咲ちゃん」
「はい」
「茸は生えなくても、押し入れはちゃんと換気をして片付けたほうがいいわよ」
 隣の草太がわが意を得たりといわんばかりの顔をしたのが見えたが、咲はうなだれて「はい」と小さく返事をするしかない。
 秋吉親子が帰ると、草太は咲の手から箱を取りあげてでこぴんを食らわした。
「うっ」
「聞いたか。物騒な世のなかなんだからな、絶対に戸締まりしろよ」
「はい」
「わかったらさっさと片付けろ」
 台所から追い出されて、雪崩が起きたままの押し入れに向かう。振り向くと、草太は勝手知ったるようすで冷蔵庫を覗き込んで、キャベツやミンチを取り出している。いちおう、晩ご飯は作ってくれるようだ。
「よそ見してる暇があんのかよ」
「ひっ」
 凄まれて、咲はわたわたと片付けに取りかかった。
 それからしばらくすると、ご飯が炊ける匂いとともにコンソメのいい匂いが漂ってきた。
 あらかた片付けが終わった咲は、台所に立つ草太の後ろ姿を眺めた。だれかがご飯を作ってくれるのっていいな、とあらためて思う。
 咲は立ちあがると、草太の背後から近付いて手許を覗き込んだ。思わず叫ぶ。
「ピーマン!?」
「うわっ」
 草太が珍しくびっくりしたような声をあげる。振り向いた草太はピーマンの細切りを咲の口に押し込んだ。
「うぐ」
「てめえ、包丁持ってる人間を驚かすな!」
 ついに、おまえからてめえ呼ばわりになった。
「うっ、にが」
「吐くなよ、食え」
「ううう」
 半泣きでなんとか飲み下すと咲は訴えた。
「なんでロールキャベツにピーマンが」
「馬鹿、これはべつもんだ。今日はたんまり野菜を食わせてやるからな」
 きれいな顔で鬼のようなことをいう草太におののきながら、咲はすごすごと押し入れのまえに戻った。
 草太が宣言したとおり、その日の晩ご飯は野菜尽くしのメニューだった。生野菜は苦手な咲も、調理されたものならおいしく食べられる。
 炬燵のうえいっぱいに並べられた料理を、草太とふたりでせっせと食べた。おいしい、おいしいと繰り返す咲に呆れた顔をしながらも、草太は終始ご機嫌なようすだった。
「草太くんはお店を継ぐの?」
「なんだよいきなり」
「ん、料理、好きだよね?」
「まあ、嫌いじゃねえけど」
 草太はピーマンがたっぷり入った回鍋肉を口に運んで咀嚼する。それを飲み込んでから、ゆっくりと答えた。
「うちみたいな小さい店が、ずっと今のままつづけていけるかどうかはわかんねえけど、できるなら、うちの味は残していきたいと思ってる」
「うん。草太くんはすごいね」
「べつにすごかねえよ。そういうおまえはどうなんだよ」
「え」
「この先、やりたいことがあるのか」
 聞き返されて咲はうつむく。
「べつにいわなくてもいいけどさ。おまえ、うちに戻れば?」
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