第24話

文字数 4,111文字

 そわそわと落ち着かない咲を、胸のなかにすっぽりと抱き込むようにして捕獲したまま、草太は咲の髪に鼻先を埋めてきた。今さらながら、そのあまりの密着ぶりに咲はあわてる。
「草太くん、あの」
「なに」
「わたし、汗かいてて」
「知ってる」
「く、臭い、から」
「べつに臭くはねぇよ」
 くん、と匂いを嗅ぐようにますます鼻先を押しつけられて、咲は羞恥のあまり涙目になりながら呻いた。
「あぅ……」
 いたたまれない思いでじたばたともがくと「じっとしてろ」と耳許でたしなめられる。その声の近さに心臓が飛び跳ねる。草太の両腕は咲を拘束したままびくともしない。心臓の音がうるさい。草太にも聞こえてしまうのではないかと思うくらいドクドクと激しく暴れている。
 喘ぐような咲の呼吸と、髪の毛をくすぐるような草太の微かな息遣いだけが部屋に響く。
 そこに、軽やかな電子音が割って入った。体温計だ。なにやら濃密な空気に耐えかねていた咲は、天の助けとばかりに草太に訴える。
「草太くん、体温計が」
「いいから黙ってろ」
 にべもなく一蹴されてしまう。
 絶対、熱があがっているに違いないと咲は思う。目が覚めたときにはすっかり熱が下がっていたはずなのに、今は頭のてっぺんまで熱くて、なんだかくらくらする。目を閉じて、はふ、と息を吐いたとき。
 ぐらり、と身体が揺れて後ろにひっくり返った。
 えっ、と目を開けたとたん、なにかがぶつかるようにして覆いかぶさってくる。
「んぅ、」
 口を塞がれる。いったいなにが起きたのかわからないが、その感触から、どうやら草太にキスをされているらしいということは辛うじて理解できた。
 理解はできたが、混乱した。
 とっさに、のしかかってくるものを押しのけようとすると、手を掴まれて逆に押さえつけられてしまう。痛くはない。でも振り払えない強さで。
 草太くん、と呼びかけたいのに、口を封じられているせいで言葉が出ない。
 あ、体温計が、と、混乱しきった頭の片隅で妙に冷静に思い出した。壊してしまったかもしれない。そんなことを考えていると、ふいに草太の片手が胸元を掠めた。大きな手が、咲の胸に触れている。最初はためらいがちに、壊れやすいものを扱うような手つきで。たまたま当たったという感じではない。明らかに草太の意思でそこに触れている。
 びっくりして咲がもがくと唇が離れた。はあはあと息を乱しながら目を見開いて草太を見あげる。触れそうなほどすぐ近くに草太の顔があった。濡れた唇。思わず息を呑む。なんだかこわいような目をして咲を見つめている。
「咲」
 低い、少し掠れた声で名前を呼ばれてぞくりとする。歳に似合わず分別臭い、おとなびたいつもの草太ではない。かといって子どもでもない。
 男のひと、だ。
「おいこら! なにやってんだてめえ」
 突然、雷が落ちた。
 空気をビリビリ震わせるほどの大音声にびっくりして心臓が止まるかと思った。電光石火のスピードで部屋に乗り込んできたおかみさんは、いっさいの反論を許さず草太の胸倉を掴みあげると顔面に右ストレートを叩き込んだ。恐ろしい音がして草太の身体が転がる。咲は悲鳴をあげることすらできずに呆然と目のまえの光景を見ていた。
 割烹着姿のおかみさんは夜叉のような顔をして息子を睨みつけている。
「草太てめえ、病人相手になにサカってんだ」
 問答無用で殴られた草太は手の甲で顔を押さえながら起きあがる。ふだんの彼なら間髪を入れずにやり返すはずだが、無造作に立てた膝に肘を乗せて頭を垂れると、長いため息を吐く。
 そうしてぽつりとつぶやく。
「助かった」
「ああ?」
 夜叉のような顔をしても変わらず美しいおかみさんが怪訝そうに眉をひそめる。草太はのっそりと立ちあがると、咲を見ないまま「あとは任せた。なんか飯食わせてやって」とおかみさんに告げて部屋を出ていく。拍子抜けしたようにおかみさんが振り返る。
「おい、打ち所が悪かったのか」
「あ? 痛くも痒くもねえよ、こんなもん」
「もう一発お見舞いしてやろうか」
「いらね」
 おかみさんは咲に向き直ると屈んで顔を覗き込んできた。
「咲ちゃん大丈夫か? 怪我はないか? こわかっただろう。うちのむっつりバカ息子がごめんな。あとで説教しとくから」
「い、いえ、大丈夫、です」
 あわてて首を振る。さっきの一発でかなりダメージを受けたはずだ。この武闘派親子にはいつも驚かされる。草太は大丈夫だろうか。先日、同じようにおかみさんから鉄拳制裁を食らって顔を腫らしていたところなのに、治るまもなく二発めを浴びてしまって。
「あいつもな、中途半端に我慢強いっつーか、そのくせ手が早いっつーか」
「え?」
「いや、こっちの話。わが息子ながらバカだよなって」
 つい数分まえ、ひとり息子に手かげんなしの拳を叩き込んだ母親とは思えないようなきれいな笑顔を見せるおかみさんに、咲はあらためて底知れない人だなと感じるのだった。

 どんな顔をして草太と会えばいいのだろう。
 今度こそ熱が下がって元気になった咲だったが、一刻も早く草太に会いたい気持ちもあると同時に、顔を合わせるのがこわいような、複雑な心境だった。
 火曜日。
 休んでしまったぶん、すぐにでも働きたいと訴えたが、大事をとってもう1日鹿島家で休むようにといい渡され、咲はやむなくおとなしくしていることにした。せめてもと、家のことを手伝おうとしたが、それもあっさりと却下されてしまい、時間をもて余していた。そんな状況でのうのうと読書をする気にもなれない。
 おかみさんに草太のことを尋ねると、まるでなんでもないことのようにとんでもない答えが返ってきた。
「ああ、あいつなら風邪引いて朝から寝込んでるよ。バカは風邪引かねえはずなのに、一丁前に。熱はなぁ、あたしが顔ぶん殴ったせいかもしれないな。まあ、寝とけばそのうち治るだろ」
 咲に対する過保護っぷりとはえらい違いだ。豪快すぎる。ようすを見に行こうとすると、釘を刺された。
「咲ちゃん、あいつの部屋には近寄るなよ。今なら熱に浮かされて弱ってると思うだろうけど、そういうときのほうが理性ふっ飛びやすいからな。のこのこと近寄ったら、飢えたケモノのまえに小動物を放り出すようなもんだぜ」
 実の息子なのにずいぶんないわれようだ。なんだか草太が気の毒な気もする。
 おかみさんのいいつけを破るわけにはいかない。だけど、草太が風邪を引いたというのは、十中八九、咲のせいだろう。自業自得な部分もあるとはいえ、自分はさっさと元気になってしまった手前、さすがに気が咎める。
 さんざん迷ったすえ、咲はちょっとだけ、草太のようすを覗いてみることにした。
 草太の部屋は二階の奥の洋間だ。おかみさんの目を盗んでこそこそと階段をのぼるのはものすごく緊張したし、罪悪感がある。けれど、とにかくひと目だけでも草太の顔を見るまでは気が気じゃない。
 ドアのまえに立ち、ごく小さくノックする。返事はない。
 どうしよう。逡巡したのち、咲は思いきってドアを開けた。
「草太くん?」
 小声で呼びかけてみる。カーテンが閉じられているため室内は薄暗い。壁際のベッドに布団の塊がある。あのなかに草太がいるのだろう。反応がないということは寝ているのかもしれない。起こしてしまわないように、そっと顔だけ覗いて戻ろう。そう思って咲は足音を立てないよう注意を払いつつ部屋に足を踏み入れた。
 整理整頓の鬼のような草太らしく、部屋のなかはすっきりと片付いている。咲の部屋とは大違いだ。
 ベッドに近付く。草太はこちら側に背を向けて寝ているらしく、布団の端からうしろ頭が覗いている。
 そうっと、背後から顔を覗き込んだとき。
 突然、草太が振り向いた。
「ひっ」
 思わず悲鳴をあげそうになりながらのけぞる。がしっと腕を掴まれた。その手が熱い。
「び、」
 びっくりした。ばくばくとうるさい心臓のあたりをてのひらで押さえる。肩で息をしながら草太に視線を向けた咲は、驚きのあまり目を瞠る。
 薄暗いなかでもわかるくらい、草太の左頬は変色していた。目の下から頬にかけて痛々しい痣が広がっている。
「そ、草太くん、大丈夫?」
 大丈夫なはずがない。見ている咲ですら痛い。咲の腕を掴んだまま、草太はげほっと咳をして嗄れた声で答える。
「大したことねえよ」
 頬を腫らしたうえ風邪まで引き込んでいるのに、強がりにもほどがある。草太のありさまを目にして、咲は動揺のあまり涙ぐんでしまった。
「草太くん、ごめんなさい」
 湿っぽい声で謝る咲に、草太は眉をしかめてぶっきらぼうにいう。
「なに、おまえが謝ってんだよ」
「だって、」
「おまえは大丈夫なのかよ」
「え?」
「風邪」
「あ、うん、もう元気」
「そうか」
 それだけいうと、もう話は済んだとばかりに草太は咲の手を離して寝返りをうつ。背を向けたまま草太は咲を追い出しにかかる。
「下でおとなしくしてろよ。こんなところにいるのがバレたらおまえまで怒鳴られるぞ」
「……うん」
 うなずきながらも咲は動けない。
「あの、なにか欲しいものとかない? お腹空いてない? あ、顔、冷やしたほうがいいんじゃ」
 ベッドの横に立ったままおろおろとそんなことをいう咲に、ため息をついた草太が咳き込む。
「だ、大丈夫?」
 咲は床に膝をついて布団越しに背中をさする。枕元にミネラルウォーターのペットボトルが転がっているのに気付いて、草太の咳が治まった頃を見計らって声をかける。
「お水、飲む?」
 返事の代わりに、黙って身体を起こした草太が咲の手からペットボトルを受け取る。少しだるそうな仕草で蓋を開けて一気に水を煽ると、口を拭って息を吐く。
「おまえ、おれの話を聞いてたか」
「え」
「いつまでここにいるつもりだ」
 出ていけ、いわれているのは咲にもわかった。ゆっくり休みたいだろうし、咲がそばにいると邪魔になるのはわかる。けれど。
「迷惑?」
 返事はない。
「ごめんなさい。草太くんのことが心配で。わたしじゃ役に立たないのはわかってるんだけど」
 うつむいてぼそぼそといい訳がましく弁解する咲に、痺れを切らしたように草太が頭を掻きむしる。
「そうじゃねえよ、あー、くそっ」
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