第12話

文字数 2,723文字

 すぐそばにブルージーンズに包まれた足が見えた。ゆるゆると顔をあげると、怒りをあらわにした横顔があった。
「食いものを粗末にするやつはろくなもんじゃねえ。そんなやつが偉そうに他人を罵倒してんじゃねえよ」
 いきなり現れた草太にたじろぎながらも、女はかっと顔を赤くして反論する。
「な、なんなのよ、あんたには関係ないでしょ! 人を侮辱して……、口の利きかたがなってないわよ、どこの家の子なの」
「うちの不肖の息子がなにか?」
 いつのまにか草太ともども外へ出てきていたおかみさんが挑戦的にいい放つ。そっくりな美貌がふたつ並ぶとものすごい迫力がある。
 女は顔をひきつらせながら、いくぶん勢いをなくした声で吐き捨てる。
「どうりで。類は友を呼ぶっていうけど本当ね。そんなとろくさい、なにやってもだめな子を雇うなんて、気が知れないわ。それともあんた、可哀想なふりでもしてこの家に取り入ったの? ふん、だめなくせにちゃっかりしてるじゃない。母親に似たのかしら」
「なんだとこのババ……っぐ、」
 怒鳴りかけた草太の口をおかみさんががしっと押さえて言葉を奪う。すさまじい目で睨む息子をものともせず、おかみさんは悩殺的な笑みを浮かべて女を見据える。
「たしかに咲ちゃんはどんくさいけどな、まじめだし素直なんだよ。どっかのだれかさんみたいに他人を貶すようなことは絶対にいわねえし笑うとかわいいしほっぺた柔らかいし、めちゃくちゃ癒されるんだよ。うちの朴念仁が骨抜きにされてめろめろになるくらいかわいいんだよ。あんたにはわからないだろうけどな」
 してやったりという顔でおかみさんがいいきると、あたりには微妙な空気が流れた。
 絶句する草太に、ぽかんとする咲。店のなかからそっと見守る店主、咲の傍らでなにやらうんうんとうなずく小金井老人。
 そんななか、ベンチに座ったままの聖夜が携帯電話を取り出し、淡々と会話をはじめた。
「うん、ぼく。そう、バレた。うん、わかった」
 それだけで通話は終了したらしく、聖夜は携帯をしまうと、ベンチから降りて母親を見た。
「おかあさん、ひとまえでとりみだすなんてみっともないよ。先に手をだしたほうがわるいんだから、あやまらないと」
 いちばん幼いのにだれよりも分別くさいことをいう聖夜に、全員が唖然として彼を見る。母親である女がもっとも衝撃を受けたらしい。
「せ、聖夜、あなた、なにを」
「それに、なぐるなら、おねえちゃんじゃなくてぼくのほうでしょ。ぼくがかってにここにきただけで、おねえちゃんはなにもしらなかったんだから」
 女は口をぱくぱくさせて聖夜を凝視する。聖夜はおかみさんに向き直るとぺこりと頭をさげた。
「おさわがせしてすみません。コロッケごちそうさまでした。ぜんぶたべられなくてごめんなさい」
「へっ、あ、いや」
 さすがのおかみさんも毒気を抜かれたのか、ついさっきの啖呵が嘘のようにおとなしくなった。
 聖夜はアスファルトに座り込んだままの咲に近付くと、腫れて赤くなった頬に触れて、咲にだけ聞こえる声で耳許にささやいた。
「ごめんね。こんどはバレないようにするから、またきてもいい?」
 咲は驚いて目を見開く。あわててうなずくと、聖夜ははじめて笑顔を見せた。
 咲から離れると、聖夜は傍らに立つ草太を見あげる。咲に見せた笑顔は跡形もなく消え去り、子どもとは思えないような、相手を値踏みする目をしていた。咲からはそれが見えない。
 草太は眉をしかめて不躾な視線を跳ね返す。生意気な子どもはあからさまな敵意を剥き出しにして草太を睨むと、くるりと背を向けて母親のもとへ歩み寄った。
「おかあさん、かえろう。さむくてかぜひきそう」
「え、ああ、そう、そうね、帰りましょ。こんなところに長居する必要はないわ」
 女は現れたときと同じように踵を鳴らして車に戻ると、嵐のように去っていった。
「おい、大丈夫か」
 草太の声がして、ぐいっとひっぱり起こされた。ふらつきながらもなんとか立ちあがり、草太を見あげる。
「あ、あり、がと」
 足許が覚束ないためか、草太はそのまま咲の身体を支えていた。
「あの、ほんとうに、お騒がせしてすみません」
 うなだれるようにして謝る咲に、その場にいたおとなたちが口々にいう。
「咲ちゃんが謝ることないだろ」
「そうだよ。それより顔は大丈夫かい」
「咲ちゃん、今日はもういいから帰りなさい。休んだほうがいい」
 店主の言葉に咲は目を見開く。
「えっ、そ、そんな」
 小金井が同意した。
「そうしなさい。失礼だが、なんというか、ものすごい負の力を持ったひとだったからねえ。あれをまともに浴びたら疲れてあたりまえだよ」
「たしかに。すごい剣幕だったよな。あんなキンキン声で叫ばれたらたまんねえぜ」
「それにしても、葉子さんの啖呵、ひさびさに聞いたねえ。むかしを思い出したよ」
 しみじみという小金井の言葉に、おかみさんは照れくさそうに笑った。
「よしてくださいよご隠居さん」
 ようやく和みはじめた空気を裂くように、店のまえに黒い車が停まった。先ほどの赤い車のような乱暴な運転ではなかったが、全員が無言になってそちらに注目した。
 運転席から現れたのは、気難しそうな厳めしい顔つきをした年配の男だった。
 咲は呆然として男を見つめる。
「お父さん」
「え」
 咲のつぶやきに草太が驚いた顔をする。
 スタンドカラーのシャツにジャケットという服装をした男は、咲たちに近付いてくると頭をさげた。
「うちの者たちがご迷惑をおかけしたようで、申し訳ありません」
「小川さん、あなたが聖夜くんを連れてきたんですか」
 咲の父親の突然の登場に驚いたようすもなく、おかみさんは社交モードの口調に切り替わった。
 初対面のはずなのに、名前すら名乗らない男に対して気分を害したふうもない。
 男は重々しくうなずく。
「咲に会わせろとせがまれまして。駅まで車で連れてきて、そのまま待機していました。しかし、妻が、どうやら息子の携帯のGPSで居場所を見付けて追ってきたようで」
 さっきの聖夜の電話の相手はこの男だったのだろう。男は咲の頬を見て眉をひそめた。
「それは、ゆかりに殴られたのか」
「えっ」
 咲の父親であるその男は、眉間に皺を寄せて咲を見ている。
 咲を、見ている。
 あれほど娘に無関心だった父親に声をかけられて、咲はひどく動揺した。みるみるうちに視界がにじむ。うつむいた咲に代わって草太がぶっきらぼうに説明する。
「殴るだけじゃねえ。一方的にこいつを目の敵にして下劣なことをすげえ勢いでまくしたててたぜ」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み