第4話
文字数 3,473文字
「おっす、鹿島じゃん」
小柄な少年が満面の笑顔で彼に話しかけてきた。
「こんなところでなにしてんだよ」
草太がぶっきらぼうに聞くと、短い髪の毛をつんつんに立てた少年はにこにこと答える。
「部活行ってー、帰りに塾に行ってー、今から帰るところ。超まじめだろ?」
「ああそうだな」
「うっわー、どうでもよさそーひでー! っていうか、その子だれ? え、うわっ、まさか彼女?」
興味津々という目で見つめられて咲は動揺する。
考えてみれば不思議なことに、こんなふうに、草太の友人らしき少年に出会うのははじめてで。
咲が知っているのは「弁当屋の息子」の草太で、学生としての彼がどんなふうに過ごしているのか、その交友関係もまったく知らない。
しかも目のまえの少年は、今なんといった。彼女?
時間差で咲は顔を真っ赤にしながらぶんぶんと首を横に振った。
「ち、ちが、違います!」
思いきり否定したとたん舌打ちが聞こえた。え、と顔をあげるとなにかにぶつかる。草太の背中だ。まるで咲と少年とのあいだを隔てるように、目のまえに立ち塞がる。
「そんなんじゃねえよ」
「じゃあなんで隠すんだよ」
草太の身体越しにおそるおそる顔を出すと、少年と目が合う。なんだか人懐こそうな子だなと咲は思った。
「あっ、そうか、もしかしてあの、噂の看板娘?」
「え」
うわさのかんばんむすめ?
ぽかんとする咲にかまわず、少年は合点がいったようにしきりにうなずいている。
「あーなるほど! はじめまして、木下誠です。鹿島とは小学校からの付き合いだけど、こいつ照れ屋だから店には絶対にくるなっていわれてるんで、行きたいけど行けません。代わりにおれの母親が買いものに行ってて、かわいい看板娘がいるって話は聞いてました。鹿島んちのコロッケ、めっちゃうまいっすよね」
立て板に水のごとくまくし立てられて呆気に取られていた咲だが、コロッケと聞いて、思わずふにゃりと笑った。自分もおいしいと思うもの、しかも仕事で扱っているものを褒められるとすごく嬉しい。
「おいしいですよね。わたしも大好きです」
はにかみながら咲が同意すると、木下と名乗った少年は目を見開いて咲を凝視する。その反応に、なにかへんなことをいってしまったのだろうかと不安になっていると、突然、視界が塞がれた。
驚いて、顔に張りついたものを除こうと手を伸ばして気付く。どうやら、草太が咲の顔面を鷲掴みしているようだ。
「え、なに、草太くん?」
「へらへらすんな」
ぎゅむ、と指先に力を込められて顔が圧迫される。
「痛いよ草太くん!」
「うるせえ」
いきなりの暴挙に、咲はわけがわからずおろおろしながらもがく。もがきながら、ただ苦しくて、なにも考えずにそこにあるてのひらに噛みついた。
「……っ、」
顔の上部を押さえていた指が離れて視界がひらけた。指の隙間から、驚いたような草太の顔が見える。咲はまだ肉に噛みついたままだ。
「ふはっ」
噴き出すような声に、咲ははっとして口を離す。
「はははっ、やべ、っふは、おもしれー」
木下少年が笑っている。それはもう盛大に笑っている。そうしてひとしきり笑ったあと、目尻を拭いながら彼はいった。
「ひー、おかし。なにやってんの、鹿島、おまえふつう、女の子の顔掴んだりしねーよ。ていうか、あはは、噛みつかれてやんの!」
「うるせえ黙れ」
地を這うような声で凄む草太におかまいなしに、木下は発作がぶり返したようにまだ笑いつづけている。
咲は今さらながら自分のしたことが恥ずかしくなって、ますます顔を赤くしてうつむいた。
「木下てめえ、いい加減にしろよ」
草太が詰襟の胸倉を掴む。さすがに木下は笑うのをやめて顔をひきつらせた。
「ちょっ、落ち着けよ、暴力反対!」
「黙れこの笑い上戸が」
「だっておまえ、わかりやすすぎ! ……っぷ、」
そういい返しながらも、また思い出したのか小さく噴き出す。本人も、まずいとは思ったらしくあわてて口を押さえたが、ばっちり聞こえていた。もちろん草太にも。
草太は唇の端をわずかにあげて恐ろしい笑みを浮かべると、あわあわと視線をさまよわせる木下に顔を近付けてささやいた。
「月曜日、覚えてろよ」
そういうと、もう関心をなくしたように木下から手を離して放り出す。
「かしまぁ」
「うるせえとっとと帰れ。あいつら待ってんじゃねえか」
そっけなくいって顎をしゃくる草太の視線をたどると、先ほど木下と一緒にいた高校生ふたりが遠巻きにこちらを見ていた。それに気付いた木下は「やべ、忘れてた」とつぶやくと、ぽかんとしたままの咲に視線を戻して謝った。
「あー、ごめんね。でも、おねーさんのこと笑ったんじゃないから」
「えっ、あの、いえ、はい」
驚きながらあわてて応える咲に安心したのか、にこっと笑うと、木下は尋ねた。
「おねーさん、名前なんていうんですか」
「え、あ、小川咲です」
「さきちゃん? かわいいっすね、ってぇ!」
木下が呻きながらよろめく。ブラックジーンズに包まれた草太の長い足が地面から浮いている。蹴ったのだ。
「草太くん!」
「こいつを名前で呼ぼうなんざ百年早いんだよ」
どこかで聞いたような台詞を吐くと、草太はじろりと咲を見下ろす。いやな予感がしてとっさに頭を庇おうとしたが遅かった。
「いたっ」
渾身の力を込めたでこぴんを食らい、涙目になって額を押さえる咲の首根っこを掴むと、草太はずるずると引きずるようにして歩き出す。木下が手を振って声をあげた。
「さきちゃん、またねー」
「ちっ、あのお調子者が」
毒づく草太におののきながらも、咲はこっそりと手を振り返した。
それからスーパーに着くまでのあいだ、草太は無言だった。
たぶん、機嫌が悪い。
背中から刺々しいオーラが漂っていて、気安く話しかけられる雰囲気ではない。仕方なく、咲はおとなしくついて歩いた。
スーパーに入り買いものかごを持つと、草太は入口付近に展開する野菜売場を丹念に見てまわり、目に留まったキャベツや玉葱やじゃがいもを手に取ってひとつひとつ吟味しながらかごに入れていく。
週末のためか、店内には遅い夕食の買いものをする家族連れの姿が目につく。スーパーの名前入りのかごを手に、そのなかに混ざる高校生の草太は飛び抜けて若く、おまけに人目をひく顔立ちをしているため、良くも悪くも目立っていた。
近くにいた、夫婦とおぼしきふたり連れのうちの女性が、ブロッコリーを手に取りながらちらちらと草太を見ている。それには気付いていないのか、草太は手許のきのこに視線をそそいでいる。
咲へのいやがらせのように、目のまえでみるみるうちに買いものかごを埋めていく野菜の量が、草太の不機嫌さを表しているように思えて身が縮む。
それでなくとも、咲にとっては、買いものに行くたびに極力避けて通るゾーンに足留めされて落ち着かなかった。
しかも、草太が買うつもりでかごに入れていく野菜は、咲が代金を支払い、咲の家の冷蔵庫に納められるものなのだ。
咲は野菜が苦手だ。
弁当屋で出される惣菜など、調理されたものならおいしく食べられるが、自分で買いものをするときに、わざわざ野菜を買って食べることはしない。
咲はそもそも料理が得意ではない。作ることは作るが、自分が作ったものをおいしいと思ったことはない。だから、食事のほとんどは賄いに頼りきりだし、休みの日も、できあいのものを買ってきて済ませる。
それを知っている草太は、あきらかに野菜が足りない怠惰で偏った食生活を送る咲に、野菜を食えとしきりに小言をいう。
小言をいうだけでは埒があかないと悟ると、こうして実力行使に出るようになった。
いくらずぼらな咲でも、食べものを放置して腐らせてしまうのはさすがに気が引ける。もったいないし罰当たりだと思う。だからなんとかがんばって料理を作って、食材を使いきるように努力している。片付けは完全に後まわしだが。
草太は料理が好きらしい。
自分が食べるのも、人に食べさせるのも好きなようで、中学生のころからよく鹿島家の台所に立っていた。その料理好きが高じて、こうして咲の食生活まで面倒を見てくれるのだ。
ありがたいし、気にかけてくれるのは嬉しい。嬉しいけれど、そんなにたくさんの野菜を食べきれる気がしない。
背後から草太をそっと窺っていた咲は、勇気をふりしぼって話しかけた。
小柄な少年が満面の笑顔で彼に話しかけてきた。
「こんなところでなにしてんだよ」
草太がぶっきらぼうに聞くと、短い髪の毛をつんつんに立てた少年はにこにこと答える。
「部活行ってー、帰りに塾に行ってー、今から帰るところ。超まじめだろ?」
「ああそうだな」
「うっわー、どうでもよさそーひでー! っていうか、その子だれ? え、うわっ、まさか彼女?」
興味津々という目で見つめられて咲は動揺する。
考えてみれば不思議なことに、こんなふうに、草太の友人らしき少年に出会うのははじめてで。
咲が知っているのは「弁当屋の息子」の草太で、学生としての彼がどんなふうに過ごしているのか、その交友関係もまったく知らない。
しかも目のまえの少年は、今なんといった。彼女?
時間差で咲は顔を真っ赤にしながらぶんぶんと首を横に振った。
「ち、ちが、違います!」
思いきり否定したとたん舌打ちが聞こえた。え、と顔をあげるとなにかにぶつかる。草太の背中だ。まるで咲と少年とのあいだを隔てるように、目のまえに立ち塞がる。
「そんなんじゃねえよ」
「じゃあなんで隠すんだよ」
草太の身体越しにおそるおそる顔を出すと、少年と目が合う。なんだか人懐こそうな子だなと咲は思った。
「あっ、そうか、もしかしてあの、噂の看板娘?」
「え」
うわさのかんばんむすめ?
ぽかんとする咲にかまわず、少年は合点がいったようにしきりにうなずいている。
「あーなるほど! はじめまして、木下誠です。鹿島とは小学校からの付き合いだけど、こいつ照れ屋だから店には絶対にくるなっていわれてるんで、行きたいけど行けません。代わりにおれの母親が買いものに行ってて、かわいい看板娘がいるって話は聞いてました。鹿島んちのコロッケ、めっちゃうまいっすよね」
立て板に水のごとくまくし立てられて呆気に取られていた咲だが、コロッケと聞いて、思わずふにゃりと笑った。自分もおいしいと思うもの、しかも仕事で扱っているものを褒められるとすごく嬉しい。
「おいしいですよね。わたしも大好きです」
はにかみながら咲が同意すると、木下と名乗った少年は目を見開いて咲を凝視する。その反応に、なにかへんなことをいってしまったのだろうかと不安になっていると、突然、視界が塞がれた。
驚いて、顔に張りついたものを除こうと手を伸ばして気付く。どうやら、草太が咲の顔面を鷲掴みしているようだ。
「え、なに、草太くん?」
「へらへらすんな」
ぎゅむ、と指先に力を込められて顔が圧迫される。
「痛いよ草太くん!」
「うるせえ」
いきなりの暴挙に、咲はわけがわからずおろおろしながらもがく。もがきながら、ただ苦しくて、なにも考えずにそこにあるてのひらに噛みついた。
「……っ、」
顔の上部を押さえていた指が離れて視界がひらけた。指の隙間から、驚いたような草太の顔が見える。咲はまだ肉に噛みついたままだ。
「ふはっ」
噴き出すような声に、咲ははっとして口を離す。
「はははっ、やべ、っふは、おもしれー」
木下少年が笑っている。それはもう盛大に笑っている。そうしてひとしきり笑ったあと、目尻を拭いながら彼はいった。
「ひー、おかし。なにやってんの、鹿島、おまえふつう、女の子の顔掴んだりしねーよ。ていうか、あはは、噛みつかれてやんの!」
「うるせえ黙れ」
地を這うような声で凄む草太におかまいなしに、木下は発作がぶり返したようにまだ笑いつづけている。
咲は今さらながら自分のしたことが恥ずかしくなって、ますます顔を赤くしてうつむいた。
「木下てめえ、いい加減にしろよ」
草太が詰襟の胸倉を掴む。さすがに木下は笑うのをやめて顔をひきつらせた。
「ちょっ、落ち着けよ、暴力反対!」
「黙れこの笑い上戸が」
「だっておまえ、わかりやすすぎ! ……っぷ、」
そういい返しながらも、また思い出したのか小さく噴き出す。本人も、まずいとは思ったらしくあわてて口を押さえたが、ばっちり聞こえていた。もちろん草太にも。
草太は唇の端をわずかにあげて恐ろしい笑みを浮かべると、あわあわと視線をさまよわせる木下に顔を近付けてささやいた。
「月曜日、覚えてろよ」
そういうと、もう関心をなくしたように木下から手を離して放り出す。
「かしまぁ」
「うるせえとっとと帰れ。あいつら待ってんじゃねえか」
そっけなくいって顎をしゃくる草太の視線をたどると、先ほど木下と一緒にいた高校生ふたりが遠巻きにこちらを見ていた。それに気付いた木下は「やべ、忘れてた」とつぶやくと、ぽかんとしたままの咲に視線を戻して謝った。
「あー、ごめんね。でも、おねーさんのこと笑ったんじゃないから」
「えっ、あの、いえ、はい」
驚きながらあわてて応える咲に安心したのか、にこっと笑うと、木下は尋ねた。
「おねーさん、名前なんていうんですか」
「え、あ、小川咲です」
「さきちゃん? かわいいっすね、ってぇ!」
木下が呻きながらよろめく。ブラックジーンズに包まれた草太の長い足が地面から浮いている。蹴ったのだ。
「草太くん!」
「こいつを名前で呼ぼうなんざ百年早いんだよ」
どこかで聞いたような台詞を吐くと、草太はじろりと咲を見下ろす。いやな予感がしてとっさに頭を庇おうとしたが遅かった。
「いたっ」
渾身の力を込めたでこぴんを食らい、涙目になって額を押さえる咲の首根っこを掴むと、草太はずるずると引きずるようにして歩き出す。木下が手を振って声をあげた。
「さきちゃん、またねー」
「ちっ、あのお調子者が」
毒づく草太におののきながらも、咲はこっそりと手を振り返した。
それからスーパーに着くまでのあいだ、草太は無言だった。
たぶん、機嫌が悪い。
背中から刺々しいオーラが漂っていて、気安く話しかけられる雰囲気ではない。仕方なく、咲はおとなしくついて歩いた。
スーパーに入り買いものかごを持つと、草太は入口付近に展開する野菜売場を丹念に見てまわり、目に留まったキャベツや玉葱やじゃがいもを手に取ってひとつひとつ吟味しながらかごに入れていく。
週末のためか、店内には遅い夕食の買いものをする家族連れの姿が目につく。スーパーの名前入りのかごを手に、そのなかに混ざる高校生の草太は飛び抜けて若く、おまけに人目をひく顔立ちをしているため、良くも悪くも目立っていた。
近くにいた、夫婦とおぼしきふたり連れのうちの女性が、ブロッコリーを手に取りながらちらちらと草太を見ている。それには気付いていないのか、草太は手許のきのこに視線をそそいでいる。
咲へのいやがらせのように、目のまえでみるみるうちに買いものかごを埋めていく野菜の量が、草太の不機嫌さを表しているように思えて身が縮む。
それでなくとも、咲にとっては、買いものに行くたびに極力避けて通るゾーンに足留めされて落ち着かなかった。
しかも、草太が買うつもりでかごに入れていく野菜は、咲が代金を支払い、咲の家の冷蔵庫に納められるものなのだ。
咲は野菜が苦手だ。
弁当屋で出される惣菜など、調理されたものならおいしく食べられるが、自分で買いものをするときに、わざわざ野菜を買って食べることはしない。
咲はそもそも料理が得意ではない。作ることは作るが、自分が作ったものをおいしいと思ったことはない。だから、食事のほとんどは賄いに頼りきりだし、休みの日も、できあいのものを買ってきて済ませる。
それを知っている草太は、あきらかに野菜が足りない怠惰で偏った食生活を送る咲に、野菜を食えとしきりに小言をいう。
小言をいうだけでは埒があかないと悟ると、こうして実力行使に出るようになった。
いくらずぼらな咲でも、食べものを放置して腐らせてしまうのはさすがに気が引ける。もったいないし罰当たりだと思う。だからなんとかがんばって料理を作って、食材を使いきるように努力している。片付けは完全に後まわしだが。
草太は料理が好きらしい。
自分が食べるのも、人に食べさせるのも好きなようで、中学生のころからよく鹿島家の台所に立っていた。その料理好きが高じて、こうして咲の食生活まで面倒を見てくれるのだ。
ありがたいし、気にかけてくれるのは嬉しい。嬉しいけれど、そんなにたくさんの野菜を食べきれる気がしない。
背後から草太をそっと窺っていた咲は、勇気をふりしぼって話しかけた。