第21話
文字数 3,159文字
翌朝。
咲は赤い目をしてふらふらと仕事に出かけた。
昨夜、あのあと、とりあえず温まるためにお風呂に入って、そのまま布団にもぐり込んで朝までうとうとしていた。ちゃんと寝ていないし、ご飯も食べていないせいか、なんだかふらふらする。
「おはようございます」
弁当屋の裏口から顔を覗かせて挨拶をすると、仕込みをしていたおかみさんが手を止めてこちらへ向かってきた。
いつ見てもきれいなひとだなとぼうっと見惚れていると、その端整な顔が目のまえに迫ってきて、咲は思わずのけぞる。草太とよく似た顔で迫られると平常心ではいられない。とくに今は。
顔を赤くして目を逸らすけれど、ほっぺたを掴まれて視線を戻されてしまう。
「ごめんな、咲ちゃん。うちのバカ息子がまたサカりやがって」
よく通る声でおかみさんがいったとたん、なにかがひっくり返るような派手な音があたりに響いた。おかみさんとふたりで仕込みをしていた店主が、手にしていた道具を落としたようだ。
おかみさんはなにもなかったように、それを無視して話をつづける。
「夕べはてっきり咲ちゃんと一緒に飯食ってくるんだと思ってたのに、やけに早く帰ってきたからさ、さてはなんかやらかしたなと思って問い詰めたんだよ」
おかみさんの勘の鋭さに咲は青ざめる。
「あいつ、咲ちゃんになにしたのかは、かたくなにいわねえから。でも、なんかやったんだろって問い詰めたら否定しねえんだよ。否定しねえってことは、やったってことだろ?」
強引だ。
「とりあえず一発殴っといたから」
「ええっ」
たしか、まえにもこんなことがあった。咲はあわてた。
「そ、そんな」
「一発じゃ足りないか、やっぱり」
違う。問題はそこじゃない。咲はぶんぶんと首を振って否定する。否定しておかないと大変なことになりかねない。
「そ、草太くんは大丈夫なんですか」
咲の言葉に、おや、というように眉をあげて、おかみさんはあっさりうなずく。
「一発殴ったくらいで死にやしないよ。殴るまえにちゃんと、歯ぁ食いしばれっていっといたから大したことないだろ」
今さらながら、なんという武闘派親子なのだろう、と咲は頭を抱えた。
「草太くんは」
「学校に行ったぜ。多少、顔が腫れたくらいで休むようなヤワじゃないよ」
腫れたのか、と咲はますます青くなる。自分のせいでとんでもないことになってしまった。
あのときは、頭に血がのぼって、草太に対して大声で暴言を吐いてしまったが、まさかこんなことになるなんて。どんな顔をして会えばいいのかわからない。目を伏せる咲に、おかみさんがいくぶんやさしい口調でいった。
「咲ちゃん、ろくに寝てないんだろ、その目。今日は休んでもいいぜ」
咲はびっくりしてふるふると首を振った。
「大丈夫です。すみません、ご迷惑をおかけして」
「いや、迷惑かけたのはむしろこっちだから。ほんとに大丈夫?」
「大丈夫です」
咲はきっぱりと答える。おかみさんはそれ以上なにもいわず、咲の背中をぽんと叩いた。
ぺしぺしとほっぺたを叩いて、咲は気合いを入れる。仕事なのに、こんなふうに寝不足の顔をしてくるのは、ほんとうは許されないことだ。咲の場合はとくに、店主やおかみさんは恩人でもあるのだから、どんな事情があっても、それを仕事に持ち込んで迷惑をかけてはいけない。
それが草太に関することならなおさらのこと。仕事とプライベートはべつだ。草太はこの家の息子だけど、それと咲との関係はべつものだ。今の咲にとって、草太は弁当屋の息子であると同時に、プライベートな存在でもある。そのプライベートの部分を、ずるずると仕事に持ち込んではいけない。けじめをつけないと。
昨夜のことはいったん端へと追いやって、咲は無理やりにでも、一日、仕事に集中することにした。
なんとか最後まで失敗をやらかさずに一日を終えることができて、店じまいの手伝いをしながら咲はほっと肩の力を抜いた。
いつものように、おかみさんが、あまりもののサラダとチキンカツをご飯と一緒に詰めて手渡してくれる。礼をいってそれを受け取り、着替えるために休憩室へ向かおうとしたとき。
入口に草太が現れた。
ダウンジャケットを着込んで、片手には見覚えのあるバッグを提げている。せっかくの端整な顔は不機嫌きわまりないというふうにしかめられ、左頬を赤く腫らしている。
咲は思わず息を呑んだ。
大丈夫? と口にしかけた言葉は、横から飛んできたおかみさんの声に封じられた。
「草太、わかってるだろうな。悪さするんじゃないよ」
「しねえよ。しつこいんだよいいかげん」
一触即発の空気に固まっていると、草太の視線が咲をとらえる。びく、と肩を震わせる咲から目を逸らして、草太は短くいった。
「着替えてこい」
「は、はいっ」
咲はあわてて休憩室へと向かった。
昨日、あんなことがあって、そのせいでおかみさんから鉄拳制裁を受けたばかりなのに、いつもと同じように律儀にアパートまで送ってくれる草太はやっぱりやさしい、と思いながらも、声をかけづらくて、咲は黙ったまま草太のあとをとぼとぼと歩いた。
雪こそ降らないものの、身を切るような寒さのなか、ふたりは無言でアパートまでの道のりを進んでいく。吐く息が白い。
草太の手には、昨日、咲の代わりに持ってくれた、図書館で借りた本が入ったバッグがある。あのまましかたなく持ち帰ったものを、忘れず持ってきてくれたのだろう。
咲はすうっと息を吸い込んで、意を決して草太に話しかけた。
「そ、草太くん」
寒さのせいもあって口があまり動かない。思ったよりもか細い声が出たが、ちゃんと届いたようで草太が振り返る。
「あの、ごめんなさい」
「なにが」
「え」
「なんでおまえが謝るんだよ」
いつもより輪をかけてぶっきらぼうに草太がいう。咲は息を白く染めながらまばたきをする。
なんで、といわれても。
昨日は、往来でいきなりあんなことをされて、しかもそれを顔見知りの秋吉夫人と小さな幼児にまで目撃されてしまい、恥ずかしさのあまりどうにかなりそうだった。草太をひどいと思ったし、どんな顔をして会えばいいのかわからなかった。
だけど、今朝になって、おかみさんからとんでもない話を聞いて、そして実際にこうして顔を腫らした草太を見て、毒気にあてられたように力が抜けた。
恥ずかしさよりも、草太に対する申し訳なさが先に立つ。だから。
「顔、わたしのせいで……」
呆れたようにため息をついて草太はきっぱりといった。
「これは自業自得ってやつだ。おまえのせいじゃない。謝るのはおれのほうだろ」
「えっ」
けれども、少し考えるような間のあと、草太は「いや」といい直す。
「昨日のあれは、おまえの自覚がないせいでもあるけどな」
「え」
え、え、とおろおろしているうちにアパートに着いた。おろおろしながらも、いつもの習慣で身体が勝手に鍵を取り出してドアを開ける。
「ほら」
咲が玄関のあかりをつけると、うしろに立っていた草太が本の入ったバッグを差し出した。反射的に受け取りながら礼をいうと、草太は用がすんだとばかりに背を向けてしまう。
咲はとっさに草太のジャケットの裾を掴んだ。ひっぱられた草太が顔をしかめて振り向く。
「なんだよ」
「あ、あの、」
話がしたい。なんでもいい。他愛のない話でいいから草太と会話がしたいと思った。だけど、言葉が浮かんでこない。草太を引き留めたまま、咲は眉を下げた情けない顔で彼を見あげる。金魚のようにただ口をぱくつかせる咲に、草太の眉間に皺が刻まれる。
「いいから、今日はもうおとなしく寝ろ」
そういって草太は咲の手をジャケットから剥がすと、一度も振り返らずに、来た道を戻っていく。
立ち尽くしたままその姿を見送るうちに、咲の視界がぼやけてなにも見えなくなった。
咲は赤い目をしてふらふらと仕事に出かけた。
昨夜、あのあと、とりあえず温まるためにお風呂に入って、そのまま布団にもぐり込んで朝までうとうとしていた。ちゃんと寝ていないし、ご飯も食べていないせいか、なんだかふらふらする。
「おはようございます」
弁当屋の裏口から顔を覗かせて挨拶をすると、仕込みをしていたおかみさんが手を止めてこちらへ向かってきた。
いつ見てもきれいなひとだなとぼうっと見惚れていると、その端整な顔が目のまえに迫ってきて、咲は思わずのけぞる。草太とよく似た顔で迫られると平常心ではいられない。とくに今は。
顔を赤くして目を逸らすけれど、ほっぺたを掴まれて視線を戻されてしまう。
「ごめんな、咲ちゃん。うちのバカ息子がまたサカりやがって」
よく通る声でおかみさんがいったとたん、なにかがひっくり返るような派手な音があたりに響いた。おかみさんとふたりで仕込みをしていた店主が、手にしていた道具を落としたようだ。
おかみさんはなにもなかったように、それを無視して話をつづける。
「夕べはてっきり咲ちゃんと一緒に飯食ってくるんだと思ってたのに、やけに早く帰ってきたからさ、さてはなんかやらかしたなと思って問い詰めたんだよ」
おかみさんの勘の鋭さに咲は青ざめる。
「あいつ、咲ちゃんになにしたのかは、かたくなにいわねえから。でも、なんかやったんだろって問い詰めたら否定しねえんだよ。否定しねえってことは、やったってことだろ?」
強引だ。
「とりあえず一発殴っといたから」
「ええっ」
たしか、まえにもこんなことがあった。咲はあわてた。
「そ、そんな」
「一発じゃ足りないか、やっぱり」
違う。問題はそこじゃない。咲はぶんぶんと首を振って否定する。否定しておかないと大変なことになりかねない。
「そ、草太くんは大丈夫なんですか」
咲の言葉に、おや、というように眉をあげて、おかみさんはあっさりうなずく。
「一発殴ったくらいで死にやしないよ。殴るまえにちゃんと、歯ぁ食いしばれっていっといたから大したことないだろ」
今さらながら、なんという武闘派親子なのだろう、と咲は頭を抱えた。
「草太くんは」
「学校に行ったぜ。多少、顔が腫れたくらいで休むようなヤワじゃないよ」
腫れたのか、と咲はますます青くなる。自分のせいでとんでもないことになってしまった。
あのときは、頭に血がのぼって、草太に対して大声で暴言を吐いてしまったが、まさかこんなことになるなんて。どんな顔をして会えばいいのかわからない。目を伏せる咲に、おかみさんがいくぶんやさしい口調でいった。
「咲ちゃん、ろくに寝てないんだろ、その目。今日は休んでもいいぜ」
咲はびっくりしてふるふると首を振った。
「大丈夫です。すみません、ご迷惑をおかけして」
「いや、迷惑かけたのはむしろこっちだから。ほんとに大丈夫?」
「大丈夫です」
咲はきっぱりと答える。おかみさんはそれ以上なにもいわず、咲の背中をぽんと叩いた。
ぺしぺしとほっぺたを叩いて、咲は気合いを入れる。仕事なのに、こんなふうに寝不足の顔をしてくるのは、ほんとうは許されないことだ。咲の場合はとくに、店主やおかみさんは恩人でもあるのだから、どんな事情があっても、それを仕事に持ち込んで迷惑をかけてはいけない。
それが草太に関することならなおさらのこと。仕事とプライベートはべつだ。草太はこの家の息子だけど、それと咲との関係はべつものだ。今の咲にとって、草太は弁当屋の息子であると同時に、プライベートな存在でもある。そのプライベートの部分を、ずるずると仕事に持ち込んではいけない。けじめをつけないと。
昨夜のことはいったん端へと追いやって、咲は無理やりにでも、一日、仕事に集中することにした。
なんとか最後まで失敗をやらかさずに一日を終えることができて、店じまいの手伝いをしながら咲はほっと肩の力を抜いた。
いつものように、おかみさんが、あまりもののサラダとチキンカツをご飯と一緒に詰めて手渡してくれる。礼をいってそれを受け取り、着替えるために休憩室へ向かおうとしたとき。
入口に草太が現れた。
ダウンジャケットを着込んで、片手には見覚えのあるバッグを提げている。せっかくの端整な顔は不機嫌きわまりないというふうにしかめられ、左頬を赤く腫らしている。
咲は思わず息を呑んだ。
大丈夫? と口にしかけた言葉は、横から飛んできたおかみさんの声に封じられた。
「草太、わかってるだろうな。悪さするんじゃないよ」
「しねえよ。しつこいんだよいいかげん」
一触即発の空気に固まっていると、草太の視線が咲をとらえる。びく、と肩を震わせる咲から目を逸らして、草太は短くいった。
「着替えてこい」
「は、はいっ」
咲はあわてて休憩室へと向かった。
昨日、あんなことがあって、そのせいでおかみさんから鉄拳制裁を受けたばかりなのに、いつもと同じように律儀にアパートまで送ってくれる草太はやっぱりやさしい、と思いながらも、声をかけづらくて、咲は黙ったまま草太のあとをとぼとぼと歩いた。
雪こそ降らないものの、身を切るような寒さのなか、ふたりは無言でアパートまでの道のりを進んでいく。吐く息が白い。
草太の手には、昨日、咲の代わりに持ってくれた、図書館で借りた本が入ったバッグがある。あのまましかたなく持ち帰ったものを、忘れず持ってきてくれたのだろう。
咲はすうっと息を吸い込んで、意を決して草太に話しかけた。
「そ、草太くん」
寒さのせいもあって口があまり動かない。思ったよりもか細い声が出たが、ちゃんと届いたようで草太が振り返る。
「あの、ごめんなさい」
「なにが」
「え」
「なんでおまえが謝るんだよ」
いつもより輪をかけてぶっきらぼうに草太がいう。咲は息を白く染めながらまばたきをする。
なんで、といわれても。
昨日は、往来でいきなりあんなことをされて、しかもそれを顔見知りの秋吉夫人と小さな幼児にまで目撃されてしまい、恥ずかしさのあまりどうにかなりそうだった。草太をひどいと思ったし、どんな顔をして会えばいいのかわからなかった。
だけど、今朝になって、おかみさんからとんでもない話を聞いて、そして実際にこうして顔を腫らした草太を見て、毒気にあてられたように力が抜けた。
恥ずかしさよりも、草太に対する申し訳なさが先に立つ。だから。
「顔、わたしのせいで……」
呆れたようにため息をついて草太はきっぱりといった。
「これは自業自得ってやつだ。おまえのせいじゃない。謝るのはおれのほうだろ」
「えっ」
けれども、少し考えるような間のあと、草太は「いや」といい直す。
「昨日のあれは、おまえの自覚がないせいでもあるけどな」
「え」
え、え、とおろおろしているうちにアパートに着いた。おろおろしながらも、いつもの習慣で身体が勝手に鍵を取り出してドアを開ける。
「ほら」
咲が玄関のあかりをつけると、うしろに立っていた草太が本の入ったバッグを差し出した。反射的に受け取りながら礼をいうと、草太は用がすんだとばかりに背を向けてしまう。
咲はとっさに草太のジャケットの裾を掴んだ。ひっぱられた草太が顔をしかめて振り向く。
「なんだよ」
「あ、あの、」
話がしたい。なんでもいい。他愛のない話でいいから草太と会話がしたいと思った。だけど、言葉が浮かんでこない。草太を引き留めたまま、咲は眉を下げた情けない顔で彼を見あげる。金魚のようにただ口をぱくつかせる咲に、草太の眉間に皺が刻まれる。
「いいから、今日はもうおとなしく寝ろ」
そういって草太は咲の手をジャケットから剥がすと、一度も振り返らずに、来た道を戻っていく。
立ち尽くしたままその姿を見送るうちに、咲の視界がぼやけてなにも見えなくなった。