最終話

文字数 2,396文字

「いひゃい!」
 ぐぐぐとほっぺたをさらに力いっぱいひっぱられて涙がにじむ。口ではかわいいかわいいと連呼しながらも、やっていることは容赦ない。
 ようやく解放された頬を押さえて恨みがましく草太を見あげる。
「いたい」
「痛くしてんだよ。いつ触っても大福みてえなほっぺただな」
 草太は意地悪く笑いながら咲の頭をぽんと叩いて台所へ入ると冷蔵庫を開けて中身を確認する。掃除を始めるまえに買いものに行っておいたので空ではない。
 いつものように食事の仕度をしようとする草太に咲は声をかける。
「あの、草太くん」
「あ?」
「今日はわたしが作るよ。草太くんは休んでて」
「珍しいな。どういう風の吹きまわしだ」
「だって、草太くん風邪引いているし。あ、お粥とか雑炊のほうがいいのかな」
「いくら味覚が死んでるとはいえ、もっとガッツリしたもの食わせろよ。肉とか」
「えっと、焼肉?」
「肉焼くだけじゃねえか」
「だって」
「豚肉と玉葱と生姜が揃ってるし、生姜焼きがいいな」
「しょうがやき……」
「作りかた教えてやるから」
 ニヤニヤしながら材料を取り出す草太に、びくびくしながら咲は後ずさる。
「草太くんスパルタ式だし」
「ああ?」
「ごめんなさいよろしくお願いします」
「心配すんな。手取り足取りやさしく教えてやるよ」
 宣言したとおり、草太は咲の背後に立ち、うしろから抱き込むようにして包丁の持ちかたから指導する。
「だから、左手は指を折って引っ込めろって。こう。おまえの切りかたじゃ玉葱血まみれになるぞ」
「わ、わかったから、あの」
「わかってねえだろ、指を出すな指を」
 背後から伸びた草太の手が咲の手に重ねられ、包丁の持ちかた使いかたを直接身体で教えようとする。ただでさえ危なっかしい咲の手許は余計に覚束なくなるばかりで。
 それでもなんとかそろりそろりと包丁を入れていく咲の頭上から草太がいった。
「そういや、うちの親からいわれたんだろ、同居の件」
 手許が狂ってほんとうに玉葱が血に染まるところだった。
「あっぶね、おまえ、気を付けろ」
 だれのせいだと。咲は手を止めて草太を振り返る。
「なんで」
「まえから出てた話だしな。ここんとこ立てつづけにおまえ寝込んでたし、心配なんだろ」
 そうなのだ。
 昨日、お世話になった鹿島家を辞するさいに、おかみさんから折り入って話があるといわれた。
 要約すると、またこの家に戻って一緒に暮らさないかという提案だった。
「咲ちゃんがうちを出てくって決めたときにさ、たぶんすげえ悩んで結論を出したんだと思う。なのに今さらこんなこといい出して蒸し返すのも、咲ちゃんにとってはいい迷惑かもしれないけどさ、あのときと今とじゃ状況が違うだろ」
 そういったおかみさんはきれいな笑みを浮かべていたが、とても真摯な眼差しをしていた。
「親父さんと和解して、あたしも親父さんから直接咲ちゃんのことをよろしく頼むと預けられてる。もしまた咲ちゃんがひとりで寝込んだりしたら心配だし、咲ちゃんさえよければ、この家でまた一緒に暮らしたいと思ってるんだよ。大事な家族の一員だとずっと思ってる。それにな」
 そこで言葉を切ると、おかみさんはため息をついてやれやれというふうに首を振った。
「うちの馬鹿息子がなぁ。一丁前にサカりがついてやがって、ちょっと目を離した隙に咲ちゃんにちょっかい出すだろ。もちろん、咲ちゃんが嫁にきてくれるなら大歓迎だけどな。あいつ、甲斐性もないくせに手だけは早いからな。もしものことがあったときに咲ちゃんにも親父さんにも申し訳が立たないだろ。一緒に住んでたら、あたしも目を光らせて万が一のときには駆除できるし」
 実の息子相手にまるで害虫かなにかのような扱いである。
「返事はいつでもいいから考えてみてくれないか。遠慮なく断ってくれてもかまわない。無理強いするつもりはないんだ。ひとりのほうが気楽でいいと思うかもしれないし、どんな答えでも咲ちゃんの意思を尊重するよ」
 おかみさんからの提案に、戸惑いながらも、ありがたいなと咲は思った。
 温かい鹿島家に馴染んでしまうのがこわくて、なかば強引にかたくなにひとり暮らしを始めた咲だが、先日の小川家襲来のさいのおかみさんや草太たちの対応から、ほんとうの家族のように大事に思われているのだと実感できた。
 自分の存在が迷惑になるのではないか、という不安は今でも消えないけれど、以前よりははるかに小さくなってきた。
 それは鹿島家の人びとのおかげだ。
 第三者の客観的な意見を聞いてみたくて、隣の秋吉夫人に相談してみようかなと思っていたところで、まさか草太からその話を振られるとは思っていなかった。
 手を止めたまま咲は尋ねる。
「草太くんは、どう思う?」
「いいんじゃねえの」
 あっさりといわれて目を見開く。
「なんで驚くんだよ。おれはまえからそういってただろ」
 そういわれて思い出す。たしかに、そういわれた記憶がある。
「そのほうがおれも安心っちゃ安心だし。離れてるとおまえ、なにしでかすかわかんねえし、目の届くところにいてくれるなら、それに越したことはない」
 いいかげん自信ねえしな、とぼそりとつぶやく。
「え、なにが?」
「おれの理性」
 理性? と首を傾げる咲に、草太はこれ見よがしにため息をつく。
「おまえとふたりきりだと理性が役に立たねえっていってんの。なんでとか聞くなよ」
「…………!」
 理解したとたん、身体がカチンコチンに固まる。こんな密着した状態でそんなこといわれても、と抗議したいところだが、そもそも動けないし言葉も出てこない。
「へんに意識されるとスイッチ入るから今はやめろ。生姜焼きに集中しろ」
 あわててこくこくとうなずくと、咲はおとなしく手許に意識を向ける。

 同じ屋根の下で暮らすほうがふたりきりになる可能性が高いのでは、と気付いたのはずいぶんあとのことだった。



                ❬完❭
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