第5話
文字数 3,126文字
「そ、草太くん」
草太は無言のまま振り返る。その眼差しにたじろぎながらも咲は訴えた。
「そんなに食べられないよ」
「ああ?」
「ひ、ひとりだもん」
怯みつつもいい返したが一蹴された。
「今さらだろ」
反論できずにしょんぼりとする咲を見ていた草太は、呆れたようにため息をついていった。
「しょうがねえな。月曜日、晩飯作りにいってやるよ」
「えっ」
咲は顔を輝かせた。草太の作ったご飯を食べられるのは素直に嬉しい。
「いいの?」
「ほんと、現金なやつだな」
つっけんどんないいかただが、それまで妙にぴりぴりしていた空気が和らいだ。風向きが変わったようだ。ほっとして、ふへっと笑うととたんに頬をつねられる。
「おまえな、あんま人前でへらへらするんじゃねえぞ」
咲ははっとする。さっきも同じようなことをいわれたばかりだ。顔を鷲掴みされて。
思い出した。そうだ、咲は草太の手に噛みついたのだ。それで草太は怒ったのだろうか。木下にも笑われてしまった。恥ずかしい。
そんなことを考えていると、さらに、むに、と頬をひっぱられた。
「あう」
「なに百面相してるんだよ。笑えるからやめろ」
「ふえ、いひゃいよ」
親子揃ってひとの顔をいじるのが好きらしい。そのうちほっぺたが変形するのではないかと本気で思う。
「で、なにが食いたいんだ」
「へ?」
「月曜日」
「えっと、あっ、ロールキャベツがいいな。まえに作ってくれた、あのチーズ入りの。すごくおいしかった」
そうリクエストすると、草太はまんざらでもないような顔をしてふんと笑う。そうして意地の悪い笑みを浮かべていい放った。
「部屋、さぞかしきれいに片付いてるんだろうな。楽しみにしてるからな」
*****
月曜日。
仕事は休みだが、咲は珍しく部屋の片付けと掃除に精を出した。
草太の手料理につられて、彼を部屋に招くことになったからだ。
おかみさんからは、草太を部屋に入れるなとつねづねいわれていたので反対されるかと思ったが、日曜日にその話をしたところ、予想に反してあっさりと許可がおりた。
おまけに、「もし草太が血迷ったら、遠慮なく殴り倒していいからね」となんとも穏やかでない台詞までついてきた。
よくわからないが、あの草太を殴り倒すような芸当が咲にできるはずがない。そういうと、おかみさんはにやりと笑っていい直した。
いわく、「股間を蹴りあげたらいいから」。
そこでようやく、おかみさんがいう「血迷った」状態がなにを指すのか理解した咲はうろたえて耳まで真っ赤になった。
まさかあの草太が、咲に対してそんな衝動に駆られるわけがない、と思う。
草太は高校生で、咲のほうが年上だ。たぶん三つくらい歳が違う。それに咲にとっては、草太ははじめて出会ったころの、まだ子どもっぽさを残した中学生の印象が強くて、成長してすっかりおとなびた今になっても、そのイメージが拭いきれない。
咲よりよっぽどしっかりしている草太にそんなことをいったら容赦なくでこぴんをお見舞いされてしまいそうだが。
草太だって、しょっちゅう咲のことをどんくさいだのなんだのと散々こきおろしているのだ。まかり間違っても、咲相手に血迷うことはないだろう。ふざけたことを考えるなと罵倒されそうだ。
それに、草太はきっと女の子から人気がある。整った容姿をしているし、口が悪くすぐに手が出るが、なんだかんだいっても結局やさしい、と思う。
聞いたことはないが、付き合っている彼女がいてもおかしくない。
そう考えると、なんだか胸のあたりがもやもやした。
咲は学校での草太を知らない。彼女どころか、草太の友人に会ったのも、偶然、あの木下という少年に出会ったのがはじめてだ。友人たちのまえでは、歳相応に騒いだりじゃれあったり、笑ったりするのだろうか。
咲は、草太の笑顔を見たことがない。せいぜい、意地が悪そうな皮肉めいた笑みを向けられるくらいで。
「うー」
胸にわだかまるもやもやを振り払うように勢いよくかぶりを振ると、咲は炬燵の周りに散らばった服や小物をかき集めて押し入れに突っ込んで襖を閉めた。
これを片付けとはいわないが、とりあえず部屋がきれいに見えるならそれでいい。
寒さを我慢して、ベランダの窓を開けて換気をしながら、炬燵を避けるようにして掃除機をかけ、台所の流しに溜まっていた洗いものにようやく手を付ける。
それだけのことにずいぶん時間がかかった。換気をして冷えきった部屋の空気に耐えきれず、綿入れを着たまま炬燵にもぐり込んで暖をとるうちに、咲はそのままうとうとと眠ってしまった。
べちん、と頬を叩かれた痛みで目が覚めた。
「うぅ、」
「おいこら、起きろ馬鹿」
すぐそばで低い声がして、咲はぎょっとして目を開けた。眩しい。瞬きを繰り返すうちにようやく目が慣れてきて、咲は自分を見下ろしている草太の顔を見た。鬼のような顔をしている。
「え、あ、あれ、なんで」
「なんでじゃねえよこのど阿呆が。あんだけ鍵かけろっていってるだろうが。不用心きわまりない部屋で呑気に寝てんじゃねえよ馬鹿」
馬鹿だのど阿呆だのとひどいいわれようだが仕方ない。どうやら玄関の鍵をかけずにいたらしい、と咲は気付く。だから草太も入れたのだろう。
「ご、ごめんなさい」
素直に謝りながらも逃げるようにじわじわと炬燵のなかにもぐり込もうとすると布団をひっぺがされた。
「炬燵で寝るなっていってるだろうが」
「あう」
今度はほっぺたをひっぱられる。いつも以上に容赦ない。
「いひゃいいひゃい」
「痛くしてんだよ馬鹿」
草太はしばらくそのまま眉をつりあげて咲を見下ろしていたが、涙目だった咲がついに泣き出すと、盛大にため息をついてようやく手を離した。
咲は目をこすりながら、じんじんする頬をさする。
「起きろ」
いわれたとおりにもぞもぞと起きあがると、草太のまえにちんまりと正座する。
「家にいるときも出かけるときも鍵をかけろ。炬燵で寝るな。わかったか」
「はい、ごめんなさい」
鼻をすすりながら咲がこくこくとうなずくと、草太はもう一度ため息をついて咲のおでこをぺしっと叩いた。
「いたっ」
「わかったんならいい。泣くな」
「う、」
「息を止めろとはいってねえだろ」
呆れたようにいわれて、咲は小さくなりながらもほっとした。ほっとしたらまた涙があふれてきた。
「あーもう、おい、ティッシュはどこだよ」
聞かれて、咲は周りを見まわす。いつもは炬燵の近くに置いてあるのに見付からない。あれ、と思ったが、部屋を片付けたことを思い出して、なにも考えずに押し入れを指差す。
草太が襖を開けた瞬間、咲はようやく自分がしたことを思い出した。
「あっ」
「あ?」
咲が放り込んだものが雪崩のように畳の上にあふれ出した。黙ってそれを眺めていた草太がゆっくりと振り向く。
「おい、なんだこれは」
地を這うような草太の声にびくっと身を竦める。
「どうせこんなことだろうと思ったぜ。おまえな、カビ臭い押し入れにへんな茸が生えたらどうすんだよこのど阿呆! 小金井のじいさんが泣くぞ!」
「き、きのこなんか生えないもん!」
さすがにそれはない、と思い反論するが、不安になってちらっと押し入れのなかを見てしまう。
「片付けろ。今すぐ。終わるまで飯抜きだからな」
「えっ」
「え、じゃねえだろ」
ティッシュの箱で頭をはたかれる。ぱこん、と間抜けな音がして、中身で乱暴に顔を拭われる。
「んむ」
「ひでえツラだな。ほら、とっとと顔洗ってこい」
草太は無言のまま振り返る。その眼差しにたじろぎながらも咲は訴えた。
「そんなに食べられないよ」
「ああ?」
「ひ、ひとりだもん」
怯みつつもいい返したが一蹴された。
「今さらだろ」
反論できずにしょんぼりとする咲を見ていた草太は、呆れたようにため息をついていった。
「しょうがねえな。月曜日、晩飯作りにいってやるよ」
「えっ」
咲は顔を輝かせた。草太の作ったご飯を食べられるのは素直に嬉しい。
「いいの?」
「ほんと、現金なやつだな」
つっけんどんないいかただが、それまで妙にぴりぴりしていた空気が和らいだ。風向きが変わったようだ。ほっとして、ふへっと笑うととたんに頬をつねられる。
「おまえな、あんま人前でへらへらするんじゃねえぞ」
咲ははっとする。さっきも同じようなことをいわれたばかりだ。顔を鷲掴みされて。
思い出した。そうだ、咲は草太の手に噛みついたのだ。それで草太は怒ったのだろうか。木下にも笑われてしまった。恥ずかしい。
そんなことを考えていると、さらに、むに、と頬をひっぱられた。
「あう」
「なに百面相してるんだよ。笑えるからやめろ」
「ふえ、いひゃいよ」
親子揃ってひとの顔をいじるのが好きらしい。そのうちほっぺたが変形するのではないかと本気で思う。
「で、なにが食いたいんだ」
「へ?」
「月曜日」
「えっと、あっ、ロールキャベツがいいな。まえに作ってくれた、あのチーズ入りの。すごくおいしかった」
そうリクエストすると、草太はまんざらでもないような顔をしてふんと笑う。そうして意地の悪い笑みを浮かべていい放った。
「部屋、さぞかしきれいに片付いてるんだろうな。楽しみにしてるからな」
*****
月曜日。
仕事は休みだが、咲は珍しく部屋の片付けと掃除に精を出した。
草太の手料理につられて、彼を部屋に招くことになったからだ。
おかみさんからは、草太を部屋に入れるなとつねづねいわれていたので反対されるかと思ったが、日曜日にその話をしたところ、予想に反してあっさりと許可がおりた。
おまけに、「もし草太が血迷ったら、遠慮なく殴り倒していいからね」となんとも穏やかでない台詞までついてきた。
よくわからないが、あの草太を殴り倒すような芸当が咲にできるはずがない。そういうと、おかみさんはにやりと笑っていい直した。
いわく、「股間を蹴りあげたらいいから」。
そこでようやく、おかみさんがいう「血迷った」状態がなにを指すのか理解した咲はうろたえて耳まで真っ赤になった。
まさかあの草太が、咲に対してそんな衝動に駆られるわけがない、と思う。
草太は高校生で、咲のほうが年上だ。たぶん三つくらい歳が違う。それに咲にとっては、草太ははじめて出会ったころの、まだ子どもっぽさを残した中学生の印象が強くて、成長してすっかりおとなびた今になっても、そのイメージが拭いきれない。
咲よりよっぽどしっかりしている草太にそんなことをいったら容赦なくでこぴんをお見舞いされてしまいそうだが。
草太だって、しょっちゅう咲のことをどんくさいだのなんだのと散々こきおろしているのだ。まかり間違っても、咲相手に血迷うことはないだろう。ふざけたことを考えるなと罵倒されそうだ。
それに、草太はきっと女の子から人気がある。整った容姿をしているし、口が悪くすぐに手が出るが、なんだかんだいっても結局やさしい、と思う。
聞いたことはないが、付き合っている彼女がいてもおかしくない。
そう考えると、なんだか胸のあたりがもやもやした。
咲は学校での草太を知らない。彼女どころか、草太の友人に会ったのも、偶然、あの木下という少年に出会ったのがはじめてだ。友人たちのまえでは、歳相応に騒いだりじゃれあったり、笑ったりするのだろうか。
咲は、草太の笑顔を見たことがない。せいぜい、意地が悪そうな皮肉めいた笑みを向けられるくらいで。
「うー」
胸にわだかまるもやもやを振り払うように勢いよくかぶりを振ると、咲は炬燵の周りに散らばった服や小物をかき集めて押し入れに突っ込んで襖を閉めた。
これを片付けとはいわないが、とりあえず部屋がきれいに見えるならそれでいい。
寒さを我慢して、ベランダの窓を開けて換気をしながら、炬燵を避けるようにして掃除機をかけ、台所の流しに溜まっていた洗いものにようやく手を付ける。
それだけのことにずいぶん時間がかかった。換気をして冷えきった部屋の空気に耐えきれず、綿入れを着たまま炬燵にもぐり込んで暖をとるうちに、咲はそのままうとうとと眠ってしまった。
べちん、と頬を叩かれた痛みで目が覚めた。
「うぅ、」
「おいこら、起きろ馬鹿」
すぐそばで低い声がして、咲はぎょっとして目を開けた。眩しい。瞬きを繰り返すうちにようやく目が慣れてきて、咲は自分を見下ろしている草太の顔を見た。鬼のような顔をしている。
「え、あ、あれ、なんで」
「なんでじゃねえよこのど阿呆が。あんだけ鍵かけろっていってるだろうが。不用心きわまりない部屋で呑気に寝てんじゃねえよ馬鹿」
馬鹿だのど阿呆だのとひどいいわれようだが仕方ない。どうやら玄関の鍵をかけずにいたらしい、と咲は気付く。だから草太も入れたのだろう。
「ご、ごめんなさい」
素直に謝りながらも逃げるようにじわじわと炬燵のなかにもぐり込もうとすると布団をひっぺがされた。
「炬燵で寝るなっていってるだろうが」
「あう」
今度はほっぺたをひっぱられる。いつも以上に容赦ない。
「いひゃいいひゃい」
「痛くしてんだよ馬鹿」
草太はしばらくそのまま眉をつりあげて咲を見下ろしていたが、涙目だった咲がついに泣き出すと、盛大にため息をついてようやく手を離した。
咲は目をこすりながら、じんじんする頬をさする。
「起きろ」
いわれたとおりにもぞもぞと起きあがると、草太のまえにちんまりと正座する。
「家にいるときも出かけるときも鍵をかけろ。炬燵で寝るな。わかったか」
「はい、ごめんなさい」
鼻をすすりながら咲がこくこくとうなずくと、草太はもう一度ため息をついて咲のおでこをぺしっと叩いた。
「いたっ」
「わかったんならいい。泣くな」
「う、」
「息を止めろとはいってねえだろ」
呆れたようにいわれて、咲は小さくなりながらもほっとした。ほっとしたらまた涙があふれてきた。
「あーもう、おい、ティッシュはどこだよ」
聞かれて、咲は周りを見まわす。いつもは炬燵の近くに置いてあるのに見付からない。あれ、と思ったが、部屋を片付けたことを思い出して、なにも考えずに押し入れを指差す。
草太が襖を開けた瞬間、咲はようやく自分がしたことを思い出した。
「あっ」
「あ?」
咲が放り込んだものが雪崩のように畳の上にあふれ出した。黙ってそれを眺めていた草太がゆっくりと振り向く。
「おい、なんだこれは」
地を這うような草太の声にびくっと身を竦める。
「どうせこんなことだろうと思ったぜ。おまえな、カビ臭い押し入れにへんな茸が生えたらどうすんだよこのど阿呆! 小金井のじいさんが泣くぞ!」
「き、きのこなんか生えないもん!」
さすがにそれはない、と思い反論するが、不安になってちらっと押し入れのなかを見てしまう。
「片付けろ。今すぐ。終わるまで飯抜きだからな」
「えっ」
「え、じゃねえだろ」
ティッシュの箱で頭をはたかれる。ぱこん、と間抜けな音がして、中身で乱暴に顔を拭われる。
「んむ」
「ひでえツラだな。ほら、とっとと顔洗ってこい」