第3話

文字数 3,211文字

 部屋のなかはさらにひどい。
 玄関のすぐ脇が台所になっていて、流しのたらいには使ったあとの食器やマグカップなどが突っ込まれたまま、洗われるのをじっと待っている。
 その台所を含む板間の四畳半と、寝起きをする和室の六畳間、あとは一畳ほどの押し入れが二段と、トイレに浴室、咲の部屋は二階なので、申し訳程度だがベランダもついている。
 築二十年はゆうに経つという古いアパートだが、ひとり暮らしにはじゅうぶんだし、なにより家賃が良心的で、月に二万円なのだ。駅から近いという立地を考えれば、いくら古い物件といえども破格だろう。
 アパートは二階建てで、八世帯が入居できる。あの小金井の善意で運営されているようなものらしく、母子ふたりの母子家庭や、身寄りのない老人、苦学生や、咲のようなひとり暮らしやカップルの男女などが住んでいる。
 六畳の和室には、鹿島家から譲り受けた炬燵が陣取り、それを囲むようにして、服や本やティッシュの箱やタオルや小物などが雑然と散らばっている。
 咲は片付けや整理整頓、掃除のたぐいが苦手だ。よく使うものは手の届く場所に置いておきたいし、となるといちいち片付けるのは面倒で。
 今のように冬ともなると、唯一の暖房器具である炬燵の周りにさまざまなものを集めた状態になってしまう。
 その炬燵のうえに、草太から手渡されたビニール袋とバッグを置いて、上着を脱ぐ。すぐに部屋着用のもこもこの綿入れを羽織って、炬燵のスイッチを入れ、台所に引き返して流しで手を洗う。水が冷たい。
 たらいに溜まった洗いものにちらりと目がいくが、見なかったふりをしてタオルで手を拭き、薬缶を火にかける。
 新年の澄んだ空気の余韻を感じながらも、徐々に日常に戻りつつある一月のなかば。
 今年は例年にないほどの寒波に見舞われて、雪の少ないこの地方でも何度か積雪を見た。
 炬燵以外に暖房器具のないこの部屋では、外との気温差はあまりなく、吐く息が白い。
「寒い」
 ぽつりとつぶやく声は、薬缶を焚きつけるガスの音に呑み込まれた。湯が沸くまでのあいだに、咲はまだ冷たい炬燵に入ってバッグから封筒を取り出す。
 弁当屋の給料は振り込みではなく手渡しで、給料日は心が浮き立つ。
 根がずぼらな咲は、給料をもらったその日のうちに、月ごとに支払う家賃や公共料金を抜き出してべつにしておく。一見、堅実な行為だが、咲の場合、そうしておかないと手許にあるお金を考えなしに使いきってしまうのだ。
 そのせいで、過去に公共料金を滞納してしまう羽目になり、草太に散々説教をされた経緯があった。おかみさんと似て、怒ると容赦ない草太に叱られるのは恐ろしい。
 以来、草太にいわれたとおり、給料日にはこうして神妙な面持ちで仕分けを行うのが咲の習慣になった。
 支払いに必要なお金を封筒にしまうと、残りの紙幣や小銭は財布に入れる。
 ほんとうは、これも食費やその他のお金と分けるようにいわれているのだが、支払いを滞納するのとは異なり、あとで足りなくなっても困るのは咲自身なので、まあいいやと流してしまっている。
 そのせいで実際、給料日前には泣きを見るのだが、咲は懲りない。
 草太にはうすうす気付かれているようだが、もしほんとうにばれたら、でこぴんどころでは済まないだろう。そう考えてぞっとしながらも、一連の儀式を終えると、封筒を引き出しのなかにしまった。
 湯が沸いたのでお茶を淹れて、もらったあまりものを開けていく。まだ温かい白ご飯と、今日のおかずはコロッケとエビフライに、きんぴらごぼうとポテトサラダが詰められていた。
「やったー」
 咲は手を叩いて顔をほころばせる。全部咲の好物で、なかでもコロッケは滅多に残ることがないので、今日はラッキーだった。
 このコロッケは小ぶりで、普通のコロッケのように平べったい小判型ではなく、立体的な円型をしている。じゃがいもにしっかり味がついていて、ソースなどは必要ない。おまけに、冷めてもおいしい。
 もくもくとコロッケを頬張っていた咲は、部屋がしんとしていることにようやく気付いて、あわててリモコンを引き寄せてラジオを流した。いつもこの時間帯に聴いている女性パーソナリティの柔らかな声にほっとして、ふたたび箸を動かしはじめる。
 テレビはいつか欲しいとは思っているけれど、そうするとますます部屋が狭くなるし、テレビにうつつを抜かして今よりもさらに堕落した暮らしぶりになることはわかりきっているので、しばらくはこのままでいいかなとも思う。
 それに、こうしてひとり暮らしをはじめてからラジオを聴くようになったのだが、ラジオ番組はほとんどが生放送で、パーソナリティやリスナーの声や言葉がリアルタイムで聴けるため、なんだかすぐ傍にその人たちがいるように感じられて、ひとりでいるという気がしない。
 その不思議な距離感が心地好い。
 ふいにこぼれそうになる「寂しい」という言葉を、寄り添うようなやさしい声が、つかのま忘れさせてくれた。

 翌日。仕事が終わったあと、いつものようにアパートまで送ろうとやってきた草太に、咲は手を振った。
「あっ、草太くん、今日は送ってくれなくていいです」
「ああ?」
 すでにダウンジャケットを羽織っていた草太は、凄むような低い声で聞き返した。その迫力におののきながらも咲はおどおどと説明する。
「コ、コンビニに寄って帰るから」
 今度、仕事が休みの月曜日にスーパーに行こうと思っていたのだが、給料日まえから冷蔵庫はすっからかんで、それは賄いがあるからまだなんとかなるのだが、シャンプーを昨夜で使いきってしまった。それを思い出したのだ。
 実は、ほんとうはすでに一度なくなったものを、水で薄めてなんとか使いまわしていた。
 咲は片付けなんかは苦手だが、風呂は好きで、髪も毎日洗いたい。今夜のためにもシャンプーを買いたかった。
「ちっ、仕方ねえな。ついて行ってやるよ」
「えっ、あ、ありがとう」
 舌打ちをして悪態をつきながらも、わざわざついてきてくれるという草太はやさしい。
「おまえどうせ、給料日まえから家でろくなもん食ってねえんだろ。コンビニじゃなくてスーパーにしろ。野菜も買え」
「ええー」
 やさしいが、ときにお節介だ。それが顔と声に出ていたのか、思いきりほっぺたをひっぱられた。
「いひゃい!」
「返事は」
「うー、……あい」
 涙目でうなずくと解放された。この親子はほんとうにそっくりだ。
 片付けをしながらやりとりを眺めていたおかみさんが草太にいった。
「草太、あんたへんなところに咲ちゃん連れ込むんじゃないよ」
「しねえよ。ていうか咲に妙なこと吹き込むのやめろ」
「ああ? 妙なことってなんだよ」
 聞き返されて草太は黙った。じんじんする頬を押さえてぼんやりとふたりを眺めていると、草太からでこぴんを食らった。
「いたっ、な、なに」
「ぼさっとしてんじゃねえよ。とっとと着替えてこい」
 なんだかとばっちりを受けただけの気もするが、咲は逆らわずにおとなしく休憩室に向かった。

 スーパーは駅の近くにある。
 咲が住むアパートからは反対方向になるが、わざわざついてきてくれるという草太に余計なことをいうとまた痛い目に遭うに違いないので、咲は素直に従って草太の後ろをついて歩いた。
 冬の夜は早く、そして長い。
 あたりはすでに真っ暗だが、駅に向かうにつれて飲み屋や商店が増えてくるので、しだいに周囲はあかるくなってきた。
 土曜日の夜ということもあってか出歩いている人は多い。部活帰りなのだろうか、こんな時間に、ちらほらとだが学生服の生徒たちの姿も見える。
 詰襟の制服は、草太が通っているこの近くの高校のものだろう。三人連れの高校生のうちのひとりが、こちらを見て駆け寄ってきた。
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