第14話

文字数 3,194文字

「咲ちゃん」
 隣の小金井が気遣わしげに声をかけてくる。すると今度は反対側からぐいっと肩を引き寄せられた。ぎゅむ、と顔を押しつけられて、そこから馴染みのある洗剤の匂いがした。
 草太の匂いだ。
「さ、咲?」
 狼狽した声で咲の名を呼ぶ男を、おかみさんと小金井がふたりで宥める。
「まあまあ、落ち着いて。今日はいろいろあって、咲ちゃんもいっぱいいっぱいなんでしょう。そっとしてあげましょう」
「そうそう、あとはうちの倅に任せて。草太、咲ちゃん疲れてるだろうから、奥で寝かせてやりな」
「ああ」
 草太はあっさりと承知すると、泣きじゃくる咲を抱きあげて部屋を出る。連れていかれたのは、この家に居候として住んでいたときに、咲の部屋として与えられた和室だった。
 畳のうえに膝をついた草太が、いったん咲をおろそうとする。
「ほら、手え離せ」
 そういわれたが、咲は草太の首に両腕をまわしてしがみつく。
「おい」
「うう」
 いやいやをするように首を振ると、草太がため息をついた。
「わかったよ。このままにしてやるから、ちょっと、力緩めろ」
「う」
 すとんと草太の膝のうえにおろされ、横抱きにされる。首に巻きつけていた腕をずらして草太の背中にまわす。
「タオル貸せ」
 握りしめていた濡れタオルを渡すと、まだじんじんする頬を冷やされた。
 そのまましばらくのあいだ、咲は泣きつづけた。そうして泣きながらうとうとしていたらしい。
 ふっと目を覚ますと、すぐそばで草太が咲の顔を見つめていた。
「う、んぐ」
 鼻をすすってきょろきょろとあたりを見まわす。整然と片付けられた見覚えのある和室。
 思い出した。
「お父さん、は」
「さっき帰った。またくるらしいぜ」
「え」
「なんつーか、よく似た親子だよな」
「へ?」
「鈍いっつーか、思い込みが激しいっつーか。無器用すぎるだろ」
「ええっ」
 父親と似ているところなどまったくないと思っていたのに。
「どうする、次きたとき、追い返すか?」
 不穏なことをいう草太にぎょっとする。
「な、なんで」
「なんでっておまえ、会いたくないとか思わねえの」
 そんなことは思わなかった。咲のことを気にかけてくれたとわかっただけで嬉しかった。でも、父親とどうやって話したらいいのかわからない。
 そんなことをぐるぐる考えていると途中で遮られた。
「いや、もういい。どうせ今は頭んなかいっぱいいっぱいだろ。とりあえず寝ろ」
 身体を離されそうになってあわててしがみつく。草太が眉をしかめた。
「離せ」
「や」
 う、と草太が呻く。見ると、ものすごい仏頂面をしている。
「や、じゃねえよ、ガキじゃあるまいし」
「子どもじゃないもん」
「だから厄介なんだよ」
「え」
 はあ、と盛大にため息をついて草太がぼやく。
「なんでこういうときだけそんな積極的なんだよ。わざとか? いや、そんな脳はねえよな、くそ」
「積極的? え、なにが?」
 きょとんとする咲を睨むと草太は力ずくで身体を引き剥がした。
「あっ」
「いいからおとなしく寝てろ」
 咲は急いで草太の服を掴む。
「おまえな」
「だって、草太くん、また遠くにいっちゃう」
「は?」
 咲は必死だった。
 突然やってきた家族のことでまだ混乱しきっていたが、そのおかげで、こうしてまた草太と話せるようになったのだと思うと――嬉しかった。
「お、怒らないで。ごめんなさい。わたし、あの、」
 草太は怪訝な顔をして咲の言葉を聞いている。
「い、痛くてもいいから、我慢するから、あの、まえみたいに、さ、触ってほしい」
 しどろもどろにいったとたん、ものすごい力で抱き寄せられた。
 さっそくでこぴんされたりほっぺたをつねられるのではなくて少しほっとしたけれど、これはこれで、なんだろう、今さらながらどきどきしてきた。
「っくそ、おまえ、ほんとタチ悪い。今の台詞、覚えてろよ?」
 覚えてろよ、といわれておののく咲の耳許に唇を寄せて草太がささやく。
「まさか忘れてないよな? あのときおれがいったこと」
「ひ、」
 耳に息がかかって首を竦める。背中がぞくぞくして咲は悶えた。
「そ、草太く」
「じっとしてろ。離れたくないっていったのはおまえだろ」
「あう」
 くすぐったいようなへんな感じがして、耳を掠める草太の唇から逃げようと反対側へ顔を向けると、草太の胸許にぶつかる。咲はそのままぐりぐりと額を押しつけた。
「だからおまえは、ほんと、なんなんだよ。なんでそんないちいちかわいいわけ? ああ? そんなにおれの理性ぶっ飛ばしたいのか? え?」
 なんだろう、草太が、こわい。痛いことをされそうというこわさではなくて、なんというか、もっとこう、いつもの草太と違う気がする。
 そこでようやく咲はとんでもないことに気付く。今、草太は、咲をかわいいといった。咲の聞き間違いでなければ、そう聞こえた。
 草太がそんなことをいうはずがない。やっぱりおかしい。
「自覚がねえのがタチ悪すぎだろ。なあ、おまえを好きだっていってる男にしがみついて、触ってほしいとかほざくど阿呆、世のなか探してもおまえくらいのもんだよ。もう煽ってるとしか思えねえだろ、え?」
「…………え?」
 おまえを、好き?
 つまり、草太が、咲を?
「ええええっ」
 咲はびっくりして草太を見あげた。
「す、好きって、あの、ほんとうに?」
「ちょっと待て。なんだその反応は。おまえ、まだわかってなかったのか」
「う、だ、だって、まさか、そんな」
「まさかそんな、なんだよ?」
「わ、わたし、年上だし」
「おまえみたいな粗忽者がおれより年上とか思ってねえし関係ねえ」
 一蹴された。
「り、料理も、片付けも、全部だめだし、ずぼらだし」
「今さらだろ」
 あたりまえのように受け流された。
「いいところなんか、なにもないのに」
「ほんとにそう思ってるのか」
「だって」
 赤く腫れた頬に草太の手が触れる。驚くほど冷たい指先が、ひやりとして気持ちいい。
「まあ、あのけばけばしい鬼ババアに虐げられてたら、おまえみたいなやつは萎縮しちまうかもな」
 もう一方の手が咲の頭を撫でる。
「おまえがほんとにどうしようもない人間だったら、おれの親父もお袋も、小金井のじいさんも、秋吉さんも、親身になったりしねえよ。おまえはだめじゃねえ。たしかに、どんくさいし放っといたらなにしでかすかわかんねえから目え離せないけどな。ほんと手がかかる女だけど、あいにくおれはそういうのが嫌いじゃねえ。ていうか、むしろ好きだ」
 目を見開く咲を見つめて、草太は笑った。
「馬鹿なやつほどかわいいっていうだろ」
 草太が、笑った。
 皮肉混じりの笑みではなく、はじめて見る、他意のないきれいな笑顔だった。咲は耳まで真っ赤になって顔を覆う。
「うあ」
「おいこら。目を逸らすな」
「むりです!」
 なぜか敬語になって咲は叫んだ。
「そっ草太くんへんです! い、いつもはこんなんじゃ……っ」
「おまえがかわいいことばっかするからだろ。なに、照れると敬語になるのかおまえ、かわいいな」
「まっまたっ!」
 かわいいっていった。
 恥ずかしくて頭がおかしくなりそうだと咲は思う。
「この程度で恥ずかしいとかどうなんだよ。おれを見ろよ。公衆の面前で、おまえを好きだってバラされたんだぞ。っとに、息子をなんだと思ってるんだよ」
 そういわれて大変なことに気付いた。
「ま、まさか、おかみさんも、あの、このこと、知って……」
「ああ? いまいましいことに、とっくのむかしにバレバレだよああむかつく」
「うああ」
 気が遠くなってきた。
「おい、咲? おい!」
 ぐらぐらと揺さぶられた気がしたが、咲はそのまま意識をうしなった。
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