第16話
文字数 2,945文字
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鹿島家の和室で寝ているときに窓の向こうが白く見えたのは、天気予報どおり、雪が積もっていたらしい。
ゆっくりと休んだおかげで咲はすぐに元気になり、火曜日から仕事にも復帰してアパートに戻った。
雪を降らせた寒波は長く居座り、店休日の木曜日まで街を白く染めた。
その木曜日。
咲は珍しく早起きをして、雪のなかを買いものに出かけた。どうしても今日、買わなければいけないものがあった。
咲は料理が苦手だ。実家では、咲が台所に入るのを母親が嫌ったため、料理をする機会がほとんどなかったし、中学生のときに調理実習の授業で作って家族にと持ち帰った焼き菓子は、その日の夜にごみ箱に捨てられていた。
だから、咲は今まで、仕事以外でだれかのために料理をしたことはない。失敗することを考えて、念のため、予備も用意しておいた。
慣れないことをすると緊張する。部屋のなかは寒いはずなのに、咲はへんな汗をかきながら台所に立っていた。
あっというまに時間が過ぎて、作業が終わったときにはとっぷり日が暮れていた。
あとは明日の夜だ、と思い、例のごとく流しにたんまりと溜まった洗いものに手を付けたとき、玄関のドアが叩かれた。
びっくりして咲は飛びあがる。
訪ねてくるのは、草太か隣の秋吉夫人くらいだが、秋吉夫人ならもう少し控えめなノックをするはず。
予想外のできごとに咲はあわてた。今日、草太がくるなんて考えていなかった。
「おい、開けろ咲」
間違いない。草太だ。
諦めてくれないかなと思うが、そうはいかない。
「てめえ、こら、いるのはわかってるんだよ。とっとと開けろ」
脅しのような台詞に観念してドアを開けると、学校帰りにそのまま寄ったらしく、詰襟姿の草太が立っていた。黒い肩に白い雪が散っている。
「草太くん、なんで」
「きたら悪いか」
「そ、そんなことは」
「じゃあなんでそんな微妙な顔するんだよ。なんかまずいことでもあるのか」
「…………う、」
草太が眉を跳ねあげて玄関先から部屋のなかを覗く。
「だれかきてるのか」
「へ?」
きょとんとする咲に舌打ちして、とたんに草太は顔をしかめる。唇の左端が紫色の痣になっている。数日が経つが、何度見ても痛々しい。口のなかも切っているらしく、手加減なしに殴られたのだろう。
おかみさんの仕業だ。
「大丈夫?」
「このくらいどうってことねえよ。……あ?」
なにかに気付いたように草太がくんと鼻を鳴らす。ぎくりとして咲は目を逸らした。
「なんだこの甘ったるい匂いは」
咲は目を伏せてじりじりとあとずさる。草太が革靴を脱ぎ捨ててずかずかと台所に踏み込んできた。流しに溜まった調理器具を見られたら、料理好きな草太にはたぶん見抜かれてしまう。
どん、と背中が冷蔵庫にぶつかる。すぐ目のまえに草太がやってきた。
冷たい指先に顎を掬われ顔をあげさせられる。草太は、口許の痣のせいでいつも以上に凄みを増した笑みを浮かべている。だけど、どう見ても目が笑っていない。
「なあ、料理が苦手なお前がなに珍しいことしてるんだよ」
「あう」
「これ、なんの匂いかいってみろ」
わかっているくせに意地が悪い。だが、こうなったらもうごまかすのは難しい。
「チョコレート、です」
「そのチョコレート、どうするんだ」
「あ、あげるの」
「だれに?」
咲は頬をふくらませて草太を睨む。せめてもの意趣返しにと答える。
「旦那さんと、おかみさんと」
「ああ?」
「いひゃいいひゃい!」
思いきりほっぺたをひっぱられた。
「痛くても我慢するんだろ?」
たしかにそういったけれども。咲は涙目で草太を見あげる。
「つ、作ったのは、草太くんだけ」
ほっぺたが解放される。
「いちおう念のため聞いとくけど、今日がなんの日かわかってるよな」
「……ん」
「おれがおまえを好きだっていうのもわかってるよな」
「う、ん」
「じゃあ、おれに手作りのチョコを渡すのがどういうことかも、もちろんわかってるよな?」
咲は真っ赤になって目を背ける。
「おれになんかいうことあるだろ」
「き、今日はだめ」
「は?」
「明日、仕事のあとで渡そうと思って。だから、まだ心の準備が」
「そんなものいるか。ぶっつけ本番でいけ」
「ええええむりです!」
「おれが今までどれだけおあずけ食らったと思ってるんだよ。この期に及んでまだ焦らす気か」
「だ、だって、まだチョコも固まってないし」
「それはあとでいい」
「うあ」
顔を覗き込まれて視線を繋がれる。だめだ。もう逃げられない。
「、き」
「聞こえねえ」
「すき」
「もう一回」
「好き」
「もう一回」
「も、むり、です」
くしゃりと顔を歪めて降参すると、冷たい腕に抱きしめられる。咲の髪に鼻先を埋めた草太が微かに息を吐く。
時間差で、心臓がどくどくと暴れ出した。咲は耳まで真っ赤になって、金魚のようにぱくぱくと口を開いて必死に酸素を取り込む。
こうして草太に抱き寄せられるのははじめてではないのに、一度意識してしまったらもう、恥ずかしくてたまらない。
「どういう心境の変化だよ」
「ふぇ?」
「おまえからそういわれるの、もっと先だと思ってた。だからそれまでのあいだ、せいぜいおれを意識して動揺してればいいと思ってたのに」
「えええ」
そんなことになったら心臓が持たない。
あのあと、熱が下がってから、咲なりにいろいろと考えてみた。考え過ぎてまた熱があがるのではないかと思うくらい、ぐるぐると考えた。
家族のこと。草太のこと。
今まで咲が思い込んでいたことが、あっというまにいくつもひっくり返されて、思ってもみなかった展開になって。
咲のことに無関心だと思っていた父親と弟が咲のために動いてくれた。それだけですごく嬉しかった。
今まで咲のために、あらゆる面で親身になってくれた鹿島家の人びとや小金井老人、秋吉夫人に、感謝の気持ちでいっぱいで。
そして、咲をだめな人間ではないと、そんな咲を好きだといってくれた草太。
彼のことを思うと、鼓動が速くなって胸のあたりがぎゅっと苦しくなって。今までどうやって草太と接してきたのかがわからなくなった。
どうして今まで、なんでもないようにふつうに顔を見ることができたのだろう、話ができたのだろうと、不思議でしかたない。
咲のなかではずっと中学生のころのままだった草太が、突然、現在の姿に成長したみたいで、もう、彼を男の子だとは思えなくなっていた。
草太は男で、異性だった。
そう気付いてしまったら、知らなかったころの自分にはもう戻れない。最近ずっと、そわそわ、どきどき、もやもやしてもつれていた糸をほどいていくと、そのすべては草太に繋がっていた。
というふうにいろいろと考えたけれど、結局、言葉に変換するよりも、草太に反応してどきどきしてしまう、この身体と心が答えなのだと思った。
だから、ちょうど間近に迫った一大イベントに、はじめて自分から行動を起こそうと思っていたのに。
いちおう目的は果たしたけれど、なんとも中途半端な状態で、うまくいったとはいいがたい。
鹿島家の和室で寝ているときに窓の向こうが白く見えたのは、天気予報どおり、雪が積もっていたらしい。
ゆっくりと休んだおかげで咲はすぐに元気になり、火曜日から仕事にも復帰してアパートに戻った。
雪を降らせた寒波は長く居座り、店休日の木曜日まで街を白く染めた。
その木曜日。
咲は珍しく早起きをして、雪のなかを買いものに出かけた。どうしても今日、買わなければいけないものがあった。
咲は料理が苦手だ。実家では、咲が台所に入るのを母親が嫌ったため、料理をする機会がほとんどなかったし、中学生のときに調理実習の授業で作って家族にと持ち帰った焼き菓子は、その日の夜にごみ箱に捨てられていた。
だから、咲は今まで、仕事以外でだれかのために料理をしたことはない。失敗することを考えて、念のため、予備も用意しておいた。
慣れないことをすると緊張する。部屋のなかは寒いはずなのに、咲はへんな汗をかきながら台所に立っていた。
あっというまに時間が過ぎて、作業が終わったときにはとっぷり日が暮れていた。
あとは明日の夜だ、と思い、例のごとく流しにたんまりと溜まった洗いものに手を付けたとき、玄関のドアが叩かれた。
びっくりして咲は飛びあがる。
訪ねてくるのは、草太か隣の秋吉夫人くらいだが、秋吉夫人ならもう少し控えめなノックをするはず。
予想外のできごとに咲はあわてた。今日、草太がくるなんて考えていなかった。
「おい、開けろ咲」
間違いない。草太だ。
諦めてくれないかなと思うが、そうはいかない。
「てめえ、こら、いるのはわかってるんだよ。とっとと開けろ」
脅しのような台詞に観念してドアを開けると、学校帰りにそのまま寄ったらしく、詰襟姿の草太が立っていた。黒い肩に白い雪が散っている。
「草太くん、なんで」
「きたら悪いか」
「そ、そんなことは」
「じゃあなんでそんな微妙な顔するんだよ。なんかまずいことでもあるのか」
「…………う、」
草太が眉を跳ねあげて玄関先から部屋のなかを覗く。
「だれかきてるのか」
「へ?」
きょとんとする咲に舌打ちして、とたんに草太は顔をしかめる。唇の左端が紫色の痣になっている。数日が経つが、何度見ても痛々しい。口のなかも切っているらしく、手加減なしに殴られたのだろう。
おかみさんの仕業だ。
「大丈夫?」
「このくらいどうってことねえよ。……あ?」
なにかに気付いたように草太がくんと鼻を鳴らす。ぎくりとして咲は目を逸らした。
「なんだこの甘ったるい匂いは」
咲は目を伏せてじりじりとあとずさる。草太が革靴を脱ぎ捨ててずかずかと台所に踏み込んできた。流しに溜まった調理器具を見られたら、料理好きな草太にはたぶん見抜かれてしまう。
どん、と背中が冷蔵庫にぶつかる。すぐ目のまえに草太がやってきた。
冷たい指先に顎を掬われ顔をあげさせられる。草太は、口許の痣のせいでいつも以上に凄みを増した笑みを浮かべている。だけど、どう見ても目が笑っていない。
「なあ、料理が苦手なお前がなに珍しいことしてるんだよ」
「あう」
「これ、なんの匂いかいってみろ」
わかっているくせに意地が悪い。だが、こうなったらもうごまかすのは難しい。
「チョコレート、です」
「そのチョコレート、どうするんだ」
「あ、あげるの」
「だれに?」
咲は頬をふくらませて草太を睨む。せめてもの意趣返しにと答える。
「旦那さんと、おかみさんと」
「ああ?」
「いひゃいいひゃい!」
思いきりほっぺたをひっぱられた。
「痛くても我慢するんだろ?」
たしかにそういったけれども。咲は涙目で草太を見あげる。
「つ、作ったのは、草太くんだけ」
ほっぺたが解放される。
「いちおう念のため聞いとくけど、今日がなんの日かわかってるよな」
「……ん」
「おれがおまえを好きだっていうのもわかってるよな」
「う、ん」
「じゃあ、おれに手作りのチョコを渡すのがどういうことかも、もちろんわかってるよな?」
咲は真っ赤になって目を背ける。
「おれになんかいうことあるだろ」
「き、今日はだめ」
「は?」
「明日、仕事のあとで渡そうと思って。だから、まだ心の準備が」
「そんなものいるか。ぶっつけ本番でいけ」
「ええええむりです!」
「おれが今までどれだけおあずけ食らったと思ってるんだよ。この期に及んでまだ焦らす気か」
「だ、だって、まだチョコも固まってないし」
「それはあとでいい」
「うあ」
顔を覗き込まれて視線を繋がれる。だめだ。もう逃げられない。
「、き」
「聞こえねえ」
「すき」
「もう一回」
「好き」
「もう一回」
「も、むり、です」
くしゃりと顔を歪めて降参すると、冷たい腕に抱きしめられる。咲の髪に鼻先を埋めた草太が微かに息を吐く。
時間差で、心臓がどくどくと暴れ出した。咲は耳まで真っ赤になって、金魚のようにぱくぱくと口を開いて必死に酸素を取り込む。
こうして草太に抱き寄せられるのははじめてではないのに、一度意識してしまったらもう、恥ずかしくてたまらない。
「どういう心境の変化だよ」
「ふぇ?」
「おまえからそういわれるの、もっと先だと思ってた。だからそれまでのあいだ、せいぜいおれを意識して動揺してればいいと思ってたのに」
「えええ」
そんなことになったら心臓が持たない。
あのあと、熱が下がってから、咲なりにいろいろと考えてみた。考え過ぎてまた熱があがるのではないかと思うくらい、ぐるぐると考えた。
家族のこと。草太のこと。
今まで咲が思い込んでいたことが、あっというまにいくつもひっくり返されて、思ってもみなかった展開になって。
咲のことに無関心だと思っていた父親と弟が咲のために動いてくれた。それだけですごく嬉しかった。
今まで咲のために、あらゆる面で親身になってくれた鹿島家の人びとや小金井老人、秋吉夫人に、感謝の気持ちでいっぱいで。
そして、咲をだめな人間ではないと、そんな咲を好きだといってくれた草太。
彼のことを思うと、鼓動が速くなって胸のあたりがぎゅっと苦しくなって。今までどうやって草太と接してきたのかがわからなくなった。
どうして今まで、なんでもないようにふつうに顔を見ることができたのだろう、話ができたのだろうと、不思議でしかたない。
咲のなかではずっと中学生のころのままだった草太が、突然、現在の姿に成長したみたいで、もう、彼を男の子だとは思えなくなっていた。
草太は男で、異性だった。
そう気付いてしまったら、知らなかったころの自分にはもう戻れない。最近ずっと、そわそわ、どきどき、もやもやしてもつれていた糸をほどいていくと、そのすべては草太に繋がっていた。
というふうにいろいろと考えたけれど、結局、言葉に変換するよりも、草太に反応してどきどきしてしまう、この身体と心が答えなのだと思った。
だから、ちょうど間近に迫った一大イベントに、はじめて自分から行動を起こそうと思っていたのに。
いちおう目的は果たしたけれど、なんとも中途半端な状態で、うまくいったとはいいがたい。