第20話
文字数 3,475文字
図書館を出てからしばらくして、木下と別れた。
草太のご近所さんなら帰る方向は同じはずなのに、と首を傾げる咲に「や、さすがにおれもそこまで野暮じゃないっす」とよくわからないことをいって、元気よく手を振って走り去っていった。
草太とふたりきりになる。
すっかり日が暮れてあたりは真っ暗だ。人通りのある明るい道を選んで先を歩く草太の後ろを、咲は小走りになりながら懸命についていく。
いつもなら、草太と一緒に歩くときに、こんなふうに息を乱すようなことはない。やっぱり怒っているのだろうか、と不安になる。
以前にもこんなことがあった。
そういえば、あのときも木下と別れたあとだった、と思い出す。振り向いてほしい、と思う。
すると、まるで咲の声が聞こえたかのように草太が足を止めて振り返る。そして、息を切らして追いついた咲を見て眉をひそめる。てっきり「遅い」と怒られるのだと思い、首を竦めた。びくびくと肩を震わせる咲に、草太はやはり仏頂面のまま小さくため息をつく。
「怒ってねえからびくびくすんな」
「えっ」
「おまえにそうやってビビられるとむかつく」
どこかで聞いたような台詞だ。咲はあわてて謝る。
「ご、ごめんなさい」
「……、べつに謝ることはねえ」
はあ、と息を吐いて草太は空いたほうの手を伸ばしてくる。が、なにかを思い出したようにポケットからハンカチを取り出して手を拭いてから、もう一度、咲のほうへと手を差しのべた。その手が、咲の手を掴む。
冷たい感触と、ふいに触れられたことにびっくりして目を見開く。草太は咲の手を掴んだままふたたび歩きはじめる。今度は小走りになることはない。咲の歩調に合わせてくれているのだと気付く。
手を繋ぐというより手を引かれて歩いているといった具合だったが、恥ずかしさよりも嬉しい気持ちが勝って、思わず草太の手をぎゅっと握り返した。歩きながら草太がちらりと咲を見下ろす。ふにゃりと笑う咲を見てすぐに目を逸らし、口のなかでなにやら悪態をつく。掴まれていた力が緩み、手を振りほどかれるのかと思ったが、草太は咲のてのひらと自分のてのひらをぴたりと合わせると指を絡めてきた。
もうどう見ても、手を引かれているのではなく、繋いでいるといっていい。今さらながら、頬がかっと熱くなるのを感じた。寒くて息が白く染まるくらいなのに、首からうえだけが異様に熱い。
沈黙が続く。
草太は自分からはあまり話をしない。一緒にいるときに咲に対して、足許をよく見ろだとかよそ見するなとか、好き嫌いせずに野菜も食えだとか、そういう小言めいたことを口にするくらいで、自分のことは話さない。もともとそうだったのだけど、草太と、その、今のような関係になってから、咲はあらためてそれを感じるようになった。
「草太くん」
手を繋いで、半歩遅れて歩きながら話しかける。草太は視線だけで返事をする。
「部活、入ってたんだね」
「ああ」
なんだそんなことか、というふうに草太は短く答える。それ以上、話すつもりはないらしい。咲はうつむくと、交互に動く自分の足を見つめてつぶやく。
「知らなかった」
草太はびっくりするほど咲のことをよく知っているのに、咲は草太のことをほとんど知らない。とくに、学校のこととなると、なにも知らないといっていい。
視線を感じて顔をあげると、草太がまじまじと咲を見つめていた。
「草太くん?」
「知りたいなら聞けばいい」
ぶっきらぼうにそういうとふいっとまえを向いてしまう。咲はきょとんとする。それから、そうか、聞いてもいいのか、と思った。
子どものころからずっと、家族に対していいたいこと、聞きたいことを言葉にできず、全部呑み込むのがあたりまえだと思っていたので、そのくせがついていた。
そうか、聞いてもいいのか。胸のなかでそう繰り返す。頬に火照りを残したまま、咲ははにかむように笑いながら隣の草太を見あげた。
「草太くんのこと、もっと知りたいです」
繋いだ手をぐっと握りしめられて咲は目を見開く。草太はそっぽを向いて長い長いため息をつくと、低い声でつぶやいた。
「おまえほんと、タチ悪い」
「えっ」
「いちいちかわいすぎてなんか腹立つっていってんだよ、くそっ」
「え、ええっ」
思いがけない草太の台詞に動揺して、咲は赤くなったり青くなったりと忙しい。草太の口から「かわいい」という言葉が飛び出すと要注意だ。そのうえ、腹が立つ、とまでいわれてかなしくなる。
狼狽するあまり、繋いだてのひらにどっと汗がにじむのがわかる。あわてて手を離そうとするが、草太がそれを許さない。とにかく今は手を振りほどこうとじたばたする咲をしっかりととらえたまま、意地の悪い顔をした草太がからかうようにいう。
「おまえ、すげえ汗」
「だ、だって草太くんが」
「おれがなんだよ」
繋いだ手にすっかり気を取られて、アパートのまえまで帰ってきたことに咲はまだ気付いていない。
そのまま草太に手を引き寄せられ、電柱の陰、塀に背中を押しつけられる。そうして逃げ道を塞ぐように、顔の横に草太が手をつく。驚いて目を見開いた咲が声を発するより先に、その唇を草太が塞いだ。
頭のなかが真っ白になる。
キスをされるのははじめてじゃない。今までにも何度か経験したことがある。だけどそれは、玄関や部屋のなかでのことで、こんなふうに人目につく場所でされたことはない。いくらあたりはすでに暗いとはいえ、街灯などのあかりで姿は見えてしまう。いちおうは陰に隠れているものの、電柱のうえにはその街灯がついているのだ。
空いたほうの手で必死に草太の胸を押し返そうとするが、びくともしない。草太は一度、唇を離したあと、また角度を変えて咲の口と抵抗を封じた。
ふと、ひとの気配がしたかと思うと、あどけない声があたりに響いた。
「さきちゃん、ちゅーしてる」
「こら、健!」
あわてたような女性の声がたしなめる。咲とは違う意味で口を塞がれたのか、子どもがもごもごとなにかを訴えるような声が聞こえてくる。
ようやく草太が顔を離す。
解放された咲はあわあわしながら、声がしたほうを見た。少し離れたところに、隣人の秋吉夫人とその子どもが佇んでいる。正確にいうと、秋吉夫人は身を屈めて、足許にいる小さな息子の口を手で覆っている。
咲は口をぱくぱくさせて隣人を凝視する。そんな咲に困ったように笑いかけて、秋吉夫人はのんびりといった。
「ごめんなさいね、せっかくのところをお邪魔しちゃって」
嫌味ではなく、ほんとうにすまなそうにいわれてしまい、咲の羞恥心が一気に限界を超えた。
「そ」
顔を真っ赤にした咲は涙目になりながら叫んだ。
「草太くんのばかああああ!!」
呆気に取られた草太の手を振りほどくと、いつもの咲からは考えられないような素早さでアパートの外階段を駆けあがり、ポケットから鍵を取り出してドアを開けると玄関に滑り込み、内側から鍵をかけた。真っ暗な玄関にずるずるとしゃがみ込み、両手で顔を覆い隠す。すぐにドアの向こうに気配がして、外側からドンドンと叩かれた。ドアに背中をあずけていた咲はびくっと震えて身体を強張らせる。
「咲、開けろ」
ドア越しに聞こえる草太の声に、頭のてっぺんから湯気が出そうなほど顔じゅうが真っ赤になるのがわかる。沸騰しすぎて、頭がぼうっとしてきた。
「悪かった。咲、開けてくれ」
しばらくドアを叩いていた草太の言葉が、開けろという命令形から懇願めいたものに変わる。
そろそろドアが壊れそうだし、なにより近所迷惑だ。
そう思うのに、呆けたようになって身体が動かない。見兼ねたのだろう、秋吉夫人が草太になにかいっているのが聞こえてくる。
ようやくあたりが静かになり、しばらくして、ふたたび草太の声がした。
「咲、悪かった。ちゃんと戸締まりして寝ろよ」
そのあと数分間、草太がじっと佇んでいるような気配がしていたが、やがて諦めたように去っていく足音が聞こえた。代わりに、秋吉夫人がドア越しに語りかけてくる。
「咲ちゃん、ほんとうにごめんなさい。風邪を引かないように、ちゃんとあたたかくして寝てね」
秋吉夫人はなにも悪くない。そういいたいのに、咲は身じろぎひとつできない。放心したようにへたり込んでいた咲は、ふいに寒気を感じてぶるっと震えた。上着を着ているとはいえ、冷たいコンクリートにずっと座っていたため、身体が冷えきっていた。
のろのろと立ちあがると、電気を点けて、靴を脱ぐ。
ついさっきまで草太と繋いでいた手も、今はもう、指先まですっかり冷たくなっていた。
草太のご近所さんなら帰る方向は同じはずなのに、と首を傾げる咲に「や、さすがにおれもそこまで野暮じゃないっす」とよくわからないことをいって、元気よく手を振って走り去っていった。
草太とふたりきりになる。
すっかり日が暮れてあたりは真っ暗だ。人通りのある明るい道を選んで先を歩く草太の後ろを、咲は小走りになりながら懸命についていく。
いつもなら、草太と一緒に歩くときに、こんなふうに息を乱すようなことはない。やっぱり怒っているのだろうか、と不安になる。
以前にもこんなことがあった。
そういえば、あのときも木下と別れたあとだった、と思い出す。振り向いてほしい、と思う。
すると、まるで咲の声が聞こえたかのように草太が足を止めて振り返る。そして、息を切らして追いついた咲を見て眉をひそめる。てっきり「遅い」と怒られるのだと思い、首を竦めた。びくびくと肩を震わせる咲に、草太はやはり仏頂面のまま小さくため息をつく。
「怒ってねえからびくびくすんな」
「えっ」
「おまえにそうやってビビられるとむかつく」
どこかで聞いたような台詞だ。咲はあわてて謝る。
「ご、ごめんなさい」
「……、べつに謝ることはねえ」
はあ、と息を吐いて草太は空いたほうの手を伸ばしてくる。が、なにかを思い出したようにポケットからハンカチを取り出して手を拭いてから、もう一度、咲のほうへと手を差しのべた。その手が、咲の手を掴む。
冷たい感触と、ふいに触れられたことにびっくりして目を見開く。草太は咲の手を掴んだままふたたび歩きはじめる。今度は小走りになることはない。咲の歩調に合わせてくれているのだと気付く。
手を繋ぐというより手を引かれて歩いているといった具合だったが、恥ずかしさよりも嬉しい気持ちが勝って、思わず草太の手をぎゅっと握り返した。歩きながら草太がちらりと咲を見下ろす。ふにゃりと笑う咲を見てすぐに目を逸らし、口のなかでなにやら悪態をつく。掴まれていた力が緩み、手を振りほどかれるのかと思ったが、草太は咲のてのひらと自分のてのひらをぴたりと合わせると指を絡めてきた。
もうどう見ても、手を引かれているのではなく、繋いでいるといっていい。今さらながら、頬がかっと熱くなるのを感じた。寒くて息が白く染まるくらいなのに、首からうえだけが異様に熱い。
沈黙が続く。
草太は自分からはあまり話をしない。一緒にいるときに咲に対して、足許をよく見ろだとかよそ見するなとか、好き嫌いせずに野菜も食えだとか、そういう小言めいたことを口にするくらいで、自分のことは話さない。もともとそうだったのだけど、草太と、その、今のような関係になってから、咲はあらためてそれを感じるようになった。
「草太くん」
手を繋いで、半歩遅れて歩きながら話しかける。草太は視線だけで返事をする。
「部活、入ってたんだね」
「ああ」
なんだそんなことか、というふうに草太は短く答える。それ以上、話すつもりはないらしい。咲はうつむくと、交互に動く自分の足を見つめてつぶやく。
「知らなかった」
草太はびっくりするほど咲のことをよく知っているのに、咲は草太のことをほとんど知らない。とくに、学校のこととなると、なにも知らないといっていい。
視線を感じて顔をあげると、草太がまじまじと咲を見つめていた。
「草太くん?」
「知りたいなら聞けばいい」
ぶっきらぼうにそういうとふいっとまえを向いてしまう。咲はきょとんとする。それから、そうか、聞いてもいいのか、と思った。
子どものころからずっと、家族に対していいたいこと、聞きたいことを言葉にできず、全部呑み込むのがあたりまえだと思っていたので、そのくせがついていた。
そうか、聞いてもいいのか。胸のなかでそう繰り返す。頬に火照りを残したまま、咲ははにかむように笑いながら隣の草太を見あげた。
「草太くんのこと、もっと知りたいです」
繋いだ手をぐっと握りしめられて咲は目を見開く。草太はそっぽを向いて長い長いため息をつくと、低い声でつぶやいた。
「おまえほんと、タチ悪い」
「えっ」
「いちいちかわいすぎてなんか腹立つっていってんだよ、くそっ」
「え、ええっ」
思いがけない草太の台詞に動揺して、咲は赤くなったり青くなったりと忙しい。草太の口から「かわいい」という言葉が飛び出すと要注意だ。そのうえ、腹が立つ、とまでいわれてかなしくなる。
狼狽するあまり、繋いだてのひらにどっと汗がにじむのがわかる。あわてて手を離そうとするが、草太がそれを許さない。とにかく今は手を振りほどこうとじたばたする咲をしっかりととらえたまま、意地の悪い顔をした草太がからかうようにいう。
「おまえ、すげえ汗」
「だ、だって草太くんが」
「おれがなんだよ」
繋いだ手にすっかり気を取られて、アパートのまえまで帰ってきたことに咲はまだ気付いていない。
そのまま草太に手を引き寄せられ、電柱の陰、塀に背中を押しつけられる。そうして逃げ道を塞ぐように、顔の横に草太が手をつく。驚いて目を見開いた咲が声を発するより先に、その唇を草太が塞いだ。
頭のなかが真っ白になる。
キスをされるのははじめてじゃない。今までにも何度か経験したことがある。だけどそれは、玄関や部屋のなかでのことで、こんなふうに人目につく場所でされたことはない。いくらあたりはすでに暗いとはいえ、街灯などのあかりで姿は見えてしまう。いちおうは陰に隠れているものの、電柱のうえにはその街灯がついているのだ。
空いたほうの手で必死に草太の胸を押し返そうとするが、びくともしない。草太は一度、唇を離したあと、また角度を変えて咲の口と抵抗を封じた。
ふと、ひとの気配がしたかと思うと、あどけない声があたりに響いた。
「さきちゃん、ちゅーしてる」
「こら、健!」
あわてたような女性の声がたしなめる。咲とは違う意味で口を塞がれたのか、子どもがもごもごとなにかを訴えるような声が聞こえてくる。
ようやく草太が顔を離す。
解放された咲はあわあわしながら、声がしたほうを見た。少し離れたところに、隣人の秋吉夫人とその子どもが佇んでいる。正確にいうと、秋吉夫人は身を屈めて、足許にいる小さな息子の口を手で覆っている。
咲は口をぱくぱくさせて隣人を凝視する。そんな咲に困ったように笑いかけて、秋吉夫人はのんびりといった。
「ごめんなさいね、せっかくのところをお邪魔しちゃって」
嫌味ではなく、ほんとうにすまなそうにいわれてしまい、咲の羞恥心が一気に限界を超えた。
「そ」
顔を真っ赤にした咲は涙目になりながら叫んだ。
「草太くんのばかああああ!!」
呆気に取られた草太の手を振りほどくと、いつもの咲からは考えられないような素早さでアパートの外階段を駆けあがり、ポケットから鍵を取り出してドアを開けると玄関に滑り込み、内側から鍵をかけた。真っ暗な玄関にずるずるとしゃがみ込み、両手で顔を覆い隠す。すぐにドアの向こうに気配がして、外側からドンドンと叩かれた。ドアに背中をあずけていた咲はびくっと震えて身体を強張らせる。
「咲、開けろ」
ドア越しに聞こえる草太の声に、頭のてっぺんから湯気が出そうなほど顔じゅうが真っ赤になるのがわかる。沸騰しすぎて、頭がぼうっとしてきた。
「悪かった。咲、開けてくれ」
しばらくドアを叩いていた草太の言葉が、開けろという命令形から懇願めいたものに変わる。
そろそろドアが壊れそうだし、なにより近所迷惑だ。
そう思うのに、呆けたようになって身体が動かない。見兼ねたのだろう、秋吉夫人が草太になにかいっているのが聞こえてくる。
ようやくあたりが静かになり、しばらくして、ふたたび草太の声がした。
「咲、悪かった。ちゃんと戸締まりして寝ろよ」
そのあと数分間、草太がじっと佇んでいるような気配がしていたが、やがて諦めたように去っていく足音が聞こえた。代わりに、秋吉夫人がドア越しに語りかけてくる。
「咲ちゃん、ほんとうにごめんなさい。風邪を引かないように、ちゃんとあたたかくして寝てね」
秋吉夫人はなにも悪くない。そういいたいのに、咲は身じろぎひとつできない。放心したようにへたり込んでいた咲は、ふいに寒気を感じてぶるっと震えた。上着を着ているとはいえ、冷たいコンクリートにずっと座っていたため、身体が冷えきっていた。
のろのろと立ちあがると、電気を点けて、靴を脱ぐ。
ついさっきまで草太と繋いでいた手も、今はもう、指先まですっかり冷たくなっていた。