第13話

文字数 3,153文字

 男は苦虫を噛み潰したような顔になり、そのまま黙り込む。それが気に食わなかったのか、草太がさらにいい募る。
「あんたこいつの父親なんだろ。それなのにあの女とグルになって、まだ子どもだったこいつを家から追い出したのか」
「草太」
 おかみさんがたしなめる。草太は舌打ちして男を睨めつける。その腕に支えられながら、咲はふるふると首を振った。
「草太くん、違う。お父さんは、なにも」
「なにもしなかったんだろ? 知っててなにもしなかったんなら同罪だ。見て見ぬふりは加害者と同じなんだよ」
 草太ははっきりといいきった。男は眉間に皺を刻んだまま低い声で弁解する。
「きみのいうとおりだ。だが、いいわけに聞こえるかもしれないが、私は知らなかった。いや、折り合いが悪いのはわかっていたが、小競り合い程度だと。まさかそんな、手を出すほどだとは思わなかった」
「手え出すだけが暴力じゃねえだろ!」
 間髪を入れずに草太が怒鳴る。本気で怒っているのが伝わってきて、咲はおろおろと草太と男を交互に見あげた。
 父親が、こうして咲のまえに現れただけでも信じられないようなことなのに、あれほど無関心だった、彼の妻と咲との関係にまで言及している。
 呆然としたまま動けない咲に代わって、成り行きを見守っていた小金井が声をかけた。
「まあまあ、店のまえではなんですから、場所を移しましょうか。ねえ、小川さん」
「は」
 好好爺といったふうの小金井ににっこりとうながされて、男は断れないとさとったのか、拒否することはなかった。
 店主が申し出る。
「それならうちにどうぞ。草太、みなさんをご案内して」
「ああ?」
 ものすごくいやそうな顔をしたが、草太はそれ以上不平をいうことなく、表に出ていた全員を連れて自宅に向かった。
 掃除が行き届いた居間に通された一同は、磨きあげられた木製の長机を囲んで座った。
 上座には男が通され、時計まわりに小金井、咲、向かい側に草太、おかみさんの順で、店主はひとりで店番をしている。
 それぞれのまえに熱いほうじ茶を運んできたのは草太で、茫然自失状態の咲の顔を冷やすために濡らしたタオルを用意したのも彼だった。
 話を切り出したのは年長者の小金井だった。
「申し遅れました。私は、咲ちゃんが住んでいるアパートの大家をしています小金井です。さて、前置きは抜きにして伺いますが、小川さん、あなたは先ほど、咲ちゃんと奥さんの仲がそこまで悪いとは思っていなかった、とおっしゃいましたが、高校に通う年ごろの娘さんが突然家を出て自立したことに、なにか思うところはなかったのでしょうか」
 穏やかな口調だが、痛いところを突かれたのだろう、男は罪人のように頭を垂れて訥々と答える。
「それは……。すでに娘からお聞きかもしれませんが、恥ずかしながら、私は前の妻、つまり咲の母親ですが、彼女に愛想を尽かされて、結果として離婚することになりました。咲は、妻によく似ていて、正直にいうと、顔を見るのがつらかった」
 びく、と身を竦めた咲を、向かいに座る草太がじっと見ている。咲は唇を噛んでうつむく。
 父親から疎まれていたのはわかっていたが、面と向かってそれを聞かされるのはやはりショックだった。
「だから、娘が家を出るといったとき、ああ、やはり咲も私を捨てるのだと思った。母親と同じように」
「え」
 思いがけない言葉に、咲は伏せていた顔をあげる。男は、父親は咲を見ていた。
 咲が父親を捨てる?
 そんなことはありえない。
 捨てられたのは、いらないのだと思われていたのは咲のほうなのに。
「奥さんとの折り合いが悪いせいだとは思われなかったのですか」
「それも、原因のひとつかもしれないとは思いました。ですが、妻は、私のまえではそんなそぶりは見せなかった。だから、そこまで辛辣な真似をしていたとは知らなかった」
「じゃあなんで今になってのこのことこいつのまえに現れたんだよ」
 食ってかかる草太に、男は少し躊躇したあと、いくぶん疲れたような顔をしていった。
「息子が、あれはいま小学二年なんですが、ひと月ほどまえに突然、私に、妻が咲にしたという所業の数々を打ちあけてきて」
「えっ」
 声をあげた咲に、男は微かにうなずく。
「息子はほとんど言葉を話さない無口な子どもで、なにを考えているのかわからないところがあった。それが余計に、妻が過保護にする理由でもあったらしいが……。それが突然、おとなのような流暢な言葉で理路整然と、妻の行為を告発してきた」
 先ほどの聖夜のふるまいを思い浮かべたのだろう、おかみさんと小金井は「ああ……」とうなずき、草太はますます仏頂面になり、咲はただぽかんとした。
「驚いた。いや、息子の言葉もですが、その内容に驚いた。息子はほとんどの時間を妻とともに過ごしてきた。だから、私が知らなかったこともすべて、あの子はずっと見ていたんです。だが信じられなかった。そんなことがあったなら、なぜ咲は私にそれをいわなかったのか」
「いえるわけねえだろ。こいつが訴えたところで、あんたは聞く耳を持ったのか?」
 草太の台詞に、男はぐっと言葉に詰まる。
「息子にも同じことをいわれた。咲にいわれても私は信じないだろうと。だから自分がいうのだと、聖夜は、息子はいいました」
「それで、奥さんにそのことを?」
 おかみさんの問いに、男は重々しくうなずく。
「妻は、そんなことはないといい張りました。どこまでいっても平行線で。ちょうどそのころ、その、妻の妊娠がわかりまして。まだ安定期に入っていない妻にそれ以上強くいうこともできず」
「妊婦があんな靴履いて車乗りまわしていいのかよ」
 呆れたようにつぶやく草太に、おかみさんと小金井がうんうんとうなずいた。
「こども?」
 咲の声に、全員がはっとした。
「ああ。今年、おまえに弟か妹が生まれる。おまえがどう思うかはわからんが」
「そういういいかたはねえだろ」
 草太がいい返すと男は気まずそうに顔を背ける。
「そうつっかかるなよ。このひとだって、悪かったと思ってるからこうしてここまできたんだろ。なあ、小川さん」
 一気に砕けた口調になったおかみさんにたじろぎながらも、男は「はい」と応える。
「変装までしてな。最初見たときはてっきり変質者だと思って追いかけちまったぜ」
「は?」
 変質者、という単語に、咲と草太は顔を見合わせる。草太が顔をしかめて聞き返す。
「まさか、サングラスにマスクに毛糸の帽子っていうもろに変質者か犯罪者みたいな格好でアパートのまえをうろついてたのは」
「なんだ、知ってたのか。このひとだよ。咲ちゃんのようすを見るために、わざわざ悪目立ちする変装までして、うちとアパートを覗きにきたんだってさ」
「ええっ」
 びっくりして咲はのけぞる。
 以前、秋吉夫人が見かけたといっていた変質者は、咲の父親だったのか。
 男は悪事がバレた子どものように首を竦めて「ああ」とか「いや」とかもごもごと呻いている。
「紛らわしい格好してんじゃねえよ! 変装するにしてもなんかもっとこう、ほかにあるだろうが!」
 身を乗り出して怒髪天をつく勢いで怒鳴る草太に、男は厳めしい顔つきで反論する。
「あいにく私はそういうものに疎いので」
「そういう問題じゃねえだろ!」
 あーもう、と髪を掻きむしりながら草太が苛々と舌打ちする。
 咲はずっとぽかんとしっぱなしだった。あの気難しい父親が、咲のようすを見るために慣れない変装までしてきてくれたのだ。
「う」
 ぼたぼたと涙があふれて膝のうえに落ちる。
「な、」
 それに気付いてだれより動揺したのは上座に座る男だった。
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