第8話

文字数 3,317文字

「おまえ、なんかあったのか」
 その夜の帰り道、隣を歩きながら草太がいった。
「えっ、な、なんで」
「思いきり挙動不審じゃねえかよ。なにがあった」
 夕方、木下が帰ったあと、咲は頭のなかがぐるぐるして落ち着かなかった。そのせいもあってか、揚げようとしたコロッケを落としてしまい、ひとつダメにした。おかみさんは怒らなかったが、食べものを粗末にしてしまい、咲はますます落ち込んだ。
 どうしてこんなにもやもやするのか、咲にもわからない。でも、このところの自分はなんだかおかしい。
「おいこら」
「はうっ」
 頬をひっぱられて足が止まる。
 街灯のあかりに照らされた草太はこわい顔をしていた。意地悪をしているのではなく、本気で機嫌を損ねたらしい。
「吐け」
 そういわれても、咲自身、はっきりとした理由がわからないのだ。ただ、いつからだろう、胸のあたりがもやもやして苦しくなることがある。食べ過ぎなのかと思って食事やおやつを減らしてみたが、いっこうに治まる気配はない。
 しかも、どうしたことか。
 草太の顔を、彼の姿を見るたびに、それが余計にひどくなる。もやもや、というより、どきどき、そわそわ、に近い。よく似たおかみさんのきれいな顔を見てもどきどきするけれど、それとは少し違うようで、咲は混乱のさなかにあった。
「だれかになにかされたのか」
 痺れをきらしたように低い声で草太が問う。
「へ」
 咲はきょとんとした。ようやく気付く。草太は、咲の身になにかあったのではないかと危惧しているのだ。
 あわてて首を振って否定する。
「違うよ、なにもない、大丈夫」
「大丈夫じゃねえだろ。じゃあなんでそんな顔してんだよ」
 ほっぺたをひっぱっていた指が離れたと思ったら、前髪を掻きあげられ額をあらわにされる。でこぴんがくる、と目を瞑って首を竦めるが、予想に反して痛みはない。おそるおそる目を開けて草太を窺うと、鋭い眼差しに射竦められる。
 こわい、と思った。
 草太が眉を寄せる。
 そのとき。
 微かに、声が聞こえてきた。空気に掻き消されそうなほどの、か細い鳴き声。
 咲と草太は目を見合わせた。張り詰めていた空気がふっと緩和する。あたりを見まわして、その鳴き声の発生源を見付けた。アパートのまえ。街灯を灯した電信柱の陰に、小さな段ボール箱が置かれている。
 ふらふらと近付いていくと、阻止するように腕を引かれた。振り向いた咲の横をすり抜けて、草太が先にそちらへ向かう。あとを追い、草太の後ろから箱のなかを覗き込む。
 箱いっぱいにタオルらしきものが敷き詰めてあり、そのもこもこの塊のなかから小さな頭を出した仔猫が必死に鳴いていた。
 咲は思わずしゃがみ込むと手を伸ばして仔猫に触れた。タオルにくるまった仔猫は、息を継ぐまもなくミーミーと鳴きつづける。仔猫なのは間違いないが、生まれたばかりというわけではないようで、ぱっちりと開いたつぶらな瞳で咲を見あげている。
「ど、どうしよう」
 だれかに、ここに置かれたのだろう。おそらく、そのだれかがこの仔猫を迎えにくることはない。
「どうしようもねえだろ」
 頭のうえからそっけない草太の声がした。
「え」
「このままほかのだれかに拾われるのを待つか、あんま気乗りはしねえけど、いったん保護して、引き取ってくれるやつを見付けるか」
 目を見開いた咲を無表情で見下ろして草太は淡々という。
「だって、このままって。こんなに寒いのに」
 おっかなびっくりという手つきでタオルごと仔猫を抱きあげた咲に、草太が舌打ちする。
「しょうがねえだろ。うちは食いもの屋だから動物は飼えねえし、いったん引き受けたら情が移る。手離すときに余計につらい思いをするだけだ」
「じゃあ、わたしが飼う」
「馬鹿野郎!」
 突然怒鳴りつけられて咲はびくっと身を縮める。
「自分の面倒すらろくに見れねえやつが動物なんか飼えるか」
 吐き捨てるようにいわれて、ぶわっと涙が込みあげてくる。
 草太のいうことはたぶん間違っていない。自分ひとりの食いぶちを賄うのがやっとという状態の咲が、動物の面倒を見るのは容易ではないだろう。だけど、必死に鳴いてなにかを訴える仔猫をこのまま放っておくことはできない。
 仔猫を抱きしめて泣きじゃくる咲を、草太は厳しい表情をして黙って見つめている。
「草太くん? 咲ちゃん?」
 少し離れた場所から聞き覚えのある声がふたりの名前を呼んだ。泣きながらそちらを見ると、アパートの部屋から秋吉夫人が出てくるところだった。外階段を降りてこちらへやってくる。
「草太くんの声が聞こえたから。どうしたの?」
 先ほどの草太の怒鳴り声が聞こえたのだろう。咲の腕に抱かれた仔猫を認めると、秋吉夫人はまあ、と声をあげた。
「捨て猫?」
「そうです」
 草太が返事をする。秋吉夫人は、仔猫に向けていた視線を草太から咲へと順に送る。それだけで、だいたいの状況を理解したらしい。
「飼うの?」
 単刀直入な問いに、草太は短く答える。
「いえ」
「そうよね。でも、このままだと猫ちゃん可哀想ね。昼間でも寒いのに」
 秋吉夫人は少し考え込んだあと、にっこりと笑って咲の顔を覗き込んだ。
「よかったら、私がその猫ちゃんを引き受けましょう」
「え」
 咲はびっくりして秋吉夫人を見つめる。
「うちで飼えるかどうかは大家さんに聞いてみないとわからないけど、もしだめなら、私の実家に連れていくわ。今は三匹、猫を飼ってるから、この子がうまく馴染めるかはわからないけど。でも、居場所ができるまでちゃんと面倒を見るから、安心して」
「いいんですか」
 草太が尋ねると、秋吉夫人は「いいのいいの」と鷹揚にうなずいてみせる。
「うちで飼えたらいちばんいいんだけど。健も喜ぶでしょうし。どう? 咲ちゃん」
「ほんとうに、いいんですか」
 鼻声で尋ねる咲にうなずいて、秋吉夫人は手を差しのべた。咲はためらったあと、そっと仔猫を手渡す。仔猫は盛んに鳴き声をあげながらもおとなしく秋吉夫人の腕に抱かれた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 咲は深々と頭をさげる。
「いいのよ。ちょうど明日はお休みだから、獣医さんのところに連れていってみるわ。任せて」

 *****

 隣の秋吉夫人と別れて、咲も自分の部屋までたどりつく。草太も黙ってついてきた。ドアのまえで、まだぐずぐずと鼻をすする咲に草太がいった。
「ほら、さっさと鍵寄越せ」
 咲の手から鈴のついた鍵をひったくるように奪うと、草太は鍵を開けて玄関へと咲を押し込む。そうして自分も一緒に滑り込むと、後ろ手に鍵をかけた。暗闇に金属音が響く。
 足の踏み場もないたたきで、おまけに真っ暗で視界がきかず、咲はほかの靴につまずいてよろけた。
「あ」
 強い力で引き寄せられる。そのおかげで転ばずにすんだ。すんだ、けれど。引き寄せられるまま、咲は草太の胸に密着するような格好になる。
「う、」
 草太の腕が咲の頭を抱き寄せる。ダウンジャケットに顔が押しつけられて息苦しい。
「泣くな」
 耳許で、草太がぶっきらぼうにいった。それを聞いたとたん、ふたたび涙があふれてきた。
「ふっ、う、……っぐ」
 必死に声を押し殺して泣く。泣きやまないとまた怒られると思うのに、止められない。草太がため息をつく気配がした。だが、それ以上なにもいわずに無言で咲の頭を抱く手に力を込める。
 そのまま、咲はしばらくのあいだ泣きじゃくった。どうして泣いているのか自分でもわからない。ただ、草太のいうとおり、自分は馬鹿だと咲は思った。なにも考えていない。その場の感情だけでやみくもに行動を起こしてしまう。
 家を出たときのように。
 あの仔猫を放っておけないと思ったけれど、ただでさえ草太の手を煩わせている咲が、ひとりで仔猫の世話を見きれるかどうかは疑問だった。秋吉夫人のおかげで、きっとあの仔猫は新しい居場所を見付けてもらえるだろう。よかった、と思う。
 だけど、自分があまりに情けなくて恥ずかしくてたまらなかった。
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