第15話

文字数 3,317文字

 目を覚ましたとき、咲はふかふかの布団に寝かされていた。自分の布団ではない。
 部屋のなかはほのかにあかるい。庭に面した掃き出し窓は、下半分が磨りガラスになっている。その向こうが妙に白い。
 咲はゆっくりと身体を起こす。額に濡れタオルがのせられていて、熱でぬるくなったそれが布団のうえにぽとりと落ちた。
 寝ているあいだにずいぶん汗をかいたらしく、いつのまにか着せられていたパジャマの襟元が濡れて冷たくなっていた。
 咲が寝かされていたのは、鹿島家のあの和室だった。いろいろなできごとが一気に蘇り、また顔が熱くなる。悶えていると、襖が開いておかみさんの顔が覗いた。
「咲ちゃん、よかった、気が付いたんだな」
 おかみさんは、店にいるときの格好ではなく普段着姿だった。状況がわからなくて、咲はおろおろしながらとにかく謝る。
「あの、すみません、ご迷惑をおかけして。お店は」
「大丈夫だいじょうぶ。なにも気にするこたないよ。悪いのはうちの馬鹿息子だからね。咲ちゃんは熱を出してひと晩じゅう眠ってたんだよ。寒いとこにいたし、いろいろあったからね。どれ、熱は」
 布団の横に座ったおかみさんが咲の額に手を当てて熱を計る。
「ああ、だいぶ下がったみたいだな。顔もあんまり腫れてないし。汗かいてるな、着替え持ってきてよかった。ほら脱がすよ」
 有無をいわさずてきぱきと着替えさせられ、咲はふたたび布団に寝かされた。
「あの、お店は」
「ん、ああ。今日は月曜だから咲ちゃんは休みだよ。あたしはもう少ししたら店にいくけど、ちょくちょくようす見にくるから、安心して寝てな」
「いえ、そんな」
「命令だからな。勝手に起きてうろちょろしたらあとでお仕置きするぜ」
「えっ」
 ぎゅっと絞った冷たいタオルを額にのせられて、咲は目を閉じる。
「おじや作ったけど、食べられそう?」
「今は、いいです。すみません」
「昨日から謝ってばっかだな。そんなだから熱が出るんだぜ。咲ちゃんが気を遣う必要なんかなんにもない。甘えてわがままいうのが今の咲ちゃんのやることだろ」
「え」
「子どもがおとなに遠慮すんなっていってんの。親父さんからも、咲ちゃんをよろしくって頼まれたからな。それなのにあの馬鹿、見境なくサカりやがって。とりあえず一発殴っといたから」
「ええっ」
 草太のことだろう。大丈夫だろうかと心配になるが、すぐに大変なことを思い出してますます赤面する。
「あ、あの、おかみさん」
「ん?」
「おっおかみさんは、その、草太くんが、あの、わたしを、えっと」
「ああ、あの朴念仁が咲ちゃんを好きだって話か? そんなの、あいつが中坊のころからお見通しだよ。ていうか、今まで気付いてなかったのは咲ちゃんくらいだぜ?」
「ええええっ」
「まあ、草太もあんなツラしときながらしょうもないヘタレで、口説き文句のひとつもいってなかったんだろ? 咲ちゃんが鈍いのはわかりきってるんだから、あいつがはっきりしねえのが悪い。そういうやつに限って、ちょっとしたきっかけでキレて暴走するんだよ。情けねえ話」
 おかみさんはため息をついて、腫れていないほうの咲のほっぺたをふにふにとつついた。
「いちおう、よそさまの娘さんを預かってるわけだから、手は出すなって散々釘刺しといたんだけど。まあ、万が一のときはもちろん、責任取ってうちの嫁にもらうつもりだから、もしなんかされたらすぐにいってきなよ、いいね」
「うああ」
 ものすごくきれいな笑顔でとんでもないことをいうおかみさんは、やっぱり草太の母親だとあらためて思った。
「咲ちゃんさ、まえに猫を拾ったんだって?」
「え、あ、はい」
 唐突に話が変わって、咲はきょとんとする。
「草太、あれですげえ動物好きなんだよ」
「え」
「顔に似合わず世話焼きっていうか、甘やかして、躾て、そうやってとことん面倒見るのが好きらしい。小学生のときはずっと飼育係だったんだ。ほんとはうちで動物飼いたいんだろうけど、あいつがまだ小さいころに、うちは店をやってるんだからペットは飼えないって、きつくいい聞かせたんだ。それに、動物を飼うなら、ほんとに最後の最後まで責任を持って面倒見ないとだめだろ。命を預かるってそういうことだ。それは人間も動物も関係ない」
 面倒を見れるかどうかわからない咲が仔猫を飼うといったことを叱られているようで、咲はしょんぼりとする。すると今度は、ふに、と頬をひっぱられた。
「あう」
「だから、あいつはたぶん、うちの店に関わる限り動物は飼わない。でも、それに不満はないはずなんだ。咲ちゃんがいるから」
「わ、わたし、ですか?」
「うん。あ、今の動物の話はたんなるたとえ話だから、べつに咲ちゃんを動物扱いしてるわけじゃないよ。ただ、あいつ、そういう性格だから、好きな人間の面倒を見るのが趣味みたいなもんなんだよ。それこそ小学生のころは、ほら、木下さんとこの誠くん、あの子と仲がよくてさ。誠くん、今はかっこよくなってるけど、小さいころはまるまるしててひっこみ思案で、意地の悪いガキどもにいじめられてて。草太、あたしに似て喧嘩だけはめっぽう強いから、いじめっ子どもを蹴散らして、おまけに誠くんにダイエットさせたんだよ。とにかく野菜を食えって」
 どこかで聞いた台詞だ、と咲は思う。草太は子どものころからあんなふうに世話焼きだったのか。あの人懐こい木下に親近感を覚える。
「友だちでもそんなんだったんだ。これが好きな女の子相手ならどうなるか、咲ちゃんがいちばんよく知ってるだろ?」
「う、」
「咲ちゃん、なにからなにまであいつの好みのどまんなかなんだよ。そりゃバレバレだっての」
『馬鹿なやつほどかわいいっていうだろ』
 草太の言葉が蘇り、咲はじたばたと悶える。
「そういうわけだからさ、もし咲ちゃんもあいつを憎からず思ってくれてるなら、あんな息子だけど、よろしく頼むよ」
「…………は、い」
 消え入りそうな声でうなずく咲に、おかみさんはにっこりと笑顔を見せた。
「ああ、また熱があがるといけない。邪魔したね」
 ほっぺたから手を離して立ちあがるおかみさんを、咲は呼び止めた。
「あの」
「どうした?」
「おかみさんは、どうして、最初からずっと、わたしにこんなによくしてくださるんですか」
 先ほどの話では、人間も動物も、命を預かるのは簡単なことではないと、そう聞こえた。下手すると厄介ごとを抱え込むことになりかねないにもかかわらず、咲を雇ってくれたのはなぜだろう。
 おかみさんはちょっと驚いたように目を見開くと、にやりと笑った。
「あたしがそうだったからだよ」
「え」
「あたしは若いころ、ちょうどあのときの咲ちゃんくらいの歳だったかな、やんちゃしててさ、帰るところもなくて自暴自棄になってたんだよ。金もなくてひもじくて、ふらふらしてたら、すげえいい匂いがしてさ。我慢できなくて近寄っていったら、見るからに人の好さそうな顔をした男が、揚げたてのコロッケをくれた」
「…………え、」
「それがうまいのなんのって。なんだこれって思って、気が付いたら手渡されるまま五個も食べてた。あの味は一生忘れない」
「そ、それって」
「ちょうど人手が足りなくて困ってたみたいでさ、コロッケのお礼に店手伝ってるうちに、看板娘になってたんだよ」
 おかみさんはいたずらっぽい笑みを浮かべて首を傾げる。
「だから、咲ちゃんが飛び込んできたとき、これはきっとなにかの縁だと思った。駆け込み寺みたいだよな、うちの店」
 そんな経緯があったのか、と咲はびっくりしながらも、おかみさんや店主の人柄とその厚意をあらためて感じた。
「ありがとうございます」
「お互いさまだろ、水臭い。咲ちゃんがきてくれてあたしも助かってるよ。おかげで退屈しねえし」
「うっ」
「ははは。そういうわけだから、ここをもうひとつの家だと思って、またいつでも戻ってきていいんだぜ。むしろ嫁にきな」
「そっそんな」
「草太に甲斐性ができるまでは正式な嫁入りはお預けだけどな。さて、いつになることやら」
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