第1話

文字数 2,410文字

 私と私の友人との出会いは、光が宙をたゆたう春の明け方のことであった。
 高校三年の冬、第一志望であった大学への入学通知を手にした私は、その年の春、一人暮らしの準備のためにと母と共に京都へやってきた。
 三月とは非常に中途半端な季節である。高校は卒業したものの、まだ大学には入学していない私は、なんとも不思議な身分であった。
 市内のビジネスホテルに宿泊しながら新天地の装備を整えていく。インテリアに拘りのない私は、「そんなことでは人を招くときに困るわよ」という母をよそに、調理器具や布団はホームセンターで、食器や掃除道具などは百円均一でまとめてそろえていった。
 そんな私の無頓着な性格のためであろうか。三泊四日の予定であったが、下宿先の準備は思いのほか早く終わった。母は京都にいる友人と観光をしてくるといって、四日目にはホテルのチェックアウトを済ませると、すぐに私と別れていってしまった。段ボール箱に四方を囲まれたアパートの一室で一人になった私は、はじめのうちは新居で荷物の整理をしていたがすぐに飽きてしまう。夕方になるととうとう痺れを切らし、箱をそのまま押入れの奥へとそっとしまい、家の外へと飛び出した。
 とはいえ、東日本育ちの私は、京都には小学校の修学旅行に来たくらいで、土地勘がほとんどなかった。
 とりあえずと近くの道をのんびりと歩いていると、街灯近くに看板が見えた。
 ――成程。今、私は「志賀越道」を歩いているのか。
 そこで初めて、自分が歩いていた道を知る。そのまま道なりに進むと大通りに出た。「白川通」という名前の道を左折し、「今出川通」との交差点につくと、銀閣や哲学の道への案内板が立っていた。
 ――ほぉ! こんなところにあの哲学の道が!
 私はその案内板を見たとたんに、一人、急激に興奮した。名前には聞いていたが、こんなところにあったのかという驚きと喜びが体中を駆け巡る。かの有名な西田幾多郎先生が、京都大学文学部で哲学を研究していた際に思索に耽るのによく歩いていた道だというのがその道の語源だとされる。別の大学とはいえ文学部に合格した私は、早くも一哲学者になったような心地であったのだ。
 西田先生が思索に耽った道というのは一体どういったものであったのだろうか。私は今出川通を太陽を背にして進みながら、わくわくとした気持ちを募らせていった。
 緑溢れる森のようなところであろうか、はたまた道の両脇に商店の立ち並ぶ賑やかな道であろうか。私は想像に胸を膨らませた。あの西田先生が愛した道なのだから、きっと佳景に違いないと。
 道なりに進むと、そのまま哲学の道へと通じる。道の入口へとさしかかった時、私は思わずため息をついた。
 ――あぁ、これはまた。
 感嘆したのではない。落胆したのであった。
 目の前に広がる光景は確かに風流なものであった。川(後から知ったのであるが、これは琵琶湖から引いた疎水であった)の両側には木が植わっており、ところどころにはカフェや雑貨屋が立ち並んでいる。その光景自体は、私が想像していたものと大きな誤差はなかった。
 しかし、それを覆い尽くすほどの観光客が、私の目には入ってきた。道一杯に広がっており、店先にも人は埋まっていた。
 どれだけ頭の中でそれらの人を消すようにと補完しようとしても限界がある。
 ――これは西田先生が見ていた景色とは違うはずだ! 
 私が見たいと望んでいた景色はこれではない、と。
 そう気が付いた瞬間、私は母親に電話をかけ、京都にもう一泊する旨を伝えた。この時には、私はもう意地になっていたのだ。何としてでも西田先生の見た景色を見ないと気が済まない。母は私の主張を呆れた調子で聞いていた。
 私は帰り道で見かけた小さな定食屋で夕飯を済ませ、下宿先へと戻る。三月末の京都は想像以上に寒暖差が激しく、底冷えがした。まだ電気の通っていない部屋ではストーブをつけることもできず、私はダウンジャケットを着て、毛布に包まって眠りについた。
 次の日、私は午前五時に起床した。部屋で吐く息は白く、着替えも持ってきていない私は昨日の格好のままで家の外へと出た。
 自販機で温かい缶コーヒーを購入し、カイロのようにダウンジャケットのポケットに、自分の右手と共にそれを突っ込む。私は昨日と同じように白川通を経由して今出川通へと向かった。案内板の前を通り、そのまま歩いていくと目の前に現れた光景は、昨日とはまるで違うものであった。
 辺りは静かで、店はこの時間から開いているところなどない。昇り終えようとしている朝日は水面で反射し、ふわふわと空気中に光の球が浮いているようであった。
 私はゆっくりと道を進んでいく。あぁ、きっと西田幾多郎先生の歩いたものに違いない。寒さが身を凛とさせ、目に飛び込んでくるのは鮮やかな情景。
 誰もいないこの道を、独り占めしているような優越感すらあった。
 しばらく歩きながら、あたりを見渡す。もう少ししたらこの辺りは桜が満開になるのだろうと思いながら、膨らんだ蕾の濃い色に見とれた。
 十分ほど、何もせずにぼうっとそうしていただろうか。日が完全に昇ったころ、蕾の先に私はふと、人影が現れるのを見つけた。なんだ、先客がいたのかと、私は複雑な気持ちになる。大切な宝物をそっと大事に学習机の下に隠しておいたのに、親に掃除のときに見つけられたようながっかりとした心地と同時に、同じ景色を見に現れた同士に出会えたような喜びを感じた。
 彼は私が進む予定であった先へといた。私はゆっくり近づき、そのまま通り過ぎる。
 私と同じくらいの年であるようだった。厚手のコートを身にまとい、私が通り過ぎる時には、彼もまた、同じように私を一瞥した。
 その後、私はそのまま哲学の道を下り、永観堂を観光してから大回りをし、白川通を北上して帰宅した。
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