第6話

文字数 5,942文字

 杞憂ではなかった。大学は中間試験の季節となり、私が図書館の横に併設されている自習室に籠っていたとき、一通のショートメールが届いた。
 宛先は朝永からであり、「テスト期間明けの放課後、十九時に正門で」という内容であった。
 あの阿呆、私がこの日都合が悪かったらどうするつもりだったんだ、と思ったが、実際に予定の無い私は、朝永の思う壺であったのだった。
 しかし、中間試験を何とか乗り切った時には、私の頭の中にはこのメールのことは完全に抜け落ちていた。最後の試験を終えた時にふと携帯電話を見返し思い出した私は、放課後を待って正門へと向かった。
 十一月も中頃になると、夜は十分に冷えこむ。暗くなった星空の中、私は思わずジャンパーの襟を正すようなそぶりをした。
 十九時も十分ほど過ぎた頃、朝永は現れた。
 「……悪い、遅れた」
 「あぁ、いつものとこか?」
 「いや、今日は別の場所にしよう」
 てっきり、しゃらくに行くものだと思っていた私は拍子抜けした。朝永は無言で歩いていくため、その後ろをついていく。
 朝永は大学を北上していった。歩いて五分ほどのとこにある「まどい」という店に迷いなく入っていく。
 その店は名前には聞いたことがあった。昔ながらの洋食屋があるが、男一人では入りにくい雰囲気であったため、訪れたことはなかった。
 店に入ると、品のよさそうな男性が席まで案内する。店内にはさほど人はいなかった。
 私たちはそそくさと注文を済ませる。
 ウェイターが運んできた水をすすっていたが、沈黙に耐え切れなくなった私は口を開く。
 「……試験はどうだったのだ?」
 「……あぁ、何とか乗り切ったさ」
 朝永は疲れた様な表情で言った。理系科目の得意な朝永は、文系科目はからきしならしく、私にノートを借りながら、何とか一般教養科目を乗り切る程であったのだ。
 「……そうか」
 それ以上きくことのない私は、再び口を閉じる。
 話があるからと呼び出されたわけだが、いっこうに口を開こうとしない朝永に私は不思議な空気を覚えた。
 そうこうしているうちに、料理がやってくる。二人とも一番値段の安いAセットである。
 小さなチキンカツにハンバーグ、白身魚のフライ、サラダが一皿に乗っており、ライスと食後のコーヒーがついている。我々は無言でそれらを食べた。
 食後のコーヒーが運ばれてくるまで、とうとう朝永は口を開かなかった。
 「そろそろ痺れを切らしているんだが」
 コーヒーの湯気が上へと昇っていき、鼻孔をくすぐる。私は一口すすった。
 一体私は何のためにここにいるのだ。
 「……悪かった」
 朝永も無表情でコーヒーに口をつけた。そこからしばらく再び無言が続いていたが、朝永は徐に口を開いた。
 「……正直、何から話せばいいのか、まだ迷っている」
 「順を追う必要はない。いいから話せ」
 私は少し苛々していたのもあり、彼を急き立てる。
 「私に飯をごちそうしてまで、話さなければならないことがあるんだろう?」
 「……待て、俺がいつ飯を奢るなんて言った?」
 割り勘に決まっているだろうと、朝永は当然のように言う。
 「……いいから、話しなさい」
 ため息をついた。これ以上、奢る奢らないの話をしてもしょうがない。
 私が朝永の方を見やると、彼はいつも通りの仏頂面の上に、困った表情を塗りたくったようになった。
 「……上手くは言えない。ただ……、彼女との付き合いが分からなくなってな」
 朝永は大きく息をついた。
 対して私はキョトンとした表情になる。
 「彼女とは……加世氏のことか?」
 朝永の言う「彼女」は、私がケサラさんを指すように、一般的な「she」であるから、それだけでは加世氏のことだとは判別がつかないのである。
 「あぁ」
 朝永は頷く。
 「加世氏のことが分からないなんて、今に始まったことではないではないか?」
 「そうなんだが……、いや、そういう意味じゃない」
 今までの加世氏の奇異さを思い出したのだろう。一瞬納得しそうになった朝永は、慌てて手で制す。
 「……いや、彼女との付き合い方というか、姿勢が分からなくなってな」
 私はますます分からない。むしろ加世氏と付き合ってこれまで悩んでこなかったことの方が、私からすると不思議なくらいなのに、何をいまさら迷うことがあるのか。
 「いや、そうじゃない。あいつがどうとかそういう問題じゃなくてな……」
 朝永は言葉を濁す。
 「加世氏には関係なくとも、何かあったのだろう?」 
 「まぁ、あったといえばあったんだが……」
 朝永はこう語った。先日、小学校の同窓会の案内が来たという。成人式で多くの人が帰省することを見越してのものだそうだ。朝永はすぐにその案内は「欠席」にして返信したという。しかし、その時ふと、小学生時代の初恋を思い出した。名前くらいしか覚えていない少女は、五年生の時に転校したとかで、勿論、同窓会に出席したところで会えないそうなのだが、一度思いだしてしまった気持ちはなかなか消えなかったらしく、今に至るという。
 「つまり、昔の初恋相手を思い出したことで、今の恋愛に冷めたとでも?」
 私はどうも納得がいかない感じであった。そういった白黒つかない事象は、朝永の方が嫌いであるはずなのに。
 「いや、別に冷めたわけではないんだが……、今のままでいいのかとなんだかこの頃考えるようになってしまってな」
 朝永もこの状況がどうにも気持ちが悪いらしい。思い切り顔をしかめた。
 「ほぉ……」
 私はこれ以上、何も聞くことがなかった。朝永が良く分からないというのだから、私に分かるはずもない。
 しかし、まるで……
 「まるで、『一人二役』のようだな」
 私は無意識のうちにそう呟いた。朝永は「え? なんだって?」と不思議そうに聞き返す。
 「江戸川乱歩の『一人二役』、だ。聞いたことはないか?」
 「江戸川乱歩って……モルグ街がどうとかっていう?」
 「それは、エドガー・アラン・ポー、な。江戸川乱歩は日本人の作家だ」
 「へー……。で、その話が何なんだ?」
 文学に疎い朝永には、ピンと来ていないようであった。
 「いや、何となく、その話のようだと思ってな」
 「どんな話なんだ?」
 私は話をかいつまんで話した。そこそこの金のある家の主人が暇を持て余し、変装をして自らの妻に疑似的な浮気をさせる話である。短い話で、私は短編集の一つとしてそれを読んだことを思い出した。
 「……で、それのどこが俺のようなんだ?」
 あらすじを聞いた朝永は、首をひねる。俺は時間もなければ金もなく、女遊びもしない、と。
 「いや……、どこがという訳ではないんだが、ふと、思いだしてな」
 確かに言われると朝永とは似ても似つかない。私も朝永の調子がうつったのであろうか。
 首をひねる私に対して朝永はため息をつき、ぐびーっとコーヒーを飲み干した。
 「……まぁ、話を聞いてもらえるだけで、いくらか楽になったさ」
 まったく浮かない表情で彼は言い、会計へと立ち上がった。きっちり割り勘して会計を済ませた後、店の前で別れる。
 なんとも妙な話である。なぜ、急に彼は不安な気持ちに掻き立てられているのか。
 しかし、私が何か言える話でもない。時間が解決する話な気もするが、解決しなかった時の末路も想像ができなかった。
 翌週の金曜日、私はいつものようにしゃらくで杯を交わした。加世氏の大学は中間試験中であり、彼女の姿は無かった。
 朝永の様子はいつもと変わりないようであり、私は少しほっとした。きっとあれは何かの思い違いだったに違いない。
 日付が変わるころに自然とお開きになったのだが、飲み足りなかった私と朝永は、彼の下宿先で飲みなおすこととなった。途中、スーパーに寄り、酒とつまみを購入し、私の家からわずかに北に行ったところにある朝永の部屋へと向かう。
 部屋は六畳一間。ついこの前出したばかりだというコタツに入り、机の上に調達した品を並べる。
 「コタツがあるとは、まったく羨ましいな」
 私はコタツに身を埋めて、しみじみといった。
 「お前の家にも買えばいいのに」
 そんなに高いものでもないぞ、と朝永は缶の中から、ノンアルコールのチューハイを選んで私に渡した。
 ちゃっかり自分はちゃんとアルコールの入ったハイボールだ。私は缶のプルタブを開ける。
 「母親から、一人暮らしをするにあたって、唯一言われたのだ。『あなたはコタツを持ってはだめ。自分をダメにする』と」
 まるで遺言のように言われたものだから、私は馬鹿正直にそれを守っている。
 「……まぁ、よくコタツでそのまま寝落ちるからな。自堕落な生活にはなる」
 朝永は思い当たる節があるのか、少し納得したようであった。
 「だけど、その誘惑に逆らえず堕ちていくのもまた、良いもんだぞ」
 「やめてくれ、話を聞くだけで誘惑に負けそうになる」
 私は思い切り顔をしかめた。そんなこと、想像しただけでも分かる。今ですらその温かみに包まれて心地よいのだ。微睡んだ中、そのまま夢の中へと浸かっていくのはもっと幸せであろう。
 「誘惑にも負けない、一人前の大人になった暁には、自分の稼いだ金でコタツを買うさ」
 私の壮大な構想を、朝永は「そうか」と話半分に聞き流した。
 ピーナッツやらあたりめやらと、つまみの袋を次々と開けていく。男だけだと体裁を気にする必要もないから、皿に移したりなどといった面倒なことはしない。取り出しにくい包装のものは、重ねたティッシュペーパーの上に乗せた。
 我々は時間も気にせずだらだらと飲み進めていく。各々が所属しているサークルの話やバイト先の話など、基本的に生活圏が全然違うため、話が尽きることはない。
 三時もまわったころ、私は缶を片手にうつらうつらとしていた。細くなった目で隣を見やると、朝永もピーナッツを片手に突っ伏している。
 机の上には何個も積み重なった空き缶と、中途半端に残ったつまみ類。
 「……」
 私は徐に立ち上がり、トイレに向かった。用を足し、戻る時に私は朝永の横をそろりと通る。
 その時、ふと壁の本棚に目がいった。思わず息をのむ。熱力学や線形代数学といった呪文のような言葉が並ぶ背表紙群の中に、私は見知ったタイトルを見つける。
 「……見つけたか」
 いつの間にか朝永は起き上がっていた。眠い目をだるそうにこすりながら手に持っていたピーナッツを口に運ぶ。
 「……もう、読んだのか?」
 私はその本を棚から取り出した。『江戸川乱歩全集』と書かれたそれをぺらぺらとめくり、目次を探す。そこには『一人二役』も収録されていた。
 「それ一冊見るのに土日をまるまる使った」
 その時のことを思い出したのか、朝永はわずかに顔をしかめる。
 「で、どうだった?」
 私は朝永に感想を聞いた。
 「読書をしたのが高二の夏の読書感想文以来だったから、疲れた」
 「読んだ感想を聞いているのではない。内容の感想を聞いているんだ」
 私はため息をついて自分の席へと戻る。わずかに残っていたノンアルコールのビールを飲みほした。
 朝永はその間、何やら考え込んでいたが、決心したように、
 「……俺も、一人二役をしてみようと思う」
 と、言い切った。
 私は、目をぱちくりとさせた。酔いも眠気も一気に飛び去ったようだ。
 「俺は内容の感想を聞いたんだが」
 質問の答えになってないぞ、と思い切り顔をしかめる。珍しく朝永が本を読んでいたから、共通の話題で語り合えると心を躍らせていたものであったのに。
 「つまりだ、一人二役を自分もしてみようと作品を読んで感じたんだよ」
 朝永の表情は変わらなかった。いつもの仏頂面で、本気なのか冗談なのか分からない。
 「……それは、主人公に共感したということなのか?」
 「いや? 主人公の男のことは、正直理解できなかった」
 暇も金もあるなんて正反対過ぎて想像ができない、と真面目に頷く。
 「じゃぁ、なぜ……」
 朝永の言葉が足りないのはいつものことであるが、こればかりは私も理解できない。
 「お前は自分の頭の中で論理が成り立ちすぎている。その上、出てくる言葉はその論理を通り越して結論だけなものだから、訳が分からん」
 もっと順を追って話せ、という私に朝永は無言ですっと起き上がった。
 こちらも酔いは十分に醒めたのか、確かな動きでクローゼットの中から一つの紙袋を取り出す。
 机の上の食べ物を一つの袋にまとめて入れると、朝永は空いたスペースにその紙袋を置いた。
 「……これはなんだ?」
 朝永は私の質問には答えず、次々とその中身をだした。
 「これは……」
 「いわゆる、変装道具だ」
 それは、洋服に靴、鞄、小さなガラス小瓶と普段あまり朝永が持ちそうにないような趣味のものであった。
 「もう、そこまで準備をしているのか」
 私は感心を通り越して、呆れてしまった。私が一人二役の話をしてから、二週間もたっていないのだ。
 「他にも色々調べたぞ。人の特徴は眼鏡があるとか大きなほくろがあるとか、一点に集中しやすい。だからそれらを消し、新たな特徴を作るだけでも印象は大きく変わる、とかな」
 「……朝永」
 「ん?」
 「お前、この状況を楽しんでいるだろう?」
 「分かるか?」
 朝永の目は、以前会った時に比べて生き生きとしていた。もともと研究者気質な性格だ。一つ一つの疑問を解決していくのが楽しいのであろう。
 同じように私も少し興奮していたのは否定できない。何か面白いことが始まるようなそんな前触れがする。
 「あの主人公の性格は、正直、理解ができない。……だが、現状に漠然とした不満があり、それを打破するために行動を起こそうとした気持ちはよく分かった」
 「……」
 「……別に、彼女を騙そうとしているわけではない。早々にネタ晴らしをして冗談で済ませる。ただ……何か行動を起こすことで今の不安感が取り除かれる気がするんだ」
 何もしないよりかはいい、と朝永は言う。
 この一週間ほどで、彼の決意は定まったらしい。そして、私は唯一、それを知るものとなった。
 「……決めたんだな」
 「あぁ」
 「そうか」
 私は否定も肯定もせず、ただ頷くことで、朝永の背中をわずかに押した。
 日は既に昇りだしており、外からは鳥の声が聞こえる。
 私たちは一日が始まる前に、新たな計画の始まりを迎えた。
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