第3話

文字数 2,611文字

 それから暫くのことは、とりたてて書き留めることはない。一つあるとすれば、私にささやかな同居人ができたことであろうか。
 その日、私は散々な目に合っていた。自転車のチェーンが外れて大学に歩いて行かなければいけない羽目になる、そのせいでレポートの提出〆切に間に合わなくなる、その後家に帰ると台所の配管から穴があき水漏れがする。このようにいくつもの不運が同時多発的に起きたのであった。
 不運は思いがけず重なるようだが、嘆いたところで独り身の私を誰かが助けてくれるわけでもない。私は無心で自転車を修理し、教授にレポートを受け取っていただくよう嘆願し、大家に相談して工事をお願いした。
 短期での生協の品出しアルバイトも終え、その日帰宅したのは日付も変わりそうなころであった。
 次の日の講義は午後からであるから、急いで眠る必要もない。私は疲れた体を引きずり、ぼんやりとベランダに出た。秋寒に身を縮こませながら淹れた番茶をすする。
 ――こんな時に、誰かが隣にいたら、笑い話になるのだろうか。
 私は深くため息をついた。いつもはなんとも思わない独り身も、いざという時には染み入る。
 「ペットでも買おうか……」
 一瞬そう考えたが、大学生では世話代も馬鹿にならない。
 「都合よく癒しが欲しいなど、我儘な話だな」
 「ほんとに。でも、心が疲れた時はそう思うこともあるよね」
 「全くだ。普段はそんなこと思いもしないのだから、偶に愚痴を言うくらい許されるだ……ん?」
 私は一体、何と話しているのだ。
 辺りを見渡す。東は大文字山がそびえたっており、西は住宅街。何処もひっそりとしており、人影はない。
 「そうそう! ちょっと文句言ったくらいで性格悪い奴だとかいちいち言わないでほしいよね!」
 声は私のすぐそばから聞こえた。幼い少女のような、鳥が歌うような柔らかい声である。しかし、いくら目を凝らしても何も姿は見えなかった。
 「こっち! もうちょい下!」
 可愛らしい声は少し拗ねたように声をあげる。
 私はアパートの下を見下ろした。車が数台通っているだけの寂しい風景である。
 「ちがう! 手前だよ!」
 「ん、手前……? うわっ!」
 私が湯飲み置きにしていた物干し台に、ちょこんと座っていたのは、白くて丸い物体であった。
 「もうっ、どんくさいんだから」
 手のひらサイズのそれは、怒ったようにぷくーーっと頬を膨らませる。否、厳密にいえば、頬というよりも体全体が膨張していた。まんまるだから、どこまでが顔でどこからが身体であるのか。そもそも手足すら見当たらないのだから、顔や体という区別自体ないのかもしれない。
 「そんなだから、一人さみしくしているんじゃないの?」
 「随分と失礼な奴だな。人のうちに勝手に入っておいて何を言っている?」
 私は恐る恐る白い物体に触れた。小さな目はついており、ぱちくりとさせる。
 「ちょ……、レディに気安く触れないでよ」
 そうか、こいつは女性なのか。
 「……それは失礼。だが、君は一体何者なのだ? こんな夜分に男の家を訪れるなど、それこそレディとしては少々ふしだらではないか?」
 「……だって、こんな寒い日に外に出ているのなんて、あなたくらいなんだもの」
 これでもちょー我慢してんだから、とぷいっと横を向く。身体が膨れたり元に戻ったりしてなんとも面白い。
 私はくすりと微笑んだ。
 「行く場所がないのか? 一晩で良ければ泊まっていくかい」
 「……なにもしない?」
 「そんななりで、何をされるっていうんだい」
 「男はそういうもんだって、前の主人が言っていたのよ」
 「ほう、君は以前、別の人の元にいたのか」
 私は妙にませた彼女を手の上に乗せる。ふわりと綿毛のような軽さで、微かに温かかった。片手に彼女、もう片方に湯飲みを持って部屋へと戻る。
 二つとも勉強机の上にそっと置くと、私は冷蔵庫の中から母親から仕送りで送られてきた菓子箱を取り出した。中身はそのまま冷蔵庫に残して、箱にタオルを敷き詰める。
 「これで、寒さもしのげるだろう」
 箱の中に彼女を入れてやると、ジャンプをするように少し体を揺らした。
 「うんうん、なかなか!」
 「お気に召したようで何よりです」
 私は苦笑いをした。
 その後も彼女はその場所が気に入ったのか、私の家に留まり続けた。図書館で調べたが、どうやら彼女は『ケサランパサラン』と呼ばれる架空生物に非常に似ている。その綿毛のようなフォルムはまさに本に描かれている通りであった。
 しかし、それを当人に訊ねると、
 「んー、よくわかんない。いろんな人の家にいたことあるけど、いろんなよばれ方されていたから」
 「『ケサランパサラン』って幸福をよぶ生き物だってきいたが、君は何かできるのかい?」
 んー、と彼女は身体を傾ける。
 「きみが来てから、ちょっと枝毛がすくなくなったっていわれたことある」
 「……うん、分かった。もういいよ」
 どうやら決まった名前も自分の正体もいまいちわかっていないらしい。
 「食べ物は? これまでどうしていたんだ?」
 「基本、なんでもたべられるけど、いちばん好きなのは、しろい粉かな。前、住んでたおんなの子のやつすごいよかった」
 「あぁ、おしろいね」
 成程、彼女のこの話し方は、以前の主人である女子高生の教育ならしい。ケサランパサランがおしろいを好むというのもどこかの本で読んだことがあった。
 「じゃぁ、用意しておくよ」
 「えっ、いいよいいよ。女のかげもないこのへやには、ふつりあいでしょ」
 「君、ちょいちょい失礼だな」
 私は後日、薬局でベビーパウダーを購入した。彼女の住みかとなった菓子箱にそれを小皿に乗せて入れてやると、彼女はその中にダイブする。
 「ふふふっ!」
 気持ちよさそうにその上をごろごろしながら、粉まみれで満足げに微笑んでいた。
 私は小皿の上のパウダーを追加してやる。
 「……名前、ケサラさんとかでいいですかね」
 「んー、ひねりはないけどいいと思うよ」
 「……うん、ありがとうございます」
 かくして、私に少々手厳しい同居人ができたのであった。しかしどうやらケサランパサランの存在は他の人にあまり知られない方が良いらしい。私はひっそりと、彼女を育てることに決めた。 
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