第12話

文字数 5,995文字

 翌週の金曜日、私はサークルの例会があったため、八時ごろに遅れてしゃらくへと向かった。
「今日は、“サラダ”を定義してみようか」
 着いて早々、そう言ってきたのはつばくろさんであった。今日も新宮大先生の姿は無く、つばくろさんと朝永、加世氏の三人で飲んでいたようであった。
 どうやら、加世氏のマシンガントークにげっそりとしていた朝永をみかねて提案したようである。
 私はガタイのよいマスターに注文をし、自家製の梅酒を持ってきてもらう。お湯で割ってあるから、夜風で芯まで冷えた身体に染みわたる。
「定義するとは、どういうことですか?」
 加世氏は小首をかしげる。その横にはゆず、かぼちゃ、くり、キウイと可愛らしいフォントで書かれた瓶が並んでいるが、アルコール度数はそこそこ可愛らしくない。
 私の目線で気づいたのか、加世氏はにっこりと微笑んで解説する。
「和リキュールです。奈良県吉野の酒屋さんが発売されているシリーズなんですよ」 
「和ということは、元の酒は日本酒や焼酎ということなのかい?」
「ご名答ですっ。でも果実がかなり濃厚に入っているので、女性にも飲みやすくなっています」
 普段から日本酒をがばがばと飲む加世氏が言っても、何の説得力もない。しかし、加世氏の持つグラスにはしっかりとキウイの果肉が見えるのだから、確かに濃厚なのだろう。
「あとでマスターがアイスクリームにかけて持ってきてくださるそうですよ!」
 ほくほくと嬉しそうな表情でいう加世氏に、私は苦笑いをした。ここのマスターはなんだかんだ言って女性客に甘い。
――……頼むから加世氏にこれ以上酒を与えないでくれ!
 私は同じことを考えているであろう朝永と目を合わせて、ゆっくりと一回、悲しげに頷いた。
「……で、“サラダ”を定義するとはどういうことです?」
 これ以上加世氏の横に並ぶ酒瓶を直視できない私は、話を戻した。
 つばくろさんは「あぁ」と頷く。
「言葉の通りさ、“サラダ”という言葉の意味を定めるのさ」
「……つまり、『……は~である』と、一意に決められるように説明せよ、ということですか」
 理系の朝永はボソリと訊ねる。彼のイメージしたのは数学の教科書にあるような定義であるようだ。
「さすが、話が早いわね。そう、定義をするということは、ある言葉について人々が共通認識を持てるように説明することよ。例えば、朝永君、“二等辺三角形”を定義すると?」
「二辺が等しい三角形」
「……成程」
 私と加世氏は納得したように頷いた。要は、“サラダ”というものを厳密に説明すればよいのだ。
「ということは……『生野菜をドレッシングで和えた冷たい料理』。……いえ、これだとおかしいですね」
 加世氏はブツブツと呟く。
 そうなのだ。『生野菜』としてしまうと、「温野菜サラダ」や「ゴボウサラダ」が矛盾していることになる。
「生である必要はないのではないのだろうか? いっそ、『野菜をドレッシングで和えた料理』で良いだろう」
 私の言葉に、今度は朝永が反論する。
「それもおかしい。じゃぁ、「マカロニサラダ」や「フルーツサラダ」はどうなる?」
「私はあれをサラダと認めたことはない」
「そういう問題じゃないだろう」
 朝永の言うことはもっともである。定義というからには、世にあるすべてのサラダに当てはまる必要があるだろう。
 加世氏はひらめいたようにポンと手をたたく。
「じゃぁ、『食材をドレッシングで和えたもの』で、どうでしょう?」
「その場合、マヨネーズはドレッシングに含まれるのかい?」
 つばくろさんは口を挟んだ。三人が悩む様子を、愉快そうに見ている。
加世氏は「うぐっ」と唸った。
「マヨネーズは……もはや日本では調味料でしょうか。でも、『食材を調味料で和えたもの』だと、胡麻和えなんかも含まれてしまうから意味が広くなりすぎてしまいます」
 加世氏は頭をひねって黙り込んだ。
 今度は私の番である。
「どういうものか、という観点ではなく、何を目的としたものかというので定義をしたらどうだろう?」
「ほう、というと?」
 つばくろさんは身をのりだした。私の話に興味を持ったというよりも遠くにあった枝豆を取るためである。
「例えば、『料理の副菜として作られる野菜を中心とした西洋の料理』」
「なるほどね。でも、副菜とはまた範囲の広いこと。例えばキャロットラペはラペという名前だが、これはサラダに含めていいのだろうかい?」
「日本ではサラダの一部といってもおかしくはないでしょう」
「そうかもしれないね。じゃぁ、カプレーゼは? あれも半分以上は野菜で構成されていると思うが」
「…………この路線はだめなようですね。抜け穴が多すぎる」
「悪くない発想だとは思うけどね」
 つばくろさんはにっこりと微笑んだ。最後は朝永の番だ。
 言葉を選ぶように一度、焼酎を口に含んだ後、ゆっくりとその口を動かす。
「……数学での定義は、一部の例外というのも認められる。『……は~である。ただし、――においては~である』、と。……だが、『食材を調味料で和えたもの』とすると明らかに例外が多すぎる」
 つまり、と朝永は言葉を続ける。
「つまり、これは数学や物理の定義と同じように扱うものではない。……ということだけは分かる」
 これ以上は俺の専門外だ、と朝永はあっさりと匙を投げた。
「ということは、また振り出しに逆戻りですね」
 加世氏は行き詰った問題に、困りきった表情をしていた。私も同感である。
「おや、本当にそうかい? 少なくとも、惜しい答えなら出ていたように思うが?」
 つばくろさんはニヤリと笑った。
「それは加世氏の言っていた定義のことですか?」
 私の問いに、愉快そうにつばくろさんは首を振る。かといって、私の定義では彼女のもの以上に抜け穴は大きい。
「いや、一番いい答えは朝永君さ」
「……俺ですか?」
 朝永自身が一番意外だったようで、わずかに眉をあげる。
「君が言ったように、これは数学や物理の定義と同じように扱うというのが、そもそも間違っているのさ。定義をする学問は、数学だけではないだろう?」
 朝永は暫く考えていたようであるが、徐に「……あぁ」と顔をあげた。
「……倫理学や自然科学、そして時にそれら全体を意味する哲学もそうか」
 それをきいて、私も少し納得した。確かに定義をする学問は無数にある。学問が変われば、“定義”に関する“定義”も多少変わってもおかしくはないのだ。
「そう。だから本来はこの質問は理系な朝永君以上に、文系の加世氏と櫻井君の専門分野のはずなんだけどね」
 私と加世氏は乾いた笑いを浮かべながらそっぽを向いた。
「私はイギリス文学専攻なので……」
「私は地理学専攻だから……」
「……あれだけ西田先生を尊敬していることを常日頃から強調していた癖に」
「……」
 私は無言でヒラメのカルパッチョをつまむ。今日は和リキュールを中心としているからか、つまみも洋風のものが多い。
「……それで、数学の定義ではないということは分かりましたが、そこからどういった話になるんですか?」
 私は何事もなかったかのようににこりと、つばくろさんに訊ねた。
 加世氏が肩を細かく震わせ、朝永がとても渋そうな表情をしているが、そんなことは気にしない。
「つまりだね、数学や物理学では、先程、朝永君が説明したように比較的厳密な“定義”が求められるんだ。だが、哲学における“定義”は微妙に違う。君らは“サラダ”を厳密に定義することはできなかったが、なんとなくどんなものかはイメージしているだろう?」
 我々は頷く。キャベツやキュウリ、大根などの野菜にツナやハム、ゆで卵などを添えて、ドレッシングやマヨネーズをかける。時には茹でたジャガイモで「ポテトサラダ」を作ることも、春雨を加えて「春雨サラダ」を作ることあるが、何も躊躇なく“サラダ”として食べていた。
「そう。哲学においては“定義”そのものの解釈が人によって様々だ。オーストリア出身の哲学者、ヴィトゲンシュタインは定義に用いる言葉そのものに疑問を持った。そもそも生まれてきたばかりの子供は、そのものがなんであるかを知るよりも前に言葉を知っていただろうか? いいや、子供は親がこれが“サラダ”だと何度も指し示すことによってそれらの中にあるルールから、“サラダ”を知っていくんだ。だから、きっと日本特有の「海藻サラダ」を見た海外の人たちは、それがサラダだということに、一瞬理解できないだろうね」
「……成程」
 我々は静かに頷いた。我々の周りにある事物すべてを、言葉で説明しようとするのは困難である。それを何とか頑張って説明しようとするのも哲学なのであろうが、説明できないものにはそれなりの理由があることを示すのもまた哲学ということなのであろうか。
「だから、私の答えに厳密に答えることができないとした朝永君が、一番近いということだよ」
 朝永は「……はぁ」と答える。そこまで深くは考えていなかったようで、一番近い回答だといわれてもいまいちピンと来ていないようであった。
 加世氏を黙らせるためのネタにしては、予想以上に興味深かった。私としてはもう少し話を聞きたいところであった。
「ところで、どうして急にそんな話になったんですか?」
「ん? まぁ、昔はよく飲み会の席でこういう遊びをしたからね。厳密に定義できないと分かっていても、何とか言語化するようにって考えるのは意外と楽しいだろう?」
 つばくろさんはころころと笑った。どこか昔を思い出しているようであった。一体、どれだけ昔の話なんだろうとは思ったが、女性相手に私はすんっと口をつぐんだ。
 確かに、ああでもないこうでもないと言葉一つ一つを吟味し、構築していく作業は暇つぶしとしては十分すぎるほどであった。
「……でも、結局は上手い説明はできないんだ。多様な文化や風習が邪魔するように、例外をどんどんを作り出していくからね」
「ポテトサラダ一つとっても、マスタードを入れる家庭もあれば、玉ねぎを入れる家庭もありますもんね」
 加世氏はうんうんと頷く。
「そう。つまりね、定義ができないということは、定義ができない我々がダメというよりも、その質問自体がよろしくない可能性があるっていうことなんだ。面白いわよね、それに気が付かなかったら、私は一生、“サラダ”を定義することに拘り続けたかもしれない」
 うんうん、とつばくろさんは頷いた。
「一生拘っていた方が飲酒量も減るのでは……」
「何か言った?」
「なんでもございません!」
 私はびしっと敬礼をした。
 いつだったかな、とつばくろさんは一度、柿のリキュールを口に含んでから言葉を続ける。
「人の縁というのもそんなもんなのかなって思うようになってね」
「え、真面目な話ですか?」
 あー、だめだ。私の言葉は、つばくろさんには届かない。いつもの加世氏の如く、言葉がするすると口からこぼれてとめどない。私も人のことを言えたものではないが、なぜ人は酔うとタガが外れるのか。
「『すべては必然で、偶然なんてありえない』っていう人いるでしょ? 確かに、そうなのかもしれない。でも、そう分かるのって結局、随分時間が過ぎてからなのよね。だからその質問には、『今』、真剣に考える必要性はないのよ」
 つばくろさんがそう考えるようになった過去を、我々は知らない。せいぜい五、六歳程しか違わないはずなのに、つばくろさんがずっと年長者のようだ。
「……人の縁といえば」
 加世氏は何かを思い出したのか、ぽんっと手を叩く。
「この前の学園祭で、不思議な出会いがありましてっ」
「ほう、それはどんなだい?」
 つばくろさんが興味深そうに相槌をする中、私と朝永はギクリと心臓を跳ね上がらせた。
 あー……、これは、ますますまずいぞ。
「はいっ! 私の演奏を大層褒めてくださって……、そんなこと初めてだったので、少しくすぐったかったです」
 加世氏はその時の状況を事細かに説明していた。先日の手作り市での話こそしていなかったが、それでも、私は彼女と目を合わせることができなかった。
「ふうん、熱心なファンもいるんだね。そういう人って多いのかい?」
「さぁ……、でも毎回のように演奏会に来てくださるお客さんなら、何人かいますよ」
 名前は分からずとも、そういう人の顔は覚えてきますよね、と加世氏は考える。
「他の大学のジャズサークルの人なんかも、お互いのコンサートに聞きにいったりするので、顔見知りも増えてきます」
「そっか。どんな人なんだい?」
「えっと……、浅井さんというのですが、うちの大学の美術サークルに知り合いがいる人みたいで、その人自身は私の大学の学生じゃないそうです。四回生で、昔ジャズをしていたそうで、音楽にも詳しいですっ。背が高くて、優しい、大人な雰囲気の方です」
 私は朝永の方をチラリと見た。思わぬところで別人格が褒めちぎられたからか、顔を手で押さえてこらえている。
 加世氏の語る浅井は、完璧な人間であった。朝永の思惑通り、朝永と雰囲気は似ていても、人物像にするととてもかけ離れている。
 あまりにも加世氏が浅井のことを褒めているため、つばくろさんは苦笑いをした。
「……いいのかい? そんなこと言ったら、朝永君が嫉妬しちゃうんじゃないのかい?」
「……いや、まぁ、俺は別に」
 その答えに、加世氏は「ふふっ」と微笑んだ。
「え……っ?」
――……今、誰のことを考えていたのだ?
 私は彼女の表情を見て息をのんだ。いつも見ていた笑顔が、水温む春の陽だまりのようであるのなら、今の彼女は羽化したばかりの蝶が飛び立つときのような、溢れる艶やかさがあった。
――……
 私は思いきりごしごしと目をこする。
「どうしたんですか?」
「……いや、なんでもないよ、加世氏」
 はぁ、ときょとんとしたような表情をした加世氏は、いつものようであった。
 つばくろさんはにこりと微笑んだ。
「今は不思議な出会いでも、何年か経ったときに良い出会いだって思えるものだといいね」
「……はいっ! つばくろさん!」
 加世氏は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃぁ、加世氏の素敵な出会いと、これからのご多幸を願って乾杯としようか!」
 乾杯する理由はなんでもよい、つばくろさんの合図で我々は杯を鳴らす。
 座敷は他の団体も相まって、熱気に満たされていた。しかし、どこからか隙間風が流れ込んでいるのか、膝のあたりがすくわれるような感覚が気持ち悪い。
 そうか、冬は既に来ていたのだ、と私は今更ながらに感じた。

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